浅井恵倫教授  

堀田喜久

  浅井恵倫教授  当南山大学の諸先生方の中で、異色な先生の名前をあげるとすれば、まず浅井恵倫教授が頭に浮んで くるのは、おそらく私一人ではあるまい。それほど異色中の異色である浅井先生について、 小生如き者が書くという事は非常に恐れ多いことであるが、今度ばかりはお許し願って、 先生のお人柄について書いてみたい。ただ先生の異色振りは読者諸氏が御存知の通りなので、 ここでは先生の知られざる面について述べさせていただく。

   私が初めて先生を知ったのは、旧校舎の研究所でインドネシア語の講義を聴講した時である。 当時の人類学研究所は静かで落着いた雰囲気をかもしだすヨーロッパ風の造りの建物であった。 インドネシア語の講義はその研究所の唯一の教室で行われ、変ったことには、講義の合間には 必ず先生のお買いになった菓子と紅茶が、大概は女子学生の手で出されたものであった。 冬になるとストーブの上にやかんを乗せて、何度も紅茶を飲み、或時は砂糖が切れて砂糖なしで飲んだ ことも幾度かある。講義というものがともすれば味気ないものになり易いなかで、 この講義だけは味のある、柔かいムードの中で行われ、 ふっとヨーロッパに留学している気分さえ起きたこともあるのである。

以前先生が住んでおられた鳴海の家には、移転の手伝いもあって三度ばかりお尋ねしたことがある。 スズメに餌をやるのだとおっしゃって、庭の囲いの上に米つぶの入った小さな箱が乗せてあり、 部屋の壁には平塚の家に飼ってある犬の写真が数枚はってあった。この事でも分るように 先生は非常に動物好きで、先生のこんなお話がある。或時先生が家にお帰りになると、 縁側で一匹の蜂が死にかかっていた。先生が砂糖水を作って飲ませてやると、 蜂は元気を取戻して飛立って行った。翌日先生が家に帰って着物に着替えたとき、 昨夜の蜂が着物の中に入っていてチクリとやったそうである。そこで先生は、 昨夜のお礼にきたのだろうけれども、いくら蜂だからとはいえ恩を仇で返すようでは、 と、泣き泣き殺されたそうである。そのお話を聞きながら、 井貝さんと既に卒業された鈴木洋子さんと小生とで、先生のお宅で豚肉の水たきを食べながら、 一献かたむけた思い出は忘れられない。

 愛知日本インドネシア友好協会という名の会が設立された時、自己紹介の席上で、 その日の気持をインドネシア語の詩を創って表わされたのには、小生のみならず、 その場に居合わせたインドネシアの人達さえもが驚嘆したものである。その意味で、 先生は言語学者だけでなく詩人でもあり、言語学者でもあり詩人でもあった E. Sapirに似ておられると言える。先生は何時であったか次のような恋いの詩を創られたことがある。 実に情熱的な詩である:

Kalu enkau mendjelma burung,

Terbang terus ke-pulauku,

Saja buat sarang jang harus,

Kita makan tjakap sama-sama.

最近先生は南山大学のすぐ近くに移転された。先生曰く「ウサギの家」で、 二間の中の一部屋を我々学生のために解放してくださるとのことである。 新校舎に移って以来、旧校舎でのような暖かい、味のある講義を受けることが出来なくなったが、 先生のおかげで再び生気を取戻したような気持である。

堀田喜久・記(3年 言語学) 南山大学 文化人類学研究会会報Vol.1 No.4 November 1965 (52〜53) に寄せられた一文。

ウサギの家での講義風景(1965年頃)   

  • いつものようにテーブルにはさまざまな食べ物が並べられ、 言語学の最新思潮などを講義された。その中には、当時アメリカでもてはやされはじめたNoam Chomsky のSyntactic Structures(1957)などがトピックスとして取り上げられた。
  • 【佐藤補】