Eugenio Coseiu, [Sincronia, diacronia e historia ] El problema del cambio linguistico
共時態、通時態、歴史(言語変化の問題)
エウジェニオ・コセリウ著
翻刻版の序 (訳注1)
本論文は1955年に書かれ、1956年に、[モンテビデオ大学]文理学部のオリジナル研究賞を戴いた。
印刷にまわすに際し、文献はできるだけ新しいものを加えるようにした、そして所期の問題設定については何ら変更を加えることはなかったが、細部については多くを修正し、また初稿で不明瞭に、また余りに説明不足になってしまったと思われる箇所については、これを明確にした。Saussure, Durkheim(第1章1.3)、ロマンス語未来形(第5章4.2)および’目的論’(第6章5)について論じている箇所はまったく新たに加えたものである。また結論(第7章)の所はより明瞭にし、更に敷衍した。
たまたま起こるかも知れない誤解を事前に避けるために申し添えさせてもらうと、本論文の目的は言語変化ではなく、言語変化についての問題である。それでここではいわゆる言語変化の原因についての試論を書こうとしているのでも、また種々の言語の変化のタイプを研究しようとしているのでもなく、目指すところは、理性の問題としての、また具体的言語活動の視点からの変化そのものについての問題を設定することにある。
E.C.
第2版への序
本論文は、基本的なことは1955年に書かれ、1956年から1957年にかけて推敲され、1958年にモンテビデオで最初に出版された。初版の影印復刻版の印刷部数はごく限られたものであったが、1969年にTubingenで出版された。
復刻版は余り多く配布されたわけではないが、学界にかなりの国際的な反響をよんだ。ロシア語訳は1963年Moscowで出版された(V.A.Zvegincev,Novoe v linguistike, III, p.123 -343)。他の翻訳(ドイツ語、ポルトガル語、ルーマニア語、英語)は印刷中のものと、準備中のものがある。この第2版を準備するに際し、当初の枠組みには何ら修正を加えることなく、またその枠組の正当化とか、援護のための論点にも手を加えていない。しかし全章に亘って注意を払って校正した、そして本文については詳細に、特に表現については訂正した。更に多くの注に補遺を加え、若干新たに追加した。
下記の論文、Sistema, norma y habla, Montevideo, 1952, Sustancia en los sonidos del lenguaje, Montevideo, 1954, El plural en los nombres propios, (Revista Brasileira de Filologia), 1,1955, Determinacion y entorno, (Romanistiches Jahrbuch, VII, 1955-56, Logicismo y antiologicismo en la gramatica, Montevideo,1957等々は、論文集として、Teoria del lenguaje y linguistica general, Madrid 1968(2ed.Madrid,1967, 3ed.Madrid,1973)に集録されている。当論文で支持している学説のその後の発展の展開は、以下の論文に見られる。Sincronia, diacronia y tipologia, (XI Congreso Internacional de linguistica y Filologia Romanicas, Actas,1)Madrid 1958,及びEl aspecto verbal perifrastico en griego antiguo, (Actas del III Congreso Espanol de Estudios Clasicos, III, Estudios estructurales sobre las lenguas clasicas), Madrid, 1966. これらの論文は他のものと共にGredos社よりEstudios de linguistica general y romanica, 全2巻として近刊予定である。
本論文の初版の次の序を添えたが、ここに再録しておく。
たまたま起こるかも知れない誤解を事前に避けるために申し添えさせてもらうと、本論文の目的は言語変化ではなく、言語変化についての問題である。それでここではいわゆる言語変化の原因についての試論を書こうとしているのでも、また種々の言語の変化のタイプを研究しようとしているのでもなく、目指すところは、理性の問題としての、また具体的言語活動の視点からの変化そのものについての問題を設定することにある。
Tubingen 1973年4月
E.C.
第3版への序
この第3版では若干追加し、また文体を幾らか修正した。また第2版にあった間違いをいくつか訂正した。 Estudios de linguistica general y romanicaとして近刊予告していた書籍は、下記の2巻に分けてGredos社より出版された、El hombre y su lenguaje, Estudios de linguistica romanica,Madrid,1977。1973年に印刷中、準備中として紹介した翻訳の内で、ドイツ語訳がミュンヘンで1974年に出版された。(訳注2)日本語訳は東京のクロノス社より近刊予定である。(訳注3)
Tubingen 1978年6月 E.C.
略語
AL =《Acta Linguisticca》, Copenhague
ArchL =《Archivum Linquisticum》, Glasgow
ARom =《Archivum Romanicum》, Ginebra y Florencia
BCLC =《Bulltetin du Cercle Lingustique de Copenhague》
BSLP =《Bulletin de la Societe de Lingustique de Paris》
CFS =《Cashiers Ferdinand de Saussure》, Ginebra
IJAL =《International Journal of American Linguistics》, Bloomington
NRFH =《Nueva Revista de Filologia Hispanica》, Mexico
RFE =《Revista de Filologia Espanola》, Madrid
RFH =《Revista de Filoligia Hispanica》, Buenos Aires
RFHC =《Revista de la Facultad de Humaniadades y Ciencias》, Montevideo
TCLP =《Travaux du Cercle Linguistique de Prague》
ZRPh =《Zeitschrift fur romanische Philologie》
訳注1:モンテビデオ大学の紀要(Revista de la Facultad de Humanidades y Ciencias)を未見であるので、このような序文があったのかは確認できず。翻刻版の序文を翻訳した。
訳注2:「Synchronie, Diachronie und Geschichte, das Problem des Sprachwandels」, Wilhelm FinkVerlag Munchen 1974, ubersetzet von Helga Sohre. 翻訳は、Sincronia, diacronia e historia, El problema del cambio linguistico.Montevideo 1958と記されているので、初版を使用したものと思われる。
訳注3:1978年の第3版の序で出版予告されていた日本語訳は、1981年6月になってクロノスより出版された。題名:「うつりゆくこそことばなれ」、副題:サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア、訳者、田中克彦、亀井孝(訳書には”かめいたかし”と平仮名で書かれている)。
日本語訳の出版までの経緯(遅れた理由等々)については、同書の「共訳者のことば」に詳しく記録されている。同書は現在は絶版となっている模様。
上記の翻訳書は第2版(1973年)にもとずき、当試訳は第3版(1978年)による。
【訳者・おぼえがき】
ひょんな縁で1971年1月19日に著者よりサイン入り影印翻刻版が送られてきた。当時は学校を出て会社勤めをしていたのであるが、学生時代より“言語変化”(特に音韻変化)が興味の対象なので是非入手したいと思っていた論文であったので、暇なときに読み、また同時に翻訳を開始した。本文についてのおおまかな翻訳は1972年末頃に終了したが、無論不明点も多く、翻訳できずそのままにしたところも多くあった。1974年にイタリア書房(神田神保町)でスペインのGredos社より出版された第2版を購入したところ、著者まえがきにも記されているように、多くの追加があり、また削除されている文章もあった。それで、この第2版の再翻訳をした。正確に思い出すことはできないが第2版の翻訳が終わったのは1977年ころであったように思う。しかし、1979年に第3版(’78年11月発行)を入手したところ、まえがきにあるようにクロノス社より近々日本語訳が出版されるとの予告を見つけた。少し夢見ていたEugenio Coseriuの日本初の翻訳書出版の願いは儚くも潰えた。しかし待てど暮らせど一向に翻訳は出版されず、1980年ころにクロノス社の住所を調べ、厚顔無恥にも自分の翻訳原稿を送ったことがある。無論鄭重な断り状と共に返送されてきた。しかし誠にありがたいことに、1981年6月に翻訳出版後、謹呈本としてクロノス社より1冊受領した(同翻訳書は第2版によるものである)。
またドイツ語訳は1985年頃に入手し、参考にした。(ロシア語訳はナウカに依頼し入手につとめたが不可であった。 またイタリア語訳は以前(12,3年前?) イタリア書房で見かけたことがあるような記憶があるが、判然としない。) 【追記:調べたところ、 イタリア語訳は、P.Muraの翻訳により [Sincronia, diacronia e storia] Turinで1981年に出版されている:’01年8月5日記】
定年後、自営業者となり時間的余裕ばかりあるので、第2版の自分の翻訳原稿(当時としてはいち早くパソコンで打ってあるが、NECのパソコン、MarkIIでのワープロであるので、現在のパソコンとは互換性がなく、利用できず)を第3版に基づき再度見直しをして原稿入力し、全部出来上がったところで、私家版として佐藤工房より10〜20冊程度を記念として制作することにした。
それで入力した分を章ごとにinternetで公開することにした。翻訳権は得ていないままで翻訳、公開しているので問題点があるかも知れない。このような件について詳しい方のアドバイスお待ちしております。
自分で訳したものを、自ら製本するなど云うと、中世の修道士にでもなったような気持ちを少しは実感 出来るかも知れない。
また、このCoseriuの著書がクロノスより出版されて以後、Roger Lassの「On explaining language change」(邦題は「言語変化の説明論攷」としてみました)を翻訳していましたが(18年くらい前に開始!)、ちかごろ(2001年6月)やっと、何回目かの見直し作業も終り、いよいよ私家版を何部か制作しようかと、考えているところです。これは翻訳権を取ろうと、図々しくも、e-mailでcopy rightを持っている Cambridge University Pressに直接交渉してみましたが、”established publisherでなければ、交渉しないとか、最低の発行部数は600部(!!)以上・・・・・・”とか、云われてしまい、600部作っても、家の中がこの本で押しつぶされるだけなのは、目に見えているので、翻訳権取得は一時中止しました。
参考までに:
この著者のRoger Lass先生は、現在、ケープタウン大学の教授、その内に名誉教授になるということをInternetで知りました。近著としては、[Historical Linguistics and Language Change]1997年、CUPがあります。2002、3年頃に「German languages]というようなタイトルで出版が予告されているのをどこかで見かけました
【翻訳上の留意点の幾つか】
上記日本語訳の翻訳者は高名な言語学者であり、小生がごときアマチュア言語学者が訳す本には誤読、不適切な用語の使用、諸学説への無理解、知識・学力不足等々による、問題点があるものと懼れますが、ご教示いただければ幸甚に存じます。(第1章を今回公開しますが、以後出来上がり次第、順次公開します。それで、ご希望があればe-mailアドレスをsatohy@d4.dion.ne.jpまで連絡していただければ、2章以後の公開時にはその都度、メイルにてご連絡を差し上げます。)
翻訳文は自分が行ったものを使用していますので、上記の翻訳本とは異なります。
例:翻訳本ではlengua(言語)を、ラングと訳し、habla(言)をパロールと訳されているところが見受けられますが、Coseriuの論文に「Sistema, norma y habla」1952がある。そこではSaussureのlangue, paroleの2区分ではなく、lengua=langue(ラング)、habla=parole(パロール)の他に、norma=規範という概念が必要である、とする論攷があります。というわけで、当翻訳では明らかにSaussureのlangue,paroleの概念を指す時以外は、それぞれを《言語》、《発話》とし、またnormaを《規範》として訳しています。(パソコン入力が終了すれば、用語を統一的に変更することは簡単にできますので、私家版制作までにより最適な用語があれば、用語を変更するかも知れません)。またまた各章の翻訳文公開とは別に、スペイン語:訳語の対照表を公開する予定です。これまで気づいた単語は:
例:aporia 翻訳書:矛盾、本試訳:論理的困難さ(理由:原書では、矛盾contradicionが使用されているので、それと区別するため) 【追記:今回翻訳を公開するに当たり、色々と調べてみたところ、アリストテレスのPhysica(自然学)では、”アポリア(難点または難問)”と訳されていた(訳書:374頁)。翻訳の難しさを実感し、これがまさに、アポリアかと思われます。無論翻訳とアリストテレスの言うところのアポリアとは類を異にしています。2001年7月12日記】
arbitrariedad:翻訳書:肆意性、本試訳:恣意性
hablar:翻訳書:パロール、本試訳:発話・ことば・はなし(または、場所によって、‘ことばを話す’)
archisistema:翻訳書:超体系または原体系:本試訳:大体系
訳文・訳語を一語一語対照比較していないので、他にもあると思いますが、気が付いた分は上記の「訳語の対照表」に掲載する予定です。
また一つ気になる箇所として、Ballyよりの引用文の[les langues changeant sans cesse et ne peuvent fonctionner qu'en ne changeant pas](第1章1.1)、が「言語は絶え間なく変化するが、変化しないことによって機能する」と訳されていますが、これは下で訳しているように、「言語は絶え間なく変化する、そして言語は変化せずして機能しえない」=言語は変化しているから機能しているというアポリア(矛盾:論理的困難さ)、となるのは?
現在、小林英夫訳の「一般言語学とフランス言語学」が手許にないので、そこでは何と訳されているのか?
目次
第1章.言語変化の明白な論理的困難さ
抽象的言語と共時的投影
第2章.抽象的言語と具体的言語
歴史的に限定されている《発話知識》としての言語および言語変化の3つの問題
第3章.変化の合理性
改新と採用
音韻法則
第4章.変化の一般的条件
体系的および体系外的限定
歴史的伝統の安定性と不安定性
第5章.歴史的問題としての言語変化
《発生的》説明と意味の限界
第6章.因果的説明と目的論的説明
言語変化に対する通時的構造主義
目的論的解釈の意義
第7章.共時態、通時態、歴史
第1章 言語変化の明白な論理的困難さ
抽象的言語と共時的投影
1.1.言語変化の問題は、明らかに根本的な論理的困難さを内包している。事実それを因果律の用語でとらえようとすると、つまり、あたかも変化すべきではないかのごとく、なぜ言語は変化するのかというように問題を提起すると、さまざまな出来事によって動揺せられ、また否定されてすらいるにもかかわらず、言語は本来的に静止しているものであるとする考えにもとづいていることをあきらかにすることになる。それは言語の本性それ自身に反するであろう。そのことは言語活動の矛盾として、しばしば明示的に提起されている。それで、Ch.Ballyがあるところで、「言語は絶え間なく変化する、そして言語は変化せずして機能しえない」(1)と述べている。しかしさらに、言語は《定義上共時的》であり、変化し発展する言語を何か不安定なものと考えるときには、「根本的に言語の観念と両立しない視点」を適用することになるだろう、としている。こういう考え方をスエーデンの言語学者Bertil Malmbergもしている。彼にとって、発展する言語とは形容矛盾(contradictio in adiecto)である、「もしわれわれが、言語という語によって用語の厳密な意味での体系というものを考えるなら、そういうことになる」(2)。しかしながら、規範としては言語は変化しないということが期待されるであろう。「言語はもしその中ですべてのものがお互いに関連しあっている体系的な組織体であるとすれば、そしてまたもしその目的が、話し共同体の一部によって理解されることにあるとするなら、適切にその機能を果たしている体系として、言語の安定性を期待できるであろう」(3)。そして実際には、もし不安定性をもたらす外的要因が干渉しないならばそういうことになるであろう、と云える。「外的秩序に属するこれらの要素によって遂行される行為がなければ、定義上安定している言語体系は、永続的安定性、不動性のうちにとどまる」(4)。ここから内的要因、外的要因というよく知られた区分が現れる。外的要因とは変化の動機であり、内的要因とは変化に抵抗し、動揺する体系を再構築する(5)。
1.2.これらの言明の起源、およびSaussureの「体系はそれ自体では不変である」(6)、という言明により近い言語の静態的とらえかた、およびその歴史的起源を探り出すのは困難ではない。プラーグ学派の音韻論者によってはじまった通時的構造主義を開発した学者によってもそのように考えられた、ということは奇妙に思われる。というのは彼らは共時態と通時態との間の明確な区別を保持しようとする時、Saussureの諸原理を大いに援用し、より固有の《言語学》として共時的視点を考えているからである。Ballyと同じくMalmbergはこのグループに属している。「共時的方法は原則的に、言語学が受け入れることのできる唯一のものであり、研究されているものの本性それ自身と調和している唯一のものである」と考えている。この2つの認識しうる側面、つまり静態的および動態的側面のうち前者のみが《言語の神髄》(7)に対応しているのである。そして疑いもなく、この中にSaussureの正統性がある。Saussureは次のように云う、「通時論的眺望のうちに身をおくときは、かれがみとめるものはもはや言語ではなくして、それを変更する一連の事件である。よくひとは、ある与えられた状態の発生を知ることほど大切なことはない、と断定する。それはある意味では正しい。その状態を形成した条件とは、それの真の性質を明らかにしてみせ、ある種の妄想からわれわれを防いでくれるからである。しかしこのことはまさに、通時態がそれ自体のうちに目的を持たないことを、証するものにほかならない」(8)。
1.3。これらの言明に対して、当論攷は以下のことを明らかにするを目的としている。
a)言語変化の見せかけ上の論理的困難さは、《言語》と《共時的投影》との間の明確な、または暗黙の同定に根本的に示されている眺望の間違いのうちに存するにすぎない。
b)言語変化の問題は、因果律的用語を使って論ずべきではなく、また論ずることはできない。
c)つまり引用されている諸々の言明は、確かな直観にもとづいている。しかしこの直観は、単に研究上の要請にしかすぎないものを、対象に帰すという事実によって間違って解釈されるか、または曖昧にされている。ここから不可避的にわれわれが直面する矛盾が出てくる。
d)通時態・共時態の二律背反は明らかに対象の側面に属するのではなく、探求の側面に属している、つまりこれは言語活動にかかわるものではなく、言語学にかかわるものである。
e)言語活動の現実は、Saussureの諸定理に則して、また反して課されていることを考慮すれば、それは超越可能であるという意味において、上記の二律背反の超越のための諸要素をSaussure自身のなかに見いだすことができる。
f)しかしながら、Saussureの概念と、そこからでてきた諸概念は、その内的矛盾を乗り越えるべく課されている根本的な間違いに苦しんでいる。
g)《体系》と《歴史性》との間には矛盾はなく、逆に言語の歴史性はその体系性を暗に含んでいる。
h)探求の面で云えば、共時態と通時態の二律背反は、ただ歴史においてのみ乗り越えうる。
1.4.Saussureの2分法の厳格さを緩和する必要性が、最近しばしば唱えられてきた(9)。ラング(langue)とパロール(parole)というSaussureによって掘られた2つの深淵を埋めるべきであると云われている。そして《言語》に関して云えば、通時態と共時態の間の深淵をうめる必要性も主張されている(10)、これが言語学の統一に導くことはありそうもないが、それは色々な意味で必要である、というのは言語学はすべてSaussure的なものではなく、またかってそうであった言語学が良いということもないからである。Saussureのこれらの二律背反は、一連の言語学者によって明らかに拒絶されているのが見て取れる(11)。しかしもっと重要なことは、現実において存在すると見なされている深淵は存在しない(12)、もっと正確に言えば、まさに《知から物への転移》(transitus ab intellectu ad rem)によって、探求される対象の側面と、研究のプロセスの側面の頻繁な混同によって引き起こされたということを明確にすることである(13)。
2.1.まず最初に、これまでに言及した学者達は、実際に言語が変化することを否定していないことを明らかにする必要がある。それゆえ、その非両立性は、変化と言語の現実との間にはなく、変化と《言語》に関するある観念との間に存するのである。もし変化が現実であるとするなら、それはただその観念が適切ではないということを意味するのである。理性と現実との間の明白な衝突は、常に理性それ自身の衝突である。それゆえ知性に適応させるべきは現実ではなく、知性を現実に適応させねばならない。それでもし現実の言語が《かくあるべきである》というものではないとすると、《用語の厳密な意味での体系》はいかなる現実にも対応せず、―この場合は、習慣によって作られた概念の形式的な意味で―、また別の対象にも対応せず、現実の言語にも対応しない。とはいえ、この別の対象というものは、実際の言語を考察する1つの方法に対応している。
2.2.まさに上記のことが、行われているのである。すなわち、変化しない言語とは、抽象的言語であり(これは、むろん非現実的ではない、それで、具体と抽象の間の差異を、現実と非現実という別の差異と混同してはならない)。それ自身で変化する文法とか、自身の考えによって語彙を豊富にするような辞書などというものはこれまであったことはない。所謂《外的要素》から自由であれば、文法、辞書に固定された抽象的言語というものだけが存在することになる。変化しているものは、その具体的に存在している現実の言語である、しかしその言語は《外的要素》から切り離すことはできない。つまり物理性、歴史性、話し手の表現の自由を構成しているところのすべてから切り離すことはできない。それで言語は発話においてのみ所与のものとなっている。「言語の命は2つあるようなものではなく、その普遍的な命は話し手の傍ら、またはその上にある」(14)。
2.3.1.言語は、共時的に考察するなら変化しない、またどんな方法によっても共時態において、[まさに変化している]変化そのものを確認するのは不可能である。それで共時的に言語を考察するために第1になすべきは、その継起性(sucesion)や変化を注意深く無視することである。このことは、言語において《現在あること》と《これから起こること》の間には、相互依存性があるという事実とは矛盾しない(15)。また言語状態は共時的であり、静態的ではない(16)、という事実とも矛盾していない。事実Saussure的観念において問題とされるのは、言語状態とはどういうものかとか、言語の2つの存在の様式ではなくして、もっぱら言語をわれわれはどのようにかんがえるのか、ということである。Saussureは次のように云う、「共時論的なものと通時論的なものとの自律性と相互依存性とを同時に示そうと思うならば、前者を、ある物体が一平面上に投影したものに擬すればよい。事実、投影はすべて投影される物体に直接依存するものでありながら、それとはちがい、別個の事物である」(17)。そして同じ関係は《歴史的現実と言語状態》との間にもあると述べている。<共時論的>なもの、または<言語状態>とは、Saussureにとって、言語状態の歴史的現実を意味するのではなく、研究者の静態的スクリーンの上へ投影されたものを意味しているにすぎない。現実の言語は、静態的ではなく動態的な平衡状態にある1つの制度として十分に知覚できる。それでこれを、研究上の要請によって《停滞しているもの》として想像するのである(18)。しかしながら、現実の言語を停滞していると同時にまた停滞していないものとして想像することはできない。言い換えれば、「体系と運動は相互に条件付けあっている」(19)、このことについては疑問はない。または次のようにも云える。体系の記述と運動(している体系)の記述は、必然的に2つの異なった眺望のうちに位置づけられる。つまりここで問題となるのは、言語の現実ではなくして、研究者の態度なのである。通時態に依存していないものは、共時的な記述であり、現実の言語状態ではない。この現実の言語は常に以前の言語の《結果》であり、Saussureにとっては《史的要因の所産》である(20)。これは彼が記述ということについて述べているものである。しかしSaussureは(歴史的)現実の言語状態と(投影された)言語状態とを明確に区別していない。チェスの駒の有名な比喩において、「そのときの位置を記述するのは、10秒まえにおこったことを想い浮かべる必要は毛頭ない」(21)と言う。また別のところで言語を記述するためには、ある1つの《状態》に身を置かなくてはならないとしている(22)。それで対象の面に間違って適応されたSaussure的二律背反は、記述と歴史の間の違いということ以外のなにものでもない。この意味で、この二律背反は用語上のことを除けば、Saussure的なものはなにもない。そしてこれは排除できるものでも抹消しうるものでもない、というのはこれは概念的要請であるからである。
2.3.2.事実われわれは、言語状態においてたとえば古語を確認できる。しかしこれは存在し、機能している限り現実の要素である。しかし機能的には、<古語>(ことばに古風な味を与えうる要素)は現在の視点からのみそうなのである。言い換えれば、別の時代にはこういう機能を果たすことはできなかった。同様に、話し手ですらある要素は疑いもなく、《より古く》、また《より新しい》という意識を持っている。しかし第一義的言語活動でこれらの要素を用いて話しているときにはこういう意識を持つことはない。メタ言語で、それについて話しているときにそういう意識を持つのである。言い換えれば、単なる話し手であることをやめてある種の<言語学者>にたち帰り、歴史的視点をとる際にそういう意識が現れるのである。またある言語状態において、可能性のあるそして将来の諸体系がその輪郭を示すことがある。しかしそれらの体系が現実に所与のものとなっている限り、それは単に《可能性のある》そして《将来のもの》であるということはなく、現実のものなのである。そしてまた(決して実現されることのない)単なる《可能性》としてある限りにおいては、現実にはいかなる方法によっても所与のものとはならず、記述において無視される(23)。《目的論的》記述は本来的に共時的ではなくまた絶対的に《客観的》でもない(第6章5参照)。単なる共時的な記述にとって、言語は変化しない、つまりゼノンの矢と同じように、これは絶対的に不動である。しかしこれはゼノンの《飛矢静止論》的に考えればということであり、実際には矢は動いているのである。現実において言語の平衡性は安定しておらず、不安定である。そして研究者は2つの視点、つまり共時的、通時的視点のどちらかをとることができる、そして実際にどちらかの視点を採用している。しかしこのことは共時態と通時態の区別には影響せず、この区別を確かめるだけである、こういう点でこの区別は真実性を有している。
2.3.3.音声変化についての小著でルーマニアの言語学者Rosettiは、「L.Hjelmslevは、私に変化を共時態において考察せよとすすめたので、そのようにした」(24)、と言っている。しかし事実としては、変化を共時態において考察することはできない。共時態において変化を考察するとは、まったくの形容矛盾である、つまり不動性の中に、運動を認知しようとするのと同じことになる。変化はある2つの期間の間で所与のものとなるので、必然的に通時的である。Rosettiは続いて、生起している変化は発話において、また《完了した》変化は《言語》において所与のものとなる、と言明している(25)。これはある面では、つまりすべての変化は具体的言、および一連の出来事の連鎖の内で所与のものとなる、という意味で正確である。しかし完了した変化は、変化するのをやめたものであり、この点ではSaussureの云う「変化は通時論的にしか存在しない」(26)、ということに同意する他に対処のしようがない。同様にこれらは、現実の変化であれば、なんらかの形で共時態において反映されなければならない、そして事実そういう風になっている(第6章2.4.参照)。しかし変化は共時的投影面においての変化として認知しうるものではない。
3.1.もし言語の状態のありようについて考察するということであれば、設問のしかたはまったく変わってしまう。日常的用語での言語(スペイン語、フランス語等々》は、本質的に《歴史的対象》(27)である。われわれはまさに、言語の本来のありようのみについて問題を提起する一方、言語を史的対象物として考察せず、たんに同一の種に属する諸対象の内の1つの対象として言語を考察するのであり、この意味でのみ、Saussureの云う「概して云えば、ある言語が発達した四囲の情況を知ることは、決して必要不可欠ではない」(28)とする言明を受け入れることができる。言語のありようが何故そういう風になっているのか、そしてなぜそれ以外のありようではないのか、とか、これはどういう言語であるのか、という問題を設定し、これにある種の解答(例えばスペイン語はロマンス語の内の1つである、という様な解答)を与える時には、われわれは1つの物語を始めているのであり、Paulが云うように「それとは知らず」(29)歴史をつくることになる。このことは、歴史についての質問は、対象の構造についての質問とは本質的にことなっている、ということである。Paulにとって、構造それ自身について研究することと、構造の歴史的説明とはお互いに独立したものではないのであり、そしてそこから彼の有名な修辞的立言、言語学(Sprachwissenschaft)と言語史(Sprachgeschichte)の同一視ということが出てくる。しかしこれは明らかに1つの短絡である。このこととは逆にSaussureは、2つの視点の差異をはっきりと教えている。そしてこのことが言語の構造的概念や、体系的記述の正当で正鵠をえた体系的記述の再評価へと導いたのである。
3.2.勿論Saussure的概念は、言語科学の伝統に深く根ざしている。よく知られているように、Saussure以前にも言語と発話(SpracheとRede)の区別はGabelentz, Marty, Finckにも見られる、またPaulも一部類推的であるが、《通常的》なものと《偶発的》なものを区別している。Finckは、《話すこととしての言語》と《表現手段のまとまった総体としての言語》を明確に区別している(31)。彼はSaussureとはことなり、言語学の対象として《言語》ではなく《ことば:はなすこと》をとりあげている(32)。また言語の《体系的》性格はHumboldによって認識されているのは夙に知られている(33)。しかしこれは、Paulによって無視されている(第4章4.2.3.参照)。Brondalはある所で(34)、Humbodtはロマンス語学者として、言語ではなく発話を考察していると言明している、これはまったく不正確である。Humboldtは言語を正確に考察している、しかし発話を離れて言語を二元論的には見ていない。このことは彼のロマンティシズムによるものではなく、発話を離れて言語は具体的な存在ではあり得ないという事実に基づいているのである。もしこれがロマンティシズムであるとするなら、体系は直接観察できないので、言語活動より帰納させなくてはならないとしている北アメリカの反メンタリストの言語学者は(35)、Humboldtと同様にロマンチストであることになる。また一方、いかなる間違いも絶対に間違いではないとすれば、体系性についての直観により、言語を《有機体》と見なす間違った概念と密接に関連しあった真理なるものを形成することになるであろう。そしてこれは伝統文法の基礎以外のなにものでもない(38)。《体系》についての現代的概念は、確かに伝統文法の云う《体系》とは大変に異なっている。しかし発話についての体系性の確認なしに、文法が出現することはなかったであろうことも確かである。それゆえSaussureと共に言語学というものを始めるとか、Saussureをあらゆる伝統から自由にするとか、<Saussure以前のあらゆる残滓を精錬する>という意志は、いかなる正統性をも持ち得ない。逆にもし非難をSaussureに向けなければならないとするなら、これは伝統に十分に注意を向けないという非難と同じことになるであろう。彼の学説の一側面を引き合いに出して、Saussureが《恣意性》(38)という二重に曖昧である概念に基礎づけた理論よりも精細で堅固な記号の理論(37)のための要素を、聖アウグスティヌスの「師に就いて」(De magistro)やJuan de S.Tomasの著作に見られる、などとすることもできるであろう。
3.3.1.Paulの短絡に対して、Saussureは構造的認識の重要性と自律性を言明している。しかし一方では、共時的投影面に言語の構造を確認するが、通時態および時間における連続性を軽視し、発話と通時態、言語と共時態(39)の奇妙な同一化を設定するに到った。このようにして言語を言語状態に還元してしまったのである。そして言語という対象に、体系性 (対象に属することによって投影面に現れる)ばかりではなく、不動性(ただ単に投影面にのみ現れる)を付与するに到った。そしてこの事から、「Cours」において多少とも潜在的に窺われる言語状態と共時的投影との2次的同一視がもたらされる。共時的および不動の言語という観念は、このあい連続する同一視(言語=言語状態=共時的投影)にもとづいている。これらの同一視の最初のもの(言語=言語状態)はある点まで体系的記述の技術的要請ということによって正当化しうるとしても、第2の同一視はどうしても正当化しえない。というのは所与のもの以上のものを推定していることを暗に示しているからであろう。事実、共時態においてわれわれは変化を認識できず、また不変性も不動性も確認できないのである。ある対象が変化していないということを確認するのは、それをことなった2つの時期において観察しなくてはならない。それによって、言語がその本性上共時的である時ですら、このことを通時態において確認しなくてはならないであろう。しかしこのことは、定義上言語という概念を創造した、ということを除外しておいてでの話である(第2章1.参照)。しかしこれは正当ではない、というのは言語は存在し経験に属しており、Kantがその著「論理学」で述べているように「経験的対象は名辞的な定義でもって近づくことはできない」からである。
3.3.2.残念ながら、この2つのSaussureの同一視はSaussure以後の言語学のある分野、特にジュネーブ、コペンハーゲンで教条的な性格を獲得した。同時に、このことによって共時態と通時態との区別に、それが本来有していない根元性や超越性を付与してしまっている。「共時態と通時態というSaussureの区別は、これを反駁することができないような種類の1つの明証である」(40)としばしば云われるのを聞くことがある。しかしこのような確認のしかたは、制限および限界を認めてのみ受け入れることのできるものである、実際の所、反駁できずかつ明白であるようなものにおいて、この区別は厳密に言って、Saussure的なものではない。つまりSaussure的なもの、また方法論的側面にかかわるものにおいては、この区別は批判しうるようなものというよりも、むしろ受け入れがたい観点より導き出されたものなのである。Schuchardtは「Cours」の書評で「Saussureは、 Comteの《静態的社会学》と《動態的社会学》という区分と平衡する区分を、言語学に導入しようとした」、としている(41)。しかし彼は自身にとって好都合な所より論をすすめて、―《原子論的》通時態と同一化された― 歴史的研究を無視し、共時態は目的を有しているのに反して、通時態はそれ自身のうちに目的を持っていないということを、あきらかにしようとした(1.2.を参照)。事実、その目的はあらゆる場合、人間の特殊な表出としての言語活動の全的な知識である。共時態の重要性を際立たせるということは、通時態の相対的縮小を暗に指すものではない。記述されるものは常にある1つの伝統の現実である。単なる記述においては、転移としての伝統は現れず、無視される。しかし事実、このことは伝統が存在しないとか、また言語を限定していないということを意味するものではない。非歴史性(共時的であること)は、記述の存りかたに属しており、言語の存りかたに属していない。それゆえ、非歴史性を《言語》という概念の定義の中に導入することはできない。概念の定義(理論)とそれに対応している対象の記述を混同してはならないし、また少なくとも、対象のただ一瞬における記述と混同してはならない。同様に、言語は歴史的対象であると認めることは、記述や理論を排除するものではない。記述や歴史や理論は正反対で矛盾している活動ではなく、相互補完的な活動であり(42)、ただ1つの科学を形成している。そして特に記述と歴史は、対象の観点から排除し合うものではない。つまり操作上相互に排除し合う、言い換えればこの2つのものは、それぞれ異なった操作なのである。一方、これらの問題があたかも、言語はただ1つの体系的対象、またはただ1つの歴史的対象であるかのごとく、言語学の分野のみで問題にされるのは奇妙である。また国家学においては、例えば国家の理論と国家の歴史と、ある一時期の国家の記述とを区別するこができる。しかしながら、国家の《自然性》は共時的であるとはだれも考えない、というのはそのような存在の仕方としての自然性は存在しないからである。Saussureは存在論をつくったのではなく、方法論をつくったのである。つまり彼の共時的及び通時的言語学、又はもっと正確に言えば、言語学における共時的視点と通時的視点を区別することに注意を集中したのである。共時態と通時態の区別は、言語活動(または言語)の理論に属するものではなく、言語学の理論に属するのである。こういった面で、通時態、特にその回避し得ない《無体系性》についてのSaussureの概念は論じ直されなければならないし、また訂正できる(第7章1.2.参照)。これに反してこの区別を対象に当てはめるのは単に間違いではなくして、混同である。Baconが「人は混同からよりもむしろ間違いから真理を得る」(citius emergit veritas ex errore quam ex confusione.)と言っているように、この混同を排除することは研究上の緊急事である。
4.最後にもし言語変化が、全面的で永続的で、また言語状態が《消え去ってゆく移転、また絶え間のない動揺》の単なる一瞬でしかないとすると、われわれは疑いもなく用語上の矛盾を持つことになる。またもっと判りやすく言えば、どんな方法をもってしても言語が形成されることはないということになる(注2参照)。しかし本当のところはそれ以上のものである。まず最初に、言語のあらゆる状態は、大部分以前の対応物の再構成であるからであり、第2に、《言語における変化》と呼ばれているものは、以前の言語に関してのみ、変化といえるからである。一方、現行の言語の視点よりすれば、これは新しい伝統の結晶化、言い換えれば非変化である。つまり過去に対しては非連続性の要素である《変化》は、同時に未来に対しては連続性の要素でもある。
第1章の注
(1)ch.Bally [Linguistique generale et linguistique francaise] p.18 3ed. Berne 1950
(2)B.Malmberg, [Systeme et methode], Lund 1945 p.25-26. 彼は《Studia linguistica》p.134においてもこのContradictio in adiecto(形容矛盾)という観念にこだわっている。Hjelmslev[Acta Linguistica],IV 3 p.VIIを参照。「《言語学の仮説》は、言語状態を進展の単なる一瞬の経過、消失的移転、および絶え間のない動揺と考える権利を否定している」
(3)E.Alonso Llorach,[Fonologia espanola],2nd. Madrid 1954 p.97. 「しかしながら、―彼は更に加えて云う― 逆のことが起こると、つまり体系は変化するのである」。
(4)A.G.Haudricourt et A.Juilland,[Essai pour une histoire structurale du phonetisme francais], Paris 1949,p.5-6. しかしながら、決して所与のものとはならず、またあらゆる経験の外にあるものを所与のものとして考えてみても、その時何が起こるのかということについてはわれわれはどうして知ることができるだろう。
(5)E.Alarco Llorach, [Fonologia] p.100以下を参照。Malmbergによると([Systeme],p.26)進展的なものは、外的要因および体系の不完全さのゆえによってのみ存在するのであろう。
(6)F.de Saussure, [Cours de linguistique generale],スペイン語訳[Curso de linguistica general], Buenos Aires 1945 p.154.(訳者注:以後「Cours」と略し、最初にスペイン語の頁を、次に邦訳の該当頁を記載する。すなわち上例は、「Cours」p.154:p.119のようにする。スペイン語は現在12刷(1973年)のものが入手可能。邦訳書は、小林英夫訳「一般言語学講義」改版第1刷(1972年)を利用した。両翻訳書とも原著第3版を使用している。なお原書の該当頁は邦訳書の本文欄外に記されている。)
(7)[Systeme],p.32
(8)「Cours」p.161:126
(9)E.Coseriu, [Forma y sustancia en los sonidos del lenguaje], Montevideo 1954, p.11-13
(10)最近のものでは、A.Martinet "The Unity of Linguistics" 《Word》 X.p.125
(11)Saussureについての多くの批判のうちで、unum sed leonemを思い返すだけで十分であろう。H.Schuchardtは(1917年刊の)「Cours」の書評のなかで、共時言語学と通時言語学の区分について次のように書いている、「このことは、座標のものさしを縦線のうちの1つ、および横線のうちの1つに取るときに現れてくる。静止と動揺は、(最も広い意味で考えても)言語において対立することはない、すなわち動揺は現実的なものであり、静は知覚し得るものにすぎない」。[Hugo Schuchardt-Brevier] 2nd.Halle 1926 p.330
(12)E. Coseriu [Sistema, norma y habla], Montevideo 1952 以下[SNH]と略す。
(13)これについては、C.Hj.Borgstronの論文 "The Technique of Linguistic Description", 《Acta Linguistica》,V.p.1-14を参照。彼はこの一貫性の欠如を示すことにより、現代言語学の一連の問題を解決 ―または排除― するのに貢献している。
(14)N.Hartmann, [Das Problem des Geistigen Seins], 2nd Berlin 1949. p.219
(15)これに関しては、W.von Wartburg, [Einfuhrung in Problematik und Methodik der Sprachwissenschaft]のうちの基本的見解を参照。スペイン語訳[Problemas y metodos de la linguistica], Madrid 1951,p.13以下およびp.229以下を参照。
(16)[Results of the Conference of Anthropologists and Linguists], Supplement to IJAL XIX,2,Baltimore 1953,p.17-18のR.Jakobsonの言葉を参照。一方Saussureは、「いついかなる時でも言語活動は、既存体系と同時に進展を暗に含んでいる」としている、「Cours」p.50:p20
(17)「Cours」p.157:p.123
(18)G.Devoto,[I fondamenti della storia linguistica], Firenze 1951,p.39.13
(19)W.von Wartburg, [Problemas],p.229
(20)「Cours」p.136:p.103
(21)「Cours」p.160:p.125
(22)「Cours」p.149:p.115
(23)これについては、Augustinusによって表明された一般原理を思い返すのがよろしかろう。[Confessiones]XI.24: 「存在するものでなければ、なにものも見られることはできないのである。しかしすでに存在するものは、未来ではなく現在なのである。それゆえ、未来のものが見られるといわれるとき、それはまだ存在しない、すなわち将来存在するもの自体が見られるのではなく、おそらくそれらのものの原因または徴候が見られるであろう。それらの原因または徴候はすでに存在し、それゆえ未来ではなくして、すでにそれらを見るひとたちに対し現存し、それらから未来のものは心によって考えられ予言され、これらの心によって考えられたものはすでに存在して、未来のものを予言するひとたちはそれを自分のもとに現存するものとして見るのである。」(訳文は服部英次郎訳、「告白」岩波文庫下巻p.120-121、1976年より引用)
(24)A.Rosetti, [Les changements phonetiques ] Copenhaque 1948, p.5
(25)Ibid. p.7
(26)「Cours」p.169:p.133
(27)歴史的対象物は、その本質からして絶対的に個別的対象物である。それはことばで表される本源的知恵によって、同一の種のうちの”それ”である”別のそれ”ではない対象物、言い換えれば固有名詞を持っている対象物ということである。E.Coseriu,"El plural en los nombres propios", 《Revista Brasileira de Filologia》,I.1.p.15を参照。
どのような対象(犬、馬、剣)も、偶然に歴史的対象物として知覚されることもあるし、また固有名詞でよばれることもある。しかしこういうことは、言語として常に、そして必然的に生起することである。それで個別的呼称を持っていない言語は存在しない。言語は、その民族名で呼ばれると推断することもできる、しかしこのことは常にそうであるとは限らない。もともと民族によって決定されるのが言語なのではなく、その逆である。
(28)「Cours」p.69:p.37
(29)H.Paul, [Prinzipien der Sprachgeschichte],5nd. Halle 1920 およびB.Block and G.L.Trager, [Outlines of Linguistic Analysis], Baltimore, 1942,p.8-9 また「Cours」p.139:p.105
(30)これに関して、E.Cassirer, [Zur logik der Kulturwissenschaften]のスペイン語訳[Las ciencias de la cultura],Mexico, 1951, p.61-62, 91-92,101-102を参照
(31)F.N.Finck,[Die Aufgabe und Glisederung der Sprachwissenschaft], Halle 1905
(32)H.Arens, [Sprachwissenschaft, Der Gangihrer Entwicklung von der Antike bis zur Gegenwart], Freiburg-Munchen 1955, p.359-360を参照。Finckの概念については、V.Pisani, [Geolinguistica e indeuropeo], Roma, 1940,p.101を参照
一方HegelのEncyklopadie ユ459で、言語と発話を対立させ、体系としての言語ということすら言っている(Die Rede und ihr System, die Sprache.)。厳密にはこれは、Saussure流の言語(ラング)と言(パロール)の区別についてではなく、それ自身が直観的であるこの区分のSaussure的解釈と考えるべきである。それでSaussureの学説が論じられる時に問題となるのは、言(ラング)と言語(パロール)の区分そのものではなく、Saussureがそれに与えた二律背反的意味、つまりそれを変換し、現実に分離してしまうことである。Hegelの公式におけるように、言語はことばについての体系であり、言語に具体的に対立するようなものはない。加うるに重要なことは、その間の区別ではなくして、その区分がもとづいているところのものである。無論、ある区分の解釈には問題が多いという事実は、そのようなものとしての区分が基礎づけられているところのものを必然的に無効にするものではない。つまりSaussureが伝統と繋がっていることを指摘しても、言語学史における彼の重要性を貶めることを意味するものではなく、まさに正反対のことを意味する。
(33)B.W.von Humbolt, [Ueber die Verschiedenheit des menschlichen Sprachbaues] ed.H.Nette, Darmstadt,1949特にp.43以下および V.Mathesius, TCLP, IV 1931, p.292。彼はHumboltを現代の《静態的》言語学、言い換えれば言語の体系的研究の真の創始者としている。
(34)V. Brondal, "Langage et logique", [Essai de linguistique generale], Copenhague,1943, p.52に所収。
(35)B.Block and G.L.Trager, [Outline], p.5-6でこのことを示している。
(36)A. Sommerfelt, "Le point de vue historique en linguistique" 《Acta Linguistica》 V.p.113および「Cours」p.150:p.116を参照。
(37)客観的な意味で、自然という観点より見た場合、記号は《恣意的》(動機づけられていない)である、がしかし歴史という観点より見る場合には《必然的》(動機づけられている)であるので、恣意性とは《二重》である。(J.Dewey, [Logic, The Theory of Inquiry], スペイン語訳、[Logica, Teoria de la investigacion], Mexico 1950,p.62,397: A. Pagliaro, [Il linguaggio come conoscenza],Roma 1951[1952]p.79,および[Il segno vivente],Napoli 1952,p.116参照)、またさらに主観的な意味で、記号は科学的知識にとって恣意的である、がしかし《本源的知恵》、つまり話し手の素朴な意識にとっては恣意的ではない。そしてこのことにより、通時的なものにおいて、記号の音的実体に対する所記の影響という考え方が出てくる、それについては、A.W.de Groot,[Actes du Premier Congres de Linguistes], Leiden,p.84-85を参照。云えることは、記号は因果律的に動機づけられていない(また動機づけられ得ない)、がしかし目的論的に動機づけられている、それで話し手の表意的目的性に対応するということである([Forma y sustancia],p.58を参照)。
(38)聖アウグスティヌスの記号論については、K.Kuypers, [Der Zeichen und Wortbegriff im Denken Augustin], Amsterdam 1934を参照。聖トーマスに就いては、J.Maritain, [Quatre essais sur l'esprit dans sa condition charnelle].スペイン語訳[Cuatro ensayos sobre el espiritu en su condicion carnal]所収の"Signo y simbolo", Buenos Aires, 1944,p.58以下を参照。
(39)「Cours」p.172:p.136
(40)A. Burger, "Phonematique et diachronie a propos de la palatalisation des consonnes romances", 《Cahiers Ferdinand de Saussure》,13,p.19
(41)[Brevier],p.329
(42)E.Coseriu, [Logicismo y antilogicismo en la gramatica], Montevideo, 1957,p.18,22
第1章 了