浅井恵倫教授の追憶 【原題:懐念浅井恵倫教授】
衛恵林
(1970年1月14,15日台湾の新聞『中央日報』に掲載されたものの林衡立氏による翻訳)
先月、日本旅行から帰って来たばかりの台湾大学の同僚に会った時、浅井恵倫教授が十月に「入寂」されたという悲しい消息を始めて聞かされた。間もなく当地台湾で土着族の言語調査をやっておられる日本の言語学者土田滋さんの口からもこの事を確かめた。台湾の学術雑誌に、此の台湾研究に生涯の殆んど三分の一を捧げた世界的学者を悼む文を書くつもりであるが、その前にここに、氏の発病前1年氏と共にした名古屋での生活を中心として、外国人である私に寄せられた氏の友情、私にとって忘れられぬ氏の人となりを追憶したい。
私が浅井先生の死去を「入寂」というわけは、氏には仏寺の世襲住職という身分があるからである。氏がニューギニアで言語調査をされた時、調査の傍ら、行く先々でその地で戦没した日本兵の慰霊の為に引導を与えた事を、氏から聞いたことがある。ここに浅井氏の多彩な生活の一面が現れている。世間では氏がお寺の出であることを知っている人はかなり居るが、氏が権大僧正という高僧であることを知る者は少ない。そして、氏が二重国籍を持っていることを知る者は更に少ない。氏の御尊父はアメリカで多年布教に従事されていた、鈴木大拙師などもその時の協力者であったという。それで氏はかの地で生まれた生まれたのである。しかし、氏はこれによってconflict of interestが生ずることを好まない。氏の此の態度は徹底したもので、日本が敗戦して、氏が台湾から送還される時、自分の命のようにしていたフィールドワークの資料の大部分の持ち帰りを禁ぜられたことがあった。その時、氏が自分のアメリカ市民権を発動したなら、難なく解決が得られたところだが、氏はそれを色にも見せず、ついに利用されることがなかった。これは、ある夜氏と茶を啜り合って台湾でのフィールドワークの話をした時に、氏からそっと告げられたことである。
浅井教授は口癖のように言って居られた、自分には心を引かれる第2の故郷が2つある、その1つは台湾だ、と。氏は台湾で十何年という年月を調査研究に過ごされた間、好んで台湾の人々と隔意なく交わった。帰国されてからも台湾に関する関心が衰えない。氏のインドネシアに対する打ち込み方はもっと奥深い。氏とインドネシアの因縁は、氏若年において発生している。台湾よりも古い。氏は東京帝国大学ではインドネシア言語学を専攻され、卒業後、外語学校でインドネシア語の講座を開かれ、またオランダ、ライデン大学でインドネシア言語学の仕上げをされて、そこの博士号を持っておられる。それも日本の学界に先例を開いたものだった。インドネシアとライデンでの一年ずつの留学によって、インドネシア知識人の間に多くの友人を得ることになった。私は日本で氏と一緒に、日本民族学大会と第十一回太平洋科学会議に参加したが、氏はいつもインドネシアのスカルノキャップをかぶり、腰にサロンをまとって行かれた。それで、インドネシア各地から来ている人々の間に入って、デアバ語、マライ語、オランダ語を使い分けて賑やかに話し合って居られた。いかにも愉しそうであった。誤解して氏にインドネシアから来られたのですかと聞く者があれば、氏は笑いを浮かべてうなずいて見せるのだった。これに引きかえ、謹厳を侍する日本の学者の間では、あまりソリが合わないように見受けられた。
浅井教授の四海の内皆兄弟という態度は、氏の自由に駆使される多数の外国語により、遺憾なく発揮された。教授の外国語の会話能力は、この道に弱い日本人の中では、誠に抜群であった。英独仏3語はもとより、スペイン語、オランダ語、ロシア語、マライ語、
中国
南語が口
をついて出てくる。それで、国際会議の席上では、氏の活躍は誰よりも目覚ましく、誰よりも友達が多い。1966年の第十一回太平洋科学会議は開催地が日本であったので、どの部会も日本の学者がオルガナイザーになっていた。オルガナイザーは開会中は、座長の女房役として、活溌な意見交換を促す潤滑油のような役目を果たさなければならない。他の部会では、概してオルガナイザーは、口数が少なく、殆ど話をしないかった人が多かった中に、ひとり浅井教授の受け持った「ニューギニアシンポジウム」は、教授の座持ちよろしきを得て、談笑の声しきりに起こり、誠に和やかで賑やかな情景が展開された。
教授のコスモポリタンニズムを語った以上は、教授が日本で最も早くからエスペラント語の提唱をやった大先輩の一人だということを言い忘れてはならないだろう。エスペラント語運動は、今では各国で下火になっているが、教授はその終始かわらぬ熱心な指導者である。
浅井教授のされたフィールドワークの地は、東南アジアに広く亘り、最近ではニューギニアにも足を伸ばされた。滞在調査した村落の名を挙げるだけでも長いリストになるだろう。教授の専門についてはここに立ち入らないことにして、我々二人の間の交友関係を少し話して見よう。
浅井教授が台湾の土着族の言語を研究されていた時代は、日本の敗戦前で、私が台湾の土着族の民族学的研究を始めたのは戦後であった。氏が台湾に居られた時には、私はまだ中国大陸に居たし、私が台湾に渡った時には、氏の帰国後であった。それで長い間お近づきになる縁がなかった。我々が最初に会ったのは、1957年のバンコックの太平洋科学会議においてであった。双方から名乗り合って握手を交わし、早速共通の研究対象である台湾土着族の話をしたことを憶えている。その後は論文のリプリントの交換という淡々たる交わりが続いた。3年前、私は国外研究補助費を得たので、学生生活を送ってからは1度もその地を踏んでいない日本を訪れ、其処で研究期間の一年を過ごしてみたいと思った。丁度旅行で日本を通過する共通の友人が居たので、彼に名古屋の南山大学に居られる浅井教授に伝言を頼み、私の引受元となってくれそうな学術機関について教授の心当たりを訪ねた。間もなく南山大学沼沢学長の名前で学校から手紙が来た、客員教授として来日頂く招聘状を発しようと思うが、幾らかは講義の方を受け持ってもらいたい、とあった。豈にはからんや、事はもうそこまで進行していたのである、そしてこれが浅井教授のご尽力によるものであったことは、疑う余地がなかった。それであるが教授本人からこれに関して何の知らせもなかった。教授から短い手紙を頂いたのは、私が海外旅行のあらゆる面倒な手続きを済ませて、もう出発しようという時になってからで、「出発時間をお知らせ乞う。羽田迄お迎えに出る」という文面であった。名古屋に居られる氏を煩わして、東京まで来て頂くわけにはいかない、それは丁寧にお断りした。
さて、私は日本に来て、自分で東京から名古屋へ出かけ、学校で先ず沼沢学長に着任の挨拶をしてから、直ぐに校内電話で浅井教授に到着を知らせた。「僕は研究室でお待ちしています」というあっさりした返事が返って来た。出向いてこられず、歓迎して下されない。すぐに続いてあった学長の昼食の招待が無ければ、直ちに教授の研究室へ行って来るのであったが、このお招きに教授も参加されるのだろう、という予想もあったで、そのまま待っていた。氏は顔を見せなかった。氏は何故にこんなに冷淡なのかという考えが心を横切ったのだ。しかし、食後遂に氏の研究室へ案内されて、歩み入って氏の顔一杯の歓迎の笑みと固い握手に迎えられ、とたんに氏の温かい心遣いの流れの中に自分が居たのだということを悟った。挨拶が済むと浅井教授は案内して下さっていた小林人類学科長に向かって、「さあ、僕が引き継ごうか」と言われた。それからの氏のお世話は、實に親身の者も及ばぬものであった。
氏は私を南山大学の客用宿舎へ連れて行き、私のために一室を選んだ後、ご自身にも一室取った。暫く此処に移って私の相伴をして下さろういうのである! 翌日、氏の研究室の隣の部屋を片づけさせ、私の研究室をしつらえて下された。それからは、毎日学校の食堂で昼食もお互いに誘い合って行った。居住登録をするために、教授と一緒に積もった雪の中を、入国管理所を尋ね廻った日の事は忘れられない。方々探し歩いて見つけたその日本の人々には用のない役所は、裏通りにヒッソリと静まり返り、空き家も同然の旧い洋館であった。浅井氏が根気よく、あの人懐っこい調子で、道を尋ね廻って下されなければ、とても私一人では見つけられなかったであろう。間もなく気が付いたのであるが、氏には、日本人にありがちな、親切心はあるが、それを表すのは気恥ずかしくて、結局は控えてしまう、ということがない。私が手紙を書いているのを見ると、切手はあるか、と心配される。自分も手紙を書くところだが、後で一緒にポストに投函してやろう、と言われることもある。万事此の調子であった。 暫くして、氏は規則によれば客用宿舎は遠来の兼任教授の短期宿泊のためのものだから、長期住み込みとなれば、学内の陰口がうるさくなる、と言われ、学校から近からず遠からずの「国際研究会館」へ紹介して下さった。氏は其処では非常に顔が広い。東南アジアから日本に来て技術見習いをしている人達が泊まっていて、浅井氏は自分で買って出てその人達の生活の相談相手になって居られた。学校の帰りに私と一緒に其処まで来るし、話し込んで、とうとう其処で泊まることもあった。
その内に、南山大学の新しい教職員アパートが落成し、学校当局はその一戸を優先的に私に提供して下さった。その頃には、しかし、私は郷村調査、神社調査で、旅行に出掛けること多く、しょっちゅう家を留守にするのは不用心でもあり、不都合もあった。それで、浅井教授に、教授が時々冗談に「ウサギ小屋」と呼んでいた貸間を引き払って、私と一緒に住むようお願いした。何日も考慮したすえに、やっと引っ越してこられたが、門口に表札代わりに貼った名刺に「お手伝」という肩書きを書き添えた。この戯れの底には、「苟も、取らない」という氏の潔癖があるのである。
ここで、氏の「ウサギ小屋」のことを話さなければならない。そうすれば、氏の天真爛漫、飾らぬ人柄をクローズアップ出来よう。この「ウサギ小屋」は、南山大学の声門の前の坂を下り切ったところに建っているトタン板を張ってボロボロになった外形を隠した長屋の二階で氏が借りている、二間の部屋のことである。岡の上に照り映える超モダンな南山大学校舎にひきかえ、これは明治時代に建てられた、アンゴラウサギ飼育講習会の見る影もない合宿所である。この危険家屋の内部は、表と違って何等補修が行われていない。建っていた時のままの姿であろう。そこには水道がまだ引かれていない。水は昔ながらの井戸から汲んで、桶で下から運び上げる。学生すら借りようとしない代物であるが、浅井先生は部屋の壁という壁を、クレヨンでラスコー壁画を模写して住んで居られる。直接壁に描かれたのでなく、紙に描いたのを間仕切り一杯に貼ってあるのであるが、壁土の落ちるのがあまりひどいから、こうやって土止めをしているのだと言われた。絵は安い藁半紙に描かれていたので、早くも日焼けして、周囲の古ぼけた色調によく溶け込んでいた。教授はこの穴倉みたいな中で、小さな電気コンロで自炊して居られた。ここではまた、週に一回教授のゼミナールが開かれる、私も2度ばかり招かれて、これに参加した。集まる者は教授の気に入りの門下生で、大学院在学中のものも居れば、卒業して大学の助教授になっている者も来る。洞窟画の古代野獣に囲まれて、たたかわされた議論は、機械翻訳、情報理論等であった。このゼミナールはもとより学校の単位などと関係ない。教授私人のゼミナールである。延々4時間にわたって行われ、中休みには茶やコーヒーが学生達の手で用意され、菓子が出る。茶器、食器具が大量に揃っているのをビックリして見ている私を認めて、教授はここで20人分位のパーティーはいつでも出来るのだ、と嬉しそうに語るのだ。
またこのウサギ小屋の隣に、韓国人経営の「ホルモン焼き」なる超廉価のまことに汚いがそれなりに満腹する食堂を利用することもあった。
浅井教授はどうしてこんなあばら屋に住まなければならいのだろうか?教授が少しも、それを苦にしていないことをよく知ってたが、私は時々こういう問いを自分に投げかけた。私は教授の自宅、それとも本宅というのか、を一度訪れたことがある。湘南の景勝地の海辺の松林の中に、広い庭をめぐらせた瀟洒な別荘風の造りだった。そこに奥さんが住まわれ、週末には教授も戻られて、週末を楽しまれる。沢山の蔵書があり、いかにも勉強するのによい場所であった。しかし奥さんは「学校へ行くのが嬉しいのです。学生が可愛いくて仕様がないのです」と言われた。私にはあの「ウサギ小屋」でのゼミナールでの教授の張り切り方と嬉しそうな様子が急に思い出された。
教授はまた決してケチンボでない。気が向けば、自腹を切って、友人を集めて、大小の討論会、講演会をやられる、また私のために開いて下さった「台湾ヤミ族シンポジウム」にも、2,30人を集めた。
第十一回太平洋科学会議の際は、教授は外国の学者二十数名を中部日本観光に招いた。これはもとより現地実業家のサポートがあって出来たものであったが、教授はこのために散々奔走した揚句、少なからぬ金額を自腹で賄った。
大分後になって、浅井教授自らの口から、氏がウサギ小屋に住まわれる理由としても宜しかろうと思われる話を伺った。教授はこう言われた、これこそ自分が台湾の山奥で、フィールドワークをしていた時の風情そのままである。それが自分にこの部屋を棄て難く思わせるのである、と。
浅井教授は亡くなられて、今や無い。この報せを受けてからというものは、3年前に名古屋で教授と共にした生活の細々とした事共が、しきりと思い出される。その中の1つを誌して、故人を偲ぶ文を終えたい。私は教授が、欧州留学時代の記念だという、1本の古い幅の広いネクタイばかりを締めて、他に代わりを持っていないのに気付いていた。ある日、教授が何処かの祝いへ出掛けるところであった。私は自分の新しいネクタイから、一本選んで、氏に差し上げ、換えて行かれるようお勧めした。氏は喜んでそれをして出掛けられた。後で、ご自宅には、ネクタイでも洋服でも沢山持って居られるのを知った。
浅井教授の新しい面を一つずつ発見して行くのは愉しみであった。お人柄の全貌はとても短時間に語り尽くすことは出来ない。私が名古屋で一年間あまり接し得た限りでは、やはり、「一箪ノ食、一瓢ノ飲、陋巷ニ在リ、人ノ憂ニ堪エズ、囘ヤソノ楽シミヲ改メズ《一箪食・一瓢飲・陋巷在・人不堪其憂・囘也不改其樂》」、というのが教授の持ち味であり、またその風趣は「富貴於我如浮雲」と見受けられた。
願わくは、心の友が遙かなる白雲の彼方で安らかに休息されるよう、先生の風情はいつまでも私の追憶の念をかき立てて止まない。
【了】
(林衡立さんの手書き翻訳原稿を入力)