第2章

抽象的言語と具体的言語

歴史的に限定されている《ことばの知識》としての言語および言語変化の3つの問題

 

【訳者注:原書でスペイン語の例をもって論旨を説明している所がある。スペイン語の音素体系(音素は/ /でかこむ)、発音(音声は[ ]でかこむ)、綴り(綴字は{ }でかこむ:この記号{ }は原書では使用されていない)、方言等についての予備知識がないと、理解しづらい所があるので、各節の下に訳者注として説明を挿入した。「うつりゆくこそことばなれ」ではこのような説明がないのであるが、訳者の追加説明が、論旨の理解に役立てば幸いです。

引用書籍の題名、人名等の文字に、アクセント、ウムラウト等々がないが、どのようにして表示するのかが不明のため、 これらを表示しないまま掲載した。しかし本文中の発音記号、音素記号また綴字につては、 -.bmpファイルとして一語づつ挿入し、原書の記述通り入力し、誤解を生まないように留意した。 スペイン語圏で使用される発音記号と、国際音声字母(IPA)が異なっている場合があるので、必要に応じて 各節の末尾に【訳者注:】として、説明を加えた。】

 

1.1.根本的に、言語変化に 直面する際の錯綜ぶりや、また言語変化を《外的要因》によって引き起こされたまがいものの現象と考え るような傾向は、言語とは何か、実際それはどのように存在しているのか、また言語における変化とは一 体何を意味しているのかということを問わずに、発話より切り離されまた 作られたもの、つ まりエルゴン(ergon)と考えられた抽象的かつ静的な言語より出発することによっている。それによって、すべての主体性より切り離された《もの》における変化は、まったく《原因》に帰せられると仮定することによって、変化の問題を因果律的用語でとらえようとすることが起こるのである。しかしながら言語は、因果律的序列にではなく目的論的序列に属している(1)、つまり言語の機能によって決定されている諸事実に属している。もし言語を機能的に解釈しようとするなら、まず最初に機能としての言語、次に体系としての言語を考えなければならない。そしてまさにこういう風に言語を解釈しなければならないのである。それで、言語はそれが体系であるゆえに機能しているのではなく、逆に言語はある目的に対応するために、 また機能を果た すために言語は体系なのである。それでこの問題となっている用語を逆にして、問題を設定すべきであることが明白となる、つまり言語はコードと同じように《変化しない》がゆえに機能するということではなく、言語として機能し続けるために変化するのである。キケロのラテン語はまったく変化しなくなったが故に、歴史的言語として機能しなくなったのである。こういう意味で《コード》として機能し続けていても《死語》なのである(2)。逆に「生きている言語は、決して静止しておらず絶えず変化している」(3)、またその機能によってつねに限定されている言語は、作られたものではなくして、具体的な言語活動によって連続的に形成されているのである、つまり言語はエネルゲイア(energeia)であり、エルゴンではないということであり(4)、 もっとわかりやすく言えば、エネルゲイア の《潜在力》および《形式》である(第2章1参照)。言語はある意味で《結果》である、しかし一方で、一般的に言えば、「その結果はまさにそこにあるという現実のものではなく、これからの出来事と一体となってはじめて形成されるようなものである」(5)。そしてまた、言語の場合には、《結果》は潜在力であると同時に、のちの行為の条件でもある。もし結果が《限定的:限られたもの》であるなら、この場合取り扱われているのは死語である。言語が言語として機能し続けている限り、その結果は決して限定的であるということはない。ある《言語状態》が以前の言語状態と実際的に同一の結果となっていたとしても、この言語状態が前の状態のまま存続しているということを意味しているのではなく、言語が機能しまた言語が具体的に所与のものとなっている場所たる発話によって十分に信頼されて再構築されている、ということを意味しているにすぎない。それゆえSaussureの言葉を敷衍して(6)、彼の言葉とは逆の意味で言語変化のメカニズムを理解するために、まず「最初に発話の分野にこれを設定し、(《言語》を含めて)言語活動のあらゆる表現の規範としてこのことをとらえなければならない」。発話は言語があることによってのみ存在しているのであるが、言語における通時的なものと共時的なるものは、ただ発話においてそういう存在でありうるのである。

               

1.2.言語は個人のことばにおいてのみ所与のものであり、またことばは常に言語を話すということであるというように、全ての言語活動の在りようはこんな風に循環している。このことはSaussureによって、はっきりと認識されていたところである。しかし彼はこの循環論より抜け出そうとして《言語》の方を選択した(7)。また彼はAnomalist(破格論者)とAnalogist(類推論者)という旧い論争の側面に新しい視点を導入して、発話の動揺性、変動性、異質性を排除せんとして、より安易な道である類推という方法を採用したのである。しかしながらもっと困難な道を選ぶ必要がある。なぜなら循環論より抜け出すことはできないからである、というのは、先に述べたように言語は、言語活動の現実それ自身の循環性にかかわっているからであり、この2つの極のどちらかを《第一義的》(8)であると考えるのを保証するものはなにもないからである。それに加えて、これは悪循環というよりも、言語という用語が同じ意味で2回使用さてれていないからである。ある場合には、《知識》としての言語とか言語的堆積物(Sprachbesitz)としての言語を意味しており(9)、又ある場合にはことばにおけるこの知識の具体的な表現を指しているからである。プラトンがすでに述べているように(10)、ことばは、《慣用》(nomos)によって、自由に使用されるべくおかれている単語を利用する《行為》(praxis)である。そして行為はnomos(慣用)を具体的に表現する。そして、nomosを表現するときには、これを乗り越え、また変容させる、ということを付け加えなければならない。

 

1.3.1.Saussureはこの循環論より抜け出そうとして、個人の発話の《体系》を切り離し、それを社会および大衆の中に設定して、《言語》という特有な概念にたよった。この概念は、Saussure後の言語学にとっては基本的な考えであり、言語変化に関して提示される諸々の困難の大部分は、この概念によってもたらされているとすれば、まずこの概念の有効性を精査しなてはならない。

 すでにSaussure学説のうちのこの面に関しては、SaussureはDurkheimの社会学にその基礎をおいているとしばしば言われている。特にDoroszewskiは、《言語》というSaussureの概念とDurkheimの《社会的事実》という概念の間には緊密な依存性があることを指摘している(11)。そしてDoroszewskiは、次のようなコメントを加えている、「Saussureの学説は常に言語学的な学説と考えられているが、しかしこれはまったく正しいということはない、この学説はまったくもって言語学の基礎としては奇妙なものである哲学的概念に依存している」。そして彼は多少批判的な論調ではあるが、この事実はSaussureとの当時のイデオロギーの潮流と意義深い同時代性のしるしと考えているようである。そして更に次のように言う、「人文研究(Humaniora)のあらゆる分野は、相互に組み合わされている、Saussureの学説は、言語学においては成功したと認められてはいるが、そのきっかけは社会学、哲学、心理学の分野で練られた概念に依存している」(12)。さてこういった考え方から一時はなれ、さらに、Durkheimの概念は用語の自律的な意味で《哲学的》と呼びうるかとか(13)、社会学は他の科学の基礎として役立つかとか、社会学を科学として破綻させないために、強力な支えを必要とするのか(結果として破綻するかどうかの問題ではない)というような事はさておき(14)、Durkheimの《社会的事実》という概念は堅固な基盤を形成しうるや否やということを問いただすこともできるであろう。しかし実際のところ、そうすることはできない、というのはこういう考え方はまったく詭弁の産物であるからである。Durkheimは、社会的事実に2つの本質的な特性を与えている、つまり:

1)社会的事実は、個人に対して外的である、言い換えれば個人より独立している。

2)社会的事実は、その強制的な性格のゆえに、個人に課される。

この最初の特性(これは基本的であり、この上に彼の社会学が築かれている)を明らかにするために、彼は次の推論を使う、「信者が生まれる時には、その信仰および実践がすでに形成されていなくてはならない、もし彼以前にそれが存在しているとすれば、それは独立した生命を有しているということである。それによってわれわれの思想を表現するために役立つ記号の体系や、借金を支払うために利用する貨幣体系や、商業的関係において利用する信用状体系や職業における実践は、それをわれわれが利用することとは独立して機能している。社会を構成している成員がそれらの体系や、彼ら以前に行われてていたことを次々に採用するということは、すべての成員によって確認されるであろう。こういうように考えれば、個人的意識より独立している重要な社会的特性である働きかた、考え方、感じ方、というものが出てくる」(15)。こういう推論は社会学におけるコロンブスの卵のように、それ自身で自明のこととしばしば考えられている。Durkheim自身もこのことを認めている、しかしこれは明らかに間違いである。Durkheimの概念を《社会的事実》という別の概念と対立させる必要はないし、また言語は貨幣体系(これは社会共同体にとって絶え間なく再建されるということはない)と同じタイプの《制度》であるか否かを質問する必要もない(16)。それゆえ、こういった社会的事実の提示のしかたの論理的厳密さの間違いは明らかとなる。実際にDurkheimが(論証せんとしているということではなく)指し示そうとしているのは何なのであろうか、簡単に示せば次のようになるだろう:

a)限定された社会的事実は、考察対象の現在の構成員達が生まれる以前に存在しえたということ。

b)社会的事実は、共同体の各成員、またある1個人とは独立して存在しうる(勿論他の成員がそれを生き生きと保持している限りは)

c)ある社会的事実は考察対象の社会に組み込まれていない個人とは独立して存在している。しかし社会的事実は、社会を構成しているすべての個人から独立して、、またいかなる瞬間においても存在しているわけではない。(再度確認の要あり)

社会的事実は、個人の意識とは独立して存在しているという Durkheimの結論は、こういう彼の論証の進め方に織り込まれている一連の間違いに基づいている。 まず最初にDurkheimは、永続的有効性(無時間的有効性)を、 ある一定の瞬間、つまり考察対象の個人がまだ生まれていない瞬間(時期) と結びつけている論証から導き出している。 第2に個人について論証されたことを 他のすべての個人にまで 敷衍させている。こういう論証は社会 の各成員について繰り返し用いることはできても、また全員omnibus(考察されている各個人全員員)に適用しうる論証であったとしても、総員cunctis(総体としての人間)に適用できるような論証ではないことは確かである。必要な更改を加えれば、これは旧いソフィズムの積み重ねであるといえる。すなわち、たとえば以下のような論証のしかたである、粒の穀物は堆積物を形成してない、一方堆積物は明らかにバラバラの各穀物の1粒1粒から《独立して》いる。しかし穀物を1粒取り除いたときに、他の穀物も同時に取り去れば堆積物は消滅する。ここから引き出せる結論は、どの穀物も堆積物を形成せず、穀物すべてが堆積物を形成していないというわけでもはなく、堆積物は穀物にとって外的であるということである。 第3に(これは最も重大なことであるが)Durkheimにとって、個人というものは、彼の前提と結論において、同じものではない。Durkheimは考察対象の社会にまだ属していない個人(生まれたときにはじめて構成されている社会的事実に出会う個人)に関して論証を行い、ここから同じ社会の構成員個人についても有効となる結論を引き出そうとしている。しかしこのことが有効であるためには、結論はもっぱらこの後者に関して行われた論証に基づいていなくてはならないであろう。社会的事実は、それに参加していない人、そしてまだ生まれていない人から独立しているということは、論証の必要のない自明の理である。それゆえ、Durkheimがその推論で実際に行ったのは、社会的事実は個人に対して外的であるということではなくして、Durkheimのいう個人は、社会に対して外的であるということになる。またこれに加えて、《何々によってまだ創られていない》ということと、《何々より独立して存在する》ということの視点の混同がある。つまりある社会的事実はあれこれの個人によって創られたのではなく、彼ら以前にすでに存在していたということを確認したとしても、これはそれ以上のことを意味しない。こういうようなやりかたによって、社会的事実がどのように存在しているのかの推論を導き出すことはできない。

 Durkheimが社会的事実に付与している第2の特徴はすでに述べたように、《抑圧的力》である。つまり行為または思考は、個人には外的であるだけではなく、これらに命令的、抑圧的力を付与している。このことによってだれであろうと個人に課されている。Durkheimは、個人は社会的規範に対立することができ、これが成功裡に破壊するに到ることがあるということを認めているが、これは闘争なくしてまた抵抗に出会わずに起こることはないとしている(17)。こういう論証に対して社会的事実は個人的イニシアティブによって変化し、改革者はすべて必然的に殉教者ではないという正反対の論証を対立させることができる。しかしこの点については、Durkheimの諸判断における暗黙の考察法の核心に触れなくてはならない。彼の考察法はよく知られているように、個人はそれ自身で社会的事実を変化させ得ない、ということである。そしてもしそのように考えるなら、パラドックスがおこる。つまり条件的論証に絶対的価値を付与するということである。こういった考察法は、もし他の個人が変化を受け入れなければ、個人は社会的事実を変化させ得ないということを意味する。しかしこういうことは起きない、何故なら社会的事実は、ある考察対象の個人または別の個人には依存しないというのではなく、逆に1個人にまた同じく別の個人にも依存しているからである。一方、単に社会的事実に抵抗する(それを受け入れない)ということは、それを変形しようとすることと同じではない。変形させようとするのは、能動的行為である。

 Durkheimは自身のパラドキシカルな演繹に内存する弱点には決して気付かなかったようである。 しかしながら彼は、パラドックスは理性や諸事実によって課されているという理由で、これを受け入れるべきであると考えていた(18)。また規範が逆になっていることがある。もし推論や推定的諸事実が、直観的に不合理な結論に導かれるなら、まず最初になすべきことは、その推論に間違いはないか、また諸事実は他の解釈を受け入れうるかどうかを調べなくてはならない。しかし、Durkheimはそうはせずに、社会的事実は個人的意識に対して外的であるということをすでに論証しえたと信じて、それを集団的意識と呼びうる想像的実体であるとしている。そしてすぐにそのような意識が存在していなければならない、ということを示すために推論にたよる、「もし神経的諸要素の間で交換される反応や行為によって示される個人的表示が、その要素に固有のものではないということになんらの不可思議なこともないとすれば、それによって社会がつくられている基本的意識の間で交換されている反応によって作られる集団的表示は、この個人的意識から直接派生しているものではなく、それゆえそれからはみ出ているものであるということに驚きはないであろう」(19)。しかし、個人的意識と独立している集団意識の存在はどんなやりかたでも明示されてはいないという事実はひとまずおくとしても、この推論は、まったく不適当なものとなっている。というのは意識の統一性は、意識それ自身によって論証される第一義的事実である、そしてこれは種々の《神経的要素》のうちのあるものによって演繹されるものではない。つまりもし集団意識または社会的意識が実際に個人に対して外的に存在しているとすれば、個人である社会学者たるDurkheimではなく集団意識それ自身が社会学によって、それをわれわれに告げ、それを書きしるすことができるであろう。Durkheimの個人的意識は、彼の類推によれば神経中枢であり、超意識の閾から必然的に排除されるであろう。

 さて、言語学の分野ではSaussureは、(一般言語学講義には一度もDurkheimの名前は出てこないが) 社会的事実というDurkheimの学説を受け入れ、かつ細かに、そしてことば遣いに到るまで彼に従っている。 Durkheimは、「社会的事実はそれを作っている社会それ自身の中にあり、その各部分、つまりその成員の中にはない」(20)、とし、その結果として社会は、「個人のどのうちにもまったく存在していない」(21)、とする。そしてSaussureは、「言語は大衆の中においてのみ存在している」(22)、としている。社会的現象は、「個人にとって外的」であり、個人はこれを「外側から」受け取るとする(23)。そしてSaussureは、ラングは、「言語活動の社会的部分であり、個人にとって外的である」(24)とする。そして続けてラングは、「本質的に社会的であり、個人とは独立している」(25)とする。Durkheimは、社会的事実は個人に課されているということに固執し(26)、Saussureは、言語は「個人が受動的に登録する所産」であり、言語は個人に課されているとする、そして「個人は独力でこれを作り出すことも変更することもできない」(27)と考える。Durkheimは「集団的思考はそれ自身の中で、それ自身で研究されなければならない」(28)と言う。Saussureは、言語は「それ自身の中で、それ自身のために」(29)研究されなければならないと考える。Durkheimは社会的事実は「ものとして」(30)研究されなければならないとする。これはまったくSaussureが言語に対して述べていることと同じである(31)。Durkheimは、社会学を集団表示、言い換えれば《社会心理学》と考えている、そしてSaussureは言語の研究はもっぱら《心理学的》(32)であると言い、言語学は《社会心理学》の一部門であると考えている(33)。Durkheimは社会的事実を集団意識に帰している、そしてSaussureは共時言語学について語るときに、この学問分野は「共存し、かつ体系を形成する諸事項をむすぶところの論理的および心理的関係を、同一の集団意識によって知覚されるままに取りあつかうのであろう」(34〕と言う。

 Meilletは、《言語》というSaussureの概念はまったく正確にDurkheimによって措定され た社会的事実の定義に対応している、と見ている(35)。しかしこの定義は現実の言語に対応しているかどうかについての議論はさておくとして、この概念(批判なく受け入れられ、Saussureの言語学によって公理となってしまった)は、Durkheimと同じようなパラドックスにもとづいている。Saussure自身は、「言語活動には個人的側面と社会的側面があり、どちらも一方なくして他方を知覚することはできない」(36)と言う。しかし言語を言語活動の規範とするなら、言語は個人の発話から切り離される、そして《大衆》の《集団意識》の中におかれた言語というものを考えるときには、認識し得ない領域に据えられることになる(37)。このパラドックスがSaussureによるものではなく、Durkheimによるものであるという事実は、Saussureの言語という概念を強固にするものではなく、研究される対象の現実に基礎を置くかわりに他の科学によって発展せられた疑問の多い有効性の少ない概念になんの留保も付けずに基礎を置くという危険性を明らかにするだけである。Saussureの天才性と鋭い言語意識だけが、彼にその概念の有する脆弱な基本的概念にもかかわらず、言語の本質的な側面を見ることを許したのである。しかしこの概念を堅持するのはSaussureのような天才性と言語意識を持っていない人にとっては、たいへん危険なことになる。

 

1.3.2.Meilletはその高名な厳格 さと、幅広い言語学的経験をもってしても、上記の概念を乗り越えること はできず、それに制限を加えずに採用した。実際にMeilletはDurkheimの主 題を取り上げる。「 ラング(言語)は話す主体の総体に共通な 表現手段と結びついている厳格な体系である、これは言語を話すまた書く個人の外側には存在していない。しか しながらこれは各個人とは独立した存在である、というのは、これは個人に課されているものであり、その実現は個人に内存し同時に各個人と独立している社会的制度の実現であるからである」(38)。そして別のところで、言語は話し手の外側には存在しないという事実から重要なことを抜き出してしまって次のように言う、「言語はそれを話す主体の外側に存在せず、それゆえ自律的存在、固有の存在物を付与することはできない、としばしば言われる。これは他のほとんどすべての明確な命題と同じく明確な確認である、というのは言語の現実がもし実体的ななにかでないとすれば、それは存在しないからである。この現実は、言語的であると同時に社会的である」(39)。しかし言語がまだ発話の内においてのみ存在するという事実は、言語に観念的客観性を認めるということを妨げるものではない(2.4参照)。しかしこのことは、言語は自律的実存性を有しているということを意味しない。言語は《言語的現実》であるということは、多分言語は 体系的であると確認し、そしてそういう風に理解することの明らかな同語反復である。しかしこのことは対象の存在のしかたにかかわっているのであり、その実存物にかかわっているのではない。言語は《社会的現実》であるということは、主体の外側に存在する、と認めることではない。つまり社会は、個人とは独立して存在しているような、なにものかである。言語の社会的なものは、言語において与えられ、それが言語と呼ばれるもののすべてである。一方、より一般的観点からすれば人文科学においてある種の歴然たる明白さをともなって意識に現前するものは、《意味のない》として捨て去ることなく、探求の基礎として受け取らなくてはならない。また言語は話し手の外側には存在しないということに固執した人に、フランスの偉大な言語学者M.Brealがいる(40)。彼は自分ではやらなかった仕事、またまったく彼にとって本来的ではない業績によって、人口に膾炙している。たとえば彼はその著「意味論序説」の出版50年以前にすでにあった意味論の創始者として引き合いに出されている。しかしながら、彼の言語活動にかんする鋭敏で堅固な概念のゆえに思い返されることはすくない。ことばを話す個人にとって外的である存在に、言語を帰す時に、Meilletは と明確に対立する(40)。またSaussureは、青年文法家にたいするよりもBrealに対してより直接的、根本的に対立している。そしてこのことは、彼の学説に言語を《自然有機体》と考えるSchleicher流の概念が残っていること、またSaussureのDurkheim流の社会学のゆえにそうなのである。実際Saussureの社会学的概念は、多くの場合Schleicherと同じ自然科学的概念の社会学的用語の伝統として現れている(41)。Schleicherは言語に固有の《生命》を付与している(42)。そしてSaussureは、言語に話し手と独立している《社会的存在》を付与している。逆にBrealは、Schleicher流のドグマと明確に対立し、このドグマを《比喩》として受け入れようともしない(43)。Brealの自然科学的また図式的教条主義に対する抵抗のゆえに、かれはある場合には厳密性のすくない学者と見られたこともあった。実際に現実の無限のバラエティーを排除する単純化されたドグマや図式は、《より厳密》に見える。しかしこれはただそういう風に見えるだけであるにすぎず、図式は便利な手段であるが、一方では図式と研究されている現実とを同一視することはできない。つまり図式そのものの固有の厳密性(機械的厳密性)と、現実との関係での厳密さとを混同してはならない。図式は、単に図式をあらかじめ作っておかれたものであるという事実によって現実を拒否する。ドグマにたいしては、図式は硬直したものとなるが、しかし厳密でありうる。

 

1.3.3.上記のことは、言語は《社会的事実》ではないということを支持するために述べられてい るわけではない。事実はこれとは正反対であり、《本来的に人間的》な事実である《社会的》という用語の最も 純正な意味で、言語は社会的事実である。しかし一方、言語は単に他の社会的事実のうちの一つではなく、また他の社会的事実(たとえば貨幣体系)のようなものでもない。言語活動はすべての社会的なものの基礎である、しかし社会的事実はDurkheimが考えたようなものではない。社会的事実は個人に対して外的なものではなく、また超個人的なものでもなく、《他と共にある》という人間の存在のしかたに対応する個人相互的なものである。人間は《他の人にもまた属している》と認識されるとすれば、またそのようなものとして考察される限り、社会的事実、特に言語は、個人を超越している。しかし言語は個人にとって決して外的なものではない。それで人間の人間らしさは、単なる個人としての自己を超越するということ、つまり《自分自身から抜け出す》とうことである。そこで、この超越するということの特殊な手段による顕現が言語活動である。それで個人は社会的事実を《創作しない》というのは正確ではなく、逆に個人は連続的に社会的事実を創作するとしなければならない。社会的事実を《創作する》という固有の形式は、《他の人もまた》と認識されるなにかを《固有なもの》として引き受け、それを認知すること、つまり参加するということである。それゆえ、社会的事実は、個人に課されるのではなく、個人はそれを必要な様式、または個人の拡大のための適切な様式として採用するのである。一方言語の場合には、『制度としての言語は暗示的、規範的な力をともない、個人に働く、そしてその時個人は、それを自己の最終的形式へと構成する、このことは個人が自己の構成力によって作ったものが何もないときには、人間社会においてなんらの社会的価値を形成していないのと同じである』(44)。

 現実の個人に課される社会的事実は、個人に対して常に外的である、そしてすぐれて反社会的である。 しかし社会的事実は共通して《許容される》というのではなくして、共通なものとして受け入れられ、共通なものとなるのである。その特性は外側から課されるという意味での《責務》(obligatorieded)ではなくして、―用語の語源的論的意味をきわだたせるために― これは《方向・結合すること》(ob-ligatoriedad=L.ob-ligare)と呼びうるものである、つまり合意しあった義務(obligacion consentida)【これがラテン語のobligatioの意味であった】によって負わされた責任、または約束という性格をもっている。それゆえ個人は、社会的事実を変化させないし、また変化させ得ないと言うのは正しくない、しかし偶発的、個人的要請によって社会的にすでに設定されたものへの適応は、ある見方からすれば、変化である。言語に話を戻して考えてみると、個人は言語を変化させ得ないということを論証しえたとして、絶対的にそのことを言明することは意味がない、なぜならば、このことは論証されておらず、また論証しえないことだからである(45)。実際に論証されるところのことは、そしてこれは重要な事実であるが、話し手は通常言語を変化させるとか、変化させようとしているのではない、ということである。話し手のこういった活動様式にもかかわらず、もし言語が変化するなら、それはSaussureのいう単なる《偶然》よりも深い所にその根がある、そして言語の機能それ自身およびその具体的存在の様式の中に変化の理由付けの根拠を見いださなければならない。

 

2.1.言語は発話の中で機能し、また与えられている。この事実を言語のあらゆる基礎とするのは、Humboldtのいう言語活動はエルゴンではなく、エネルゲイアであるとする言明より出発することを意味する(46)。この言明はしばしば引用されているが、しかし多くの場合このことを素速く忘れるため、またはエルゴンとしての言語の中に逃れるために引用されている。しかしながら、まずなにはおいてもHumboldtのこの言明をまじめに受け入れる、言い換えれば、これを基本的な言明として受け入れる必要がある。

 この言明は、パラドックスまたは比喩としてではなく、真実の赤裸々な断定にかかわっているのである。比喩的意味ではなく、事実として言語活動は、作られたものではなく活動である。さらに言語活動が活動であり、活動として認知されるがゆえに《作られたもの》としてこれを抽象化し、研究できるのである(47)。

実際、活動はアリストテレスの分類を借りれば:
a)活動それ自身として(エネルゲイアによって
b)潜在的な活動として(ディナミスによって
c)作られたものの中で実現された活動として(エルゴンによって
考察される。

これは明らかに、3つの異なった現実にかかわているのではなく、現実の3つの側面、言い換えれば同じ現実を考察する3つの様態にかかわっているのである。一方発話は、歴史的 共同体の成員である限り特定の個人によって実現される普遍的な活動である、それゆえ発話は普遍的、特殊的、歴史的に考察されうる。 ディナミスに従って ことばをはなす(発話)とは、 話すことを知っているということであり、その中に普遍的、特殊的、歴史的段階を区別できる。 この最後の歴史的段階とは、 ことばの堆積物、つまりある共同体の伝統によって得た発話の知識としての言語である。 エネルゲイアに従って ことばをはなす(発話)とは、どこででも当てはまる普遍的なこととして考えれば、これは単に 話すということである。一般的に考察された具体的言語活動は、特殊なものとしては、ある瞬間における個人のディスコース(行為または一連の行為)である。そして歴史的には、発話は具体的言語または言語活動それ自身の本質的側面として言語活動において論証される所の共同体の特有の話しかたである。 エルゴンに従って ことばをはなす(発話)ことに関しては、純粋な意味で普遍的な視点をもつことはできない。それでこの場合には、常に特定の《作られたもの》を取り扱うことになる。つまりテキスト全体について述べることになるかも知れない。 特定の《作られたもの》としての発話はまさしくテキストである、そして歴史的には《ことばの堆積物》としての言語と同一視される。そしてそれが保存されている限り(最新の行為にとってのモデルとして受け入れられ、また伝統に挿入されている限り)その《歴史的生成物》は、 ディナミスに従ってことばを発する(つまり言語的知識)ということになる。これが、《言語》はまさにエルゴンではない、 ということを意味する。

【訳者注:ギリシャ語のenergeia, ergon, dinamisのそれぞれの意味は、
energeia: 作用、活動、勢力、力、(哲)現実態
ergon: 行為、行動、実行
dynamis: 力、体力、戦力、才能、可能性
である。
kat' energenian, kata dynamin, kat' ergon の訳し方について:
訳者はギリシャ語に詳しくないので、前置詞のkataをどのように訳すのが最適なのかを色々と調べたところ、 アリストテレスの自然学(physica)の訳書(筑摩書房、世界古典文学全集16巻、昭和63年7刷:アリストテレス) 第2巻:自然の定義、原因論、自然の合目的性と必然性の1に、下記の文章があったので、これを参考にして訳文を 作った。(該当頁は、323頁、加来彰俊訳)
『また、「自然に従って、カタ・ピュシン」ということは、いま言われたような実体や、それらの実体にそれ自体で [本体的に]ぞくするかぎりの諸属性について言われることである。たとえば、上方へ運ばれるということが、 火に本来的にぞくする属性であるように。というのは、上方へ運ばれるというその現象が、 「自然」なのではなく、また「自然をもっている」のでもなくて、それは 「自然によって」、あるいは「自然に従って」あることだからである。』

【訳者注:Antonio Vilarnovo Caamanoは、[Logica y lenguaje en Eugenio Coseriu],Madrid, 1993 の研究書p.29で、 『La construccion +acusativo puede traducirse, ciertamente, por 《como》 o《en cuanto》, como en el ejemplo que Coseriu presenta , aunque no es este el unico uso posbile de estas clausulas.』 “ +対格の構文は、Coseriuが示している 例と同じように、《として》または、《である限り》と訳すことができる、しかしながらこれがこのような文章での唯一の用法であるということはない。

 と述べている。そしてCoseriuがアリストテレスの[De interpretatione](日本語訳では 「命題論」)での “ .”の の意味について論じている部分を引用している。暫定的なスペイン語訳として、“El nombre es sonido con significado .”(名詞は、カタ・シンテケー(取り決め、契約)意味を有する音である。)としている。命題論の翻訳ではこの部分を、“名指し言葉(オノマ)は、取り決めにもとづいてものを表すことが出来て、...発生された言葉のことである(p.208)”、としている。Coseriuは、 この文を,El nombre es sonido con significado en razon de lo que ya esta establecido.(名詞は、既に設定されているものに応じて意味を有する音である)または、 El nombre es sonido que significa en cuanto establecido(instituido)como tal. (名詞は、そのようなもの として設定(教示)されているものすべてを意味する音である)として、 を現代風に翻訳するなら、<historicamente establecido>(歴史的に設定された)とすべきであり、<por reglamento>(決まりによって)とは訳すべきではない、としている。参照:Coseriu,[L'arbitraire du signe. Sobre la historia tardia de un concepto aristotelico]1967,この論文は現在は、「Tradicion y novedad en la ciencia del lenguaje,Madrid,1977(p.13-61に所収)。

Coseriuの[Linguistic Competence: What is it Really?]1985でenergeia, dynamis, ergonの関係をまとめている表があるので、これを下に引く:

             point of view

 Levels
 
   energeia
   Activity
   dynamis
  Knowledge
   ergon
  Product
Universal
 
  Speaking
  in general
  Elocutional
  knowledge
  Totality of
   utterances
Historical
 
  Concrete
  particular      language
 Idiomatic
 knowledge
  (Abstracted
  particular   language)
Individual
 
 Discourse
 
 Expressive
 knowledge
  Text
 







 

注を2001年7月16日に追加】

 

2.2.次にエネルゲイアという用語を正確 にそして実りあるような意味で理解しなければならない。 このためにHumboldtは、 エネルゲイアエルゴンを区別するに際して、 アリストテレスに基礎を置いていたことを思い出さなければならない。それゆえ、 彼の言うエネルゲイア(Tatigkeit)は、 なんらかの活動または単なる《行為》(Handlung)というような俗な意味で考えるべきではなく、 この概念および用語の創始者であるアリストテレスのエネルゲイアに 言及しながら理解しなければならない。つまりそれ自身でその目的に到達し、目的それ自身の実現であり、 それに加えてその《潜在力》に対して観念的に先行 している所の、自由でありかつ目的論的な活動である。言語活動と 芸術との関係をいかに認識するかということはさせおき、 このことを理解するためには人間のこの2つの活動の間に明白な類似性を考慮するのが有益である。芸術活動と同じく発話は、自由な活動であり自由な活動対象は必然的に無限である。そしてこれは決して十全には実現されていない(48)。Humboldtおよびアリストテレス流の意味において、エネルゲイアである発話は《言語》に観念的に先行している。そしてその対象(これは意味に当たる)は必然的に無限である。この意味で言語活動は、すでに作られた記号を使用する活動であると言ったとしても、言語活動が十全に満足された形で定義されたということではない。つまり《記号の創造的活動》として定義しなければならない。観念的にはそういうものであるが、歴史的には逆に《潜在力》は《行為》に先行しているとしなければならない。それで自由でかつ歴史的活動である限り、 発話とは常に1つの歴史的ディナミスである言語を話すということである。そして自由な活動である限り、発話はまったくその潜在力に依存せずそれを越えている(49)。歴史的発話においては、すでに設定された言語は自由にとって必要な境界である、つまり新しい行為にとってそれが技術的および物質的なものである限り、この境界は単なる限界という以上に、自由にとっての必要な条件である。発話のあらゆる行為は、歴史的であると同時に自由なものであり、その歴史的必然性および歴史的に決定された条件(これはまさに言語である)の中に1つの端を有しており、またすでに設定された言語以上のものであるまだ知られていない意味深い目的というもう1つの端を有している(50)。しかしまた後でこの問題に立ち戻ることにする(第3章2と同章5.1参照)。

 

2.3。さしあたり、もし《言語》という語を 抽象的言語ではなく具体的 言語と解するならば、言語は発話よりも変移性の少ない領域にあるわけではないということになる。 実際、言語は発話の形式的および意味的様式(つまり活動の様式、図式またはモデル)としての具体的存在である(第2章1参照)。各個人の発話において《言語》とは、他の人のように話す、もう少し上手に言い換えれば、こういう意味でののようにということは、歴史的に限定されたまた限定できるかのようにということである。パラドキシカルな言い方かも知れないが、具体的には言語とは、《実詞化された副詞》である。即ちラテン人のように[話す](latine[loqui]ということがラテン語(lingua latina)に変わったように、急ぎのように(rapidamente)という語が[変化の]急速さ(rapidez del[caminar])に変ったようなものである。 まったく複雑な1つの様式に対するかかわり方の違いによって、それぞれ独立した諸様式の大きな総体にかかわることになる。これらの諸様式は大部分ある限定された瞬間(研究から時間的要素を抜き出した瞬間)において考察された発話においてお互いに類似している。こういう意味で、言語状態または《共時的言語》が形成される。加えてこの諸様式は、同じく類似的で連続的な種々の《言語状態》の間で次々に現れる。こういう意味で、言語的伝統および《通時的言語》を形成している。またこういう眺望で見ればもちろん言語は、発話において、そして発話によってのみ存在している、つまり《生起した出来事・歴史》(res gestae=起こったたこと: Geschichte(歴史)<verb.geschehen)(おこる)においてのみ以前のモデルを再形成し諸様式を利用する個人的言語行為として与えられている。さらに《生起するところのものを体系化し、研究する歴史》(historia rerum=物の物語・歴史: Historie)にとって、言語は、《発達している》唯一の対象になるのである。

こういう2つの意味で、言語は等言線の体系(51)として考えることができ、また研究の対象として《抽象化》できる。それゆえ言語はまったくその本性によって、共時的なものではなく通時的である、つまりお互いに矛盾し合っている存在の2つの様式にかかわっているのではなく、共時的、通時的な対象があるのでもない(第1章2.3.1参照)。通時的視点よりすれば言語は、(伝達されている瞬間における)現実の共通の様式の総体である、そしてこれゆえに、必ず伝統的である(言い換えれば伝達されているもの、第1章3.3.2参照)。それで言語は伝統的であるがゆえに言語は共有的なものである。共時態はただ技術的に通時態に先立っているということであり、それで対象をそのようなものとして理解するということは、その対象の歴史に必然的に先行するのである(第1章3.1参照)(52)。

 

2.4.こういう意味において偶然におこる誤解を避けるために、言語は発話より抽象されると 言ってもこれはなにも言語の客観性を否定しているのではないと強調する必要がある。言語発話から抽象化された対象であるという存在のしかた、つまり観念的対象であるということは、言語について考えられるあらゆる認識を得んとする存在論的見方をもって考察すべきであり、言語について考え得るすべての客観性という見方より考察すべきではない。しかし歴史的言語は同一の話し手によって観念的な対象として認知され《抽出される》(abstraer)ということは知られている(第1章注27参照)。L.Weisgerberが、言語を単なる《文法的抽象物》と考える傾向に対して抗議するのはある程度納得できる(53)。言語を言語的活動から演繹する言語学者によっては、言語はただ技術的に《抽象物》である。そしてもし言語が抽象化できるとすれば(発話の様態および言語的知識として)、それが存在しているからであり、それを研究するときにわれわれはその客観性について《あらかじめ知っている》からである(54)。一方しばしば考えられていることとは逆に、《言語》の客観性を認識し、言語をその ようなものとして研究するのは、発話から切り離し孤立させることを意味しない。抽象物を物体化する傾向にある言語学的実証主義は、実際に《言語》と《発話》を2つのことなったと考えるに到り、言語を発話の中に位置づける代わりに、あたかも個人は非社会的で社会は個人および個人間の関係とは独立しているかのごとく、発話を個人の中に、そして言語を社会(または大衆)の中に位置づけている。既に示したように、Saussureは上記のような考え方に陥っている。しかしこの間違った考えと戦う際に、純粋な(そしてしばしば非純粋な)観念主義は逆の意味でしばしば度を過ごしがちである。そして抽象化(概念的操作)と分割化(現実的なものの中で行われる操作)を混同して、形式と構造を研究することは言語活動の完結性に影響し、それを無効にするのではないかと確信するにいたる。こういう考えを推し進めるとその結論としては、(実際にはそんなことはないが)(55)、言語学的観念主義はなんらかの研究をあきらめなければならない、なぜなら研究は常に分割化であり抽象化であ るからである。直観としては対象はその完結性において与えられている。観念的言語学の最良の理論的主張に反して(これに対して哲学的観念主義は責を負っていない)、知るということは区別するということであり、理性的区別は現実の不具化ではない、それゆえ対象の領域には影響しない、ということに固執しなければならない。いかなる場合においても対象が所与のものである様態と、対象を考察する様態を混同してはならない。もし抽象物を物体化してはならないということが確かならば、2つの特質(言語と発話)は常に1体となって与えられているという事実は、それらを別々に考察することではできないという意味ではない。例えばある1つの対象の形態と色彩は1体となって所与のものとなっている、しかしこの2つは自律的な変換物である、つまり形態を変えずに色彩を変えることも、またその逆も可能である。そしてそれゆえ、この2つをそれぞれ独自なものとして研究することができる。四角い対象物について言及するということは、その形態を分離することでも、またたまたま青であるその色を廃棄するものでもない。

 

3.1.1.言語を統合する《類推的》様式は、その配列(結構)において考えれば体系的である。この類推的様式はそのようなものとして機能しているばかりではなく、限定された範例的(paradigmatico)または連辞的(sintagmatico)構造において、また範例的であると同時に連辞的構造において相互に対立しているかぎり機能していると云える(56)。こういう意味で言語は相互依存的諸構造の体系である。

 

3.1.2.言語学的観念論においては《体系》と《構造》という概念を不信の念で見るのが一般的である。 しかしこれは根拠のない不信感である。Hegelはかなり観念的であったが体系としての言語に言及するに際しては、なんらこだわっていなかった(第1章注32参照)。言語を構成している諸構造は、発話の諸構造である、つまり具体的な言語行為の諸形式である、そしてこの体系的行為には何ら矛盾しているものはない。確かに言語は《有機体》ではない、しかしこのことは言語が《有機体性》を知らないということではない。一方発話の諸構造に還元するとか、またその無限の変種を無視するということを意味するものではない(57)。Ortega(訳注:スペインの哲学者、「大衆の反逆」で有名)はある所で概念について、「生の自発性の代わりをつとめるための道具としてではなく、生の自発性を安定したものにするための道具」として言及している(58)。抽象物はそのようなものとして認知された時に危険なものではなく、ただ具体的な事象と抽象物を同一視するときに危険なのである(第2章4参照)。発話から抽象された抽象的体系を《物質化すべき》ではないと言われるが、この意味でPaulの警告はつねに有効である(59)。

            

3.1.3.言語を構成する諸構造においては、単に普通または一般的なもの(規範)(norma)と、対立的または機能的なもの(体系)(sistema)とを区別するのが重要である(60)。例えばスペイン語でpapeleは開音であり、quesoeは閉音である、しかしスペイン語の音韻体系は開音のeと閉音のeの弁別的対立を区別していない。 や[papel]と発音しても体系には影響しない、というのは という対立だけで区別されているような2形式はスペイン語にはないからである。しかしながらこれはスペイン語の規範にはあわない。 同様にスペイン語の[b]と は非相互互換的な《結合変種》であるかぎり、機能的に唯一の不変体である/b/に対応するのであり、スペイン語において(単にあれこれの個人の発話においてではなく)規範的不変体である。しかしこれはらは唯一の機能的不変体/b/の対応している。 [b]と の対立は、(弁別的)機能的ではないがスペイン語、より正確に言えばスペイン語の実現体の規範に属している(61)。規範はある意味で体系よりもより広い、つまりより多くの数の特徴をゆうしている、それで例えばスペイン語の場合/b/は機能的視点よりすれば非弁別的である摩擦性かまたは閉鎖性を要求している。ある意味ではより狭い、つまり体系によって許容されている実現体の種々の可能性のうちの1つを選択するよう指示しているという意味で。このような選択はある時は(社会的、地域的)《外的》変種、そしてまた(結合的、配列的)《内的》な変種を示すのである。それで、言語の規範は、体系によって許容された種々の実現体のうちの(社会的、地域的)《外的》平衡性を表示する。(例えばフランス語で音素/r/の歯茎音的実現体と懸壅垂音的実現体の間の均衡といったようなものである)。また同時に言語の規範は、(《規範的不変体》であるところの)結合的および分布的異形の間、および機能等質的で体系的な種々の様式の間で言語の《内的》均衡を示している。その例として 挙げれば、オランダ語の複数形の-s-en、また古典ペルシャ語の複数形の (62)や、スペイン語の強分詞形と弱分詞形(62)との間の均衡等がある。体系の均衡としての規範は、機能的規範とよぶことができる。

 一般的に言えば、 機能的言語(話されうる言語)は、《機能的対立の体系と規範 的実現体》、言い換えると体系規範であるといえる。体系は共同体において了解可能な発話の《開かれた道と閉ざされた道を指し示している諸可能性や配列の体系》である(64)。一方規範は、社会的文化的に認知された所の、《強制された実現体の体系》(これについては第1章3.3で解明されている)である、つまり規範は《言うことが出来ること》に対応せず、《すでに言われたこと》または、《考察対象の共同体において伝統的に言われていること》に対応する(65)。体系は言語の実現体の理想的形式、つまり対応する言語的枠組みを作る技術、規準を内包している。一方規範はこの技術や規範によって歴史的にすでに実現されたモデルを内包している。こういう見方からすると体系は言語の躍動性(dinamicidad)や言語の自己形成の方法、つまり既に実現されたものを乗り越えようとする可能性を示している。これとは逆に規範は伝統的な鋳型に言語を固定する、ということに対応している。こういう意味でまったく規範は体系の(《内的》および《外的》)共時的平衡性を示している。

 

【訳者注:[b]と について:標準スペイン語では、例えばbaca, cabezaの{b}の発音は、それぞれ[baka], と、[b] である、この2音は音素的には対立していないが、実際の発音においては、語頭のb-は両唇閉鎖音[b]であり、 母音間の-b-は両唇摩擦音 である。】

          

3.1.4.しかしながら機能的言語を、歴史的言語または言葉(例えばスペイン語フランス語)と混同してはならない。言語は単に種々の規範を包含しているだけではなく、種々の体系を包含している。たとえばcaza(スペイン語―狩りをする―)を、 a]や[kasa]と実現しても2つは同じスペイン語である、しかしこれは異なった2つの体系に対応している。つまりある体系においては、casa(家)とcaza(狩り)は区別されるが、別の体系では(少なくとも音声的には)区別されていない(66)。それで《スペイン語》はその中に種々の機能的体系を含む《大体系》(archisistema)であると云える(67)。1つの大体系によって包含されている諸体系のうちの平衡性を歴史的規範とよぶことができる(68)。

 

【訳者注:スペイン語のcasa(家)とcaza(狩猟)について:標準スペイン語では、発音はそれぞれ、casa[kasa],caza である。しかし [s]と発音する場所がある(アンダルシア地方、カナリア諸島、中南米のスペイン語)。これをseseoという。】

 

3.2.1.具体的な発話において確認される言語的様式は既に述べたごとく(第2章1参照)、話し手の《言語知識》を表している。各話し手としての主体にとって、言語は発話の知識であり所与の共同体における、そして所与の伝統による話し方についての知識である。この知識を基礎として、話し手は他の話し手の表現と合致し、また他者によって採用されている限り、発話において確認される言語を統合する(または統合するに至る)表現を創造する。こういう意味ですべての話し手は《他者にとって》創造者である。しかし話し手はただ例外的に彼自身のモデルを創造するにすぎない、つまり言語的知識を絶え間なく他の話し手より獲得する(69)。

 

3.2.2.こういう言語の性質に注目して考察すれば、 言語的知識は行為の知識、言い換えれば技術的知識である。発話は《無意識的》であるとか、または話し手は自己の話している言語の規範を意識していないなどと言われることがしばしばある(第3章2.3参照)、しかしこれは排除されるべき不適切で矛盾した観念である。醒めた意識の非病理的活動は《無意識》ではないし、またそうでありえない、デカルト派のある思想家は、人間は本来なにも《為して》いない(どのようにして作るのかを知らないものを創るのは不可能である:imposibile est, ut is faciat, qui necscit quomodo fiat)(70)ということを支持するための原理を提示したが、この原理は言語的行為の目的にとってはむしろ逆にすべきである、つまり人間は自分のしていることを知らないということは不可能であるということである。現に行われているのは、言語的知識(発話の知識、話されたことの理解)は、理論的知識ではない、言い換えれば人間は動機付けられ得ない、 または少なくとも彼の全体性において動機づけられていないということである。しかし自己の言語を話すすべての話し手にとって言語知識は、明確なそして確実な知識である。これはLeibnizが(71)、明確であり混乱している(つまり確実であるがしかし正当化しえないもの)と呼んだタイプの知識、またLeibniz自身が明瞭であるが不適切であると呼んだタイプの知識に属している。しかしながら単にある言語の会話の知識があるとるということはある面では、(話し手が曖昧に知っていることすべてを含む)不明瞭な知識と隣接しているし、また他面では文法家(言語学者)の知識であり、また文法家としての話し手の知識である明瞭で適切な知識と隣接している(72)。言語的知識の存在と確実性は、肯定的には形式的図式や伝統的で表意的図式を話し手は利用している、という事実に現れているし、否定的には話し手は自己の言語に対応しないものに対しては、 何か疎遠なものとして認知するという事実に現れている。それでスペイン語の話し手は、 *   や*stramdという形式を非スペイン語的であると認知する、そしてこのころによって彼が話している言語の体系を知っているということを示すのである。しかし一方*nurroや*llambadaという形式に対しては自分はそういう形式を知らないと単に言うだけである。単語を新しく創る人は常に体系において《可能な》語を創造するのである。ambosを[anvos]と発音したりするのを、非スペイン語的であると認めたり、escritoの代わりにescribidoという形式に対して間違っていると認識する話し手は、規範についての知識を有していることを示 しているのである。そして という形式は、 (halla)であると言い添えて説明する人は、同一のことば(idioma)に属している別の体系の知識を有していることを示しているのである。

 

【訳者注:

* * stramdについて:スペイン語の母音は5つで大体日本語の母音と同じ[e,i,o,u,a]である、 という母音はない。また、stramdという外来語がスペイン語に借用語として入った場合には、estra-とsの前にeを付け加えるのが通常である。*nurro、*llambadaについて:この2単語はスペイン語風の語であるが、実際に何も意味しない。 halla(動詞三人称単数、見つける)は標準スペイン語では、 (国際発音記号<IPA>では と発音するが、南米では (IPAでは と発音する。ambos[anvos]について:スペイン語では、{b}と{v}は双方とも発音は、[b]であり、[b]:[v]を区別しない。それで、[anvos]という発音はスペイン語風でないと聞き手は判断する。esrito:escribidoについて:不定詞のescribir(書く)の過去分詞はescritoであるが、他の多くのスペイン語動詞の過去分詞の形成のための規則的変化によると語幹に-doを付けて、*escribidoとなるが、これは通常の現代スペイン語では存在しない語形である。】 

 

3.2.3.言語的知識の問題を設定する必要性は、Hermann Paulによってかなり明確に指摘されたのを 思い起こすべきである。Paulは、(音声の産出という意図にとって)この言語的知識の《意識》に種々の段階を 区別すべきであると考えていた(73)。しかし彼はその本来的特性を見るに至らなかったし、また彼のヘルバル ト流の原理 (訳注:Johann Friedrich Herbart, ドイツの哲学・心理学者:1776-1841)のゆえにこのことについて十分満足のゆく解明に達し得なかった。 Saussureはこの種の問題を設定しなかった、そしてこの問題についてはSchleicherに同調し、話し手の《意識の不足》ということを取り上げた。「話し手というものは、おおかた言語の法則について無意識である、それを心得ていないとしたら、どのようにそれを変更するのであろうか」....「なぜならこの体系は複雑な機構だからである、これをとらえるには反省によるほかにはない、これを常用している人々自身、それをまるきり知らないのである」(74)。しかしながら話し手はまさしく体系やいわゆる《言語の法則》というものに十分な意識を持っているのである。話し手は自分が何を言っているのかについて知っているばかりではなく、どのように言っているのか(言い換えれば、どういう風に言っているのか)ということも知っている、そうでないとすれば話し手は話すことが出来ないのである。しかしこの問題は言語的道具を理解するということにかかわっているのではなく(これは言語学者の仕事である)、言語使用についての知識、規範の保持(再生)および体系と合致するような創造的知識にかかわる問題である。

 

3.3.言語的知識が転移可能な知識(これは単なる個人的な《能力》ということではない)である限り、文化である。このことは、言語は非言語的な文化を基礎づけ、それを《反映》するということ、またHegelの言うように、《文化の現実[Wirklichkeit]》であるということの他に(75)、それ自身が文化である(76)。実際のところ人間は言語活動の介入によって諸事象の知識をもっており、また言語活動についての知識をもっている(注72参照)。こういう意味で言語の《文化的側面》は言語的知識としての言語そのものである。

 

3.4.1.言語的知識は種々のまた多くの話し手に共通な知識である限り、個人相互的または社会的なものである。それゆえ普遍的ではなく伝統的な知識である限り、言語的知識は歴史的知識である。それゆえ歴史的視点はまさしく矛盾なく共時的言語にも適用されるのである。それゆえ(通時的ではなく)歴史的視点よりすれば共時的言語学は、新しくそして旧い言語的伝統の現実であり、体系である(第2章3参照)。

 

3.4.2.言語的知識の個人相互性(interindividualidad)は、一面よりするとその歴史性の当然の帰結であり、言語活動それ自身の機能によって与えられている説明以上のものを必要としない。それで言語をSaussureがやったように大衆の中に設定したり、Vosslerのように民衆の精神の仮想的な集団的傾向に帰す必要はないのである。個人相互性は、《大衆》の言語によって正当化されるのではなく、逆にその言語の自己形成の条件であり基盤でもある。つまり言語的事象は、はじめから所与のものであり個人相互的なものとして理解されているゆえに、《言語の事象》であるのであって、その逆ではない。つまり伝統的習慣や知識を離れては《民衆の精神》というものは存在しないのである。同様に、J.Lohmannのように《超個人的理性》に帰すのも適切ではないし(77)、またR.A. Hall Jr.のように《超自我》に帰すのも適切ではない(78)。このような不適切な問題の処理のしかたとかかわりあう意図は、(それ自身が《社会的》なものである)本体的に個人的意識に対して、言語活動が有している《動揺性》という性格を明確にすることであり、また言語の《他の人もまた》という存在としてすべての意識に提示されているという事実を明らかにしようとしたからである(第1章3.3参照)。しかしながら、例えば超自我が個人的なものとして理解されたとしても、ここで引用された諸概念はPaulによってすでに言語学から排除された別のタイプの《集団心理》に余りにも似ているようである(79)。一方この疑問の多い概念の有効性を別にしても、これらの諸概念は言語の個人相互性を説明していない、逆にこれらの諸概念は言語的知識の個人相互的なもの(lo interindividual)に関する有効な概念を指示しておらず、2次的で派生的なものを指示しているにすぎない。

 

3.5.1.現実の言語において体系的、文化的、社会的また歴史的なものは合致するということが、 上記のことから推測される、(しかしながら体系的、文化的、社会的、歴史的な種々の構造の限界とは合致しない)しかしこのことは、何も歴史的言語の種々性を無視するということではない。ある歴史的言語がある1つの体系または1つの規範と合致するということはまずない(第3章1.4参照)、しかし歴史的言語において、ある見方からすると体系的であるようなものは(体系および規範または諸規範として)、すべて同時に文化的、社会的、歴史的である。意味されるものは伝統的である、そして《多くの伝統が存在している》(80)。同じことが言語的知識の他の側面についても云える、つまり一般に大きな言語的伝統の範囲内には常に小さな範囲の広がりをゆうする種々の伝統が存在している、ということである。言語的知識のこの多様性は《共同体》において存在しているばかりではなく、個人そのものにおいても存在している。歴史的なものとしての個人は、一連の伝統を知っており、状況や話をしている場(言い換えれば相互理解の必要性)、または話し手の表現的意図によってこれらの諸伝統を使いこなしている。ウルグアイで、例えば学校の教師は教室でラプラタ河流域の音韻体系やスペイン語の標準カステリア語の音韻体系を使う(後者は特に書取りの際に用いる)のが一般的である。それで、hojearojear, hallahaya, cazacasa, revelarrebelarを区別するために《hのある》とか《llのある》(81)とか、《zの》とか《短いvの》とか言って書記素体系にたよることがある。そしてもし と言ったとすると、すぐに《hのある[aja]》と説明する(つまりhallaayaではなくhaya)。この場合教師はメタ言語(言語について語る言語)を使い、同一のディスコースにおいて3つの違った体系を使用している。

 

【訳者注:hojear(動詞不定形:頁を繰る) ojear(動詞不定形:ジロリと見る), halla(動詞三人称単数:見つける) haya(haber:動詞三人称単数命令形:持つベし), caza: casa, revelar(動詞不定形:明らかにする): rebelar(動詞不定形:反乱する)について:標準スペイン語でのそれぞれの発音は、hojearとojearは共に[oxear]IPAである、{h}はスペイン語では発音しない。 hallaは IPA と発音し、hayaaya(女性養育係)は共に発音は[aja]:IPA[aja]である。南米ではこの halla, haya, ayaは3つ共に :IPA と発音する。casaとcazaについては前で触れたとおりである。revelarとrebelarについては、 スペイン語の{b}と{v}の発音は同じ/b/([b]又は )で区別がない。それでこの2語ともに発音は と同様に発音さえる】

 

3.5.2.それゆえR.Hall(82)が考えていたこととは逆に、B.Blockによって導入された 個人語(idiolect)という概念は、(客観的体系的記述のためには)諸体系の共存ということが提起している困難さを解決せず、またこの概念をラングパロールの《中間的なもの》として導入することができない。それでこの2つを対応しているものとして解するなら、言語と発話の違いは、抽象的と具体的(または知識と行為、潜在と実践、暗示的と現示的)な違いであり、質的または包摂範囲の違いということではない。しかしながらこの概念は新しいものではない、新しいのはただ用語だけであり、概念としての個人語はK.RoggerのIndividualsprachやイタリアの学者達のlingua individualeと類似している。またJespersenも《個人の言語習慣》について語っている(83)。しかしA.H.Gardinerも言っているように(84)、《個人の言語》は単に《言語》(langue)であるにすぎない(85)。 《個人の言語》という概念それ自身は、―(種々の言語に属している要素を含む)個人的な言語的貯えという意味や、美学的に特有な意味を切り離しても― 雑然たる概念である。(個人の発話より導き出された)《個人の言語》というものは、単に技術的に《言語》であるにすぎず、現実にそうであるのではない。《言語》である限りにおいて、これは厳密に云えば個人的なものではない、言い換えれば厳密に《個人的なもの》である限り、それは言語ではない。《他人と》共有して話されないような言語というものは存在しない(86)。

 

4.1.これまで設定されたことに基づいて、言い換えればエネルギアとしての言語活動の視点または自由という側面からすれば、言語変化の問題は、その諸事項の複雑性をそのまま保ちながらあらゆる理性的矛盾や、見せかけの神秘性から脱することができる。さらにある意味で、言語変化はあらゆる話し手の活動領域の中に存し、言語活動についての日常的経験に属している。言語活動は一回だけの事実といったものではなく、次々に作られるようなもの、言い換えれば永続的行為である。それでSteinthalもすでに述べているように、「言語活動においては《初源的》創造と、日々の繰返しということの間には、相違は存在しない」(87)。そして勿論言語を使っている人、つまり話し手は、すでに(第3章2.2)で明らかにしたように、何をどういう風に話しているのか承知している。

 

4.2。しばしば混同されている言語変化の3つの問題点を区別する必要がある。

a)変化の合理性の問題(なぜ言語は変化するのか、言い換えればなぜ言語は不変でないのか)

b)変化の一般的問題。これは今後論じられるのであるが因果律的な問題ではなくして、《条件的》な問題である。(どういう条件において言語の変化は生起するのか)

c)ある特定の変化の歴史的問題(88)

事実この第2の問題はいわゆる《一般言語学》の問題である。そして歴史言語学の諸成果の一般化ということを除いて、固有の《一般》言語学というものは存在しないとすれば、この問題は、第3の問題についてのある側面の一般化である。その解決は歴史的具体的な問題の種々の解答の一般化である。そしてこれは歴史的事実についての既知の積み重ねとして、新しい具体的な問題の解決に仮説を提示する。第1の問題は、諸言語の変動性の理論的問題である、そしてこれが理論的な問題である限り諸事実の認識に依存している、というのはあらゆる理論は経験(または現実的なもの)の理論である。しかしその解明は部分的な種々の解答の単なる一般化ということではなく、逆に先験的な問題である。そして第2,第3の問題の正しい問題設定は、この問題の解明に依存している。人間科学において必然的におこるように、この問題の設定は言語活動についての創造的知恵、言い換えれば人間が自身の内で有 しているところのあらゆる科学に先立つ認識の上に基礎づけられている(89)。言語学を最も苦しめている間違いの1つ(これは言語を《もの》と考え、人間科学と自然科学との混同から生ずる)は、(理性的)理論的問題を単なる《一般的》な問題に還元してしまおうとすることである。言語変化について論ずる場合、この間違いは言語の変動性の問題を、多くの特定の変化の《原因》または《諸原因》を見いだせば解決されたものと信じてしまうという所に存する。

 


第2章の注

(1)A.Pagliaro [Corso di Glottologia] Roma 1950 1, p.112以下、121-122:

[Logico e grammatica]《Ricersch Linguistische》1,1,p.1: [Il linguaggio come conoscenza] p.55: [Il segno vivente]p.33および E.Coseriu[Forma y sustancia]p.17-18を参照

(2)《言語》と《コード》(コードは歴史性を欠いている)の違いについては、A. Pagliaro, [Corso]p.195および[Il linguaggio] p.78, 87, E. Coseriu,[Forma y sustancia]p.56,59を参照。これに関しては、まさにコードであるところの所謂人工的言語と同類の国際補助語としてのラテン語の利用がしばしば唱えられたのを思い返すのは興味のあるところである。

(3)N.Hartmann.ob.cit. p.219

(4)V.Pisaniは、[Allgemeine und vergleichende Sprachwissenshaft. Indogermanistikについての Forschungsbericht]:、Bern, 1953 p.24で 、三百人のユカギール人が眠り、夢を見ないならば彼らの言語は、言語として存在することをやめる、そしてなんらかの理由により目覚めないとすれば、完全に存在しなくなってしまう、としている。言語の存在様式について、J.Ortega y Gassetの言明を参照、[El hombre y la gente]Madrid 1957 p.280. 「事実、言語というものは決して《作られてもの》ではないという簡単な理由から、決して《事実》ではなく、むしろ作られた、こわされたもの、言い換えれば永続的創造ならびに絶えざる破壊なのだ」。(訳者注:邦訳は「個人と社会」オルテガ著作集第5巻、東京、1969年がる、当該箇所は、295頁)。

(5)G.W.F.Hegel, [Phanomenoligie des Geistes]の序言

(6)「Cours」p.51:21

(7)「Cours」p.50-51:pp.21

(8)われわれは、ことば(話すということ)の領域に身を置くと、言語と同時に発話を含むことになる。このことは、言語は発話において所与のものである、一方発話は言語において所与のものではないからである。

(9)この概念については、W.Porzig, [Das Wunder der Sprache] Bern 1950,p.106以下を参照。またSaussureの《言語》というものの3つの概念のうちの1つについて論じている。「Cours」pp.57,65,144:pp.26,33,110および[SNH]pp.24-26を参照。[訳者注:邦訳「ことばの不思議」白水社刊、およびスペイン語訳「El mundo maravilloso de lenguaje」あり]

(10)Platon [Cratylos]378b-388d

(11)ジュネーブの言語学会(1931)への報告、なお次の論文を参照、"Algunas observaciones sobre las relaciones de la sociologia con la linguistica, Durkheim y F. de Saussure", Psychologie du langage(=Journal de Psychologie.XXX,1933)スペイン語訳、[Psicologia del lenguaje ] Buenos Aires 1952, pp.66-73に所収。

(12)"Algunas observaciones" pp.72-73.

(13)Durkheimは、まったく典型的な実証主義的態度を示しながら、自分の方法はあらゆる哲学から独立している、としている、[Les regles de la methode sociologique]のスペイン語訳[Las reglas del metodo sociologico]Madrid 1921,p.237.

(14)しかしながら勿論、固有の対象を持っている科学としての社会学の正当性については、問題が多い、しかしこのことは、これらと直接的、実際的に関係している社会研究、また場合によっては、歴史の補助的研究または解釈学でもある社会研究の総体としての社会学を無効にすることはない。

(15)[Las reglas]p.38

(16)Saussureは、「Cours」p.138-139:pp.104-106で、言語と他の社会制度の間には、はっきりした違いが存在することに気付いているが、その違いは根本的なものであることには気づいていない。

(17)[Las reglas] pp.39-40

(18)例えば、[Las reglas]pp.1-2を参照。

(19)"Representations individuelles et representations collectives"[Sociologie et philosophie]所収、Paris p.35

(20)[Las reglas]p.18

(21)"Representations" p.36

(22)「Cours」p.57:p.26

(23)[Las reglas]pp.15,40 "Representations" p.35

(24)「Cours」p.58:p.27

(25)「Cours」p.64:p.33. さらにBallyとSechehayeは注を加えている(「Cours」p.128:p.96)、「Saussureにとっては、言語は本質的に貯蓄であり、外から受けとった事物である」。

(26)[Las reglas]p.23

(27)「Cours」p.55-58:pp.26-27

(28)[Las reglas] p.23

(29)「Cours」p.364:p.327. この句はまったく典型的なDurkheim流のものである。Durkheimは、社会の労働の区分すら(だれが何のために)それ自体として、そしてそれ自身のために、そして客観的事実として研究しようとしている。[De la division du travail social]4版、Paris 1922 p.8-9

(30)[Las reglas] pp.9,55以下、241

(31)Durkheimは、事実を物として取り扱うということは、それによって1つの一定の精神的態度を観察することである、としている([Las reglas]p.10)。しかしこの精神的態度の悪いところは、事実をありのままとりあつかおうとしないことである。

(32)「Cours」p.64:p.33

(33)「Cours」p.47,60:pp.17,29。Durkheimは、大きく《社会生理学》と呼ぶものの中に、特殊社会学をふくめて言語社会学をいれている。"Sociologia y ciencias sociales", [De la methode dans les sciences]のスペイン語訳[Del metodo en las ciencias]Madrid 1911 p.345を参照。 

(34)「Cours」p.174:p.139

(35)[Linguistique historique et linguistique generale]II, Paris 1938, pp.72-73

(36)「Cours」p.50:p.20

(37)事実、言語は発話より分離しているものとして認識することが出きる、ただしこれは単に抽象的言語として、ということである。言語行為から解き放たれたものとしては考えることのできないもの、それは具体的言語である。

(38)ob.cit.p.72-73. そのように知覚された言語は、Durkheimによって与えられた社会的事実の定義に正確に対応している、という見解が以下に続く。そして73頁の注でMeilletは、Saussureの概念を再び採用するとしている。

(39)[Linguistique historique et linguistique general]1新版 Paris 1948 p.16

(40)M.Breal, [Essai de semantique] Paris 1897 p.3以下、および特にp.306-307を参照。

(41)これについては、V.Pisani, "August Schleicher und eine Richtungen Sprachwissenschaft" 《Lingua》 IV pp.337-369を見よ。また[Forma y sustancia]pp.61-62を参照

(42)[Compendium der vergleichenden Grammatik der Indogermanischen Sprach]2版, Weimar 1866 p.2注、「言語はすべての自然有機体と同じように生きている、われわれがこのことばを、厳格で本来的な意味で考える限り、言語は人間のように歴史を持つことはなく、またそれが問題となることもない」、を参照。

(43)[Essai] pp.4-5

(44)L. Stefanini, [Trattato di estatica] I Brescia 1955, p.82

(45)絶対的不可能性を経験的に論証することはできない。経験的に論証できるものは必ず状況的なものである、つまりあれこれの条件下において、何々であると云えるだけである。絶対的不可能性が、《事実上》論証されるように見えるときには、合理的不可能性が問題になっているからにすぎない。

(46)[Sprachbau] p.44

(47)実際に最初から《所産》として与えられているものは、所産として認知されえず、またそのようなものとして研究することもできず(もしその活動を知らなければ)ただ《物》として認知され、研究されるのである。Wirkenに言及することなくWerkを認知することはできない。

(48)F.W.J.Schelling, [System des transzendentalen Idealismus] VI,1

(49)もし表意作用がすでに《言語》の中にあるとすれば、発話の対象は無限ではなく、発話それ自体は本来的意味で自由な活動、つまり新しい表意作用の創造ではなくなるであろう。それゆえ、一挙に全部が定義された意味内容を持った《完全》で《十全》な言語を作ろうとする学者は、根本的に間違っていることになる。彼らは、不条理で無益な仕事をしようとしているのであり、ことばを本来のものから別のものに変形してしまおいうとしている。これについては、Hegel, [Wissenschaft der Logik]III,1,3.A.d.注、および[Encyklopadie]ss.459を参照。

(50)言語と発話の《優先性》の問題は、もし時間的先行性を2つの極の1つに帰することによって、この問題を解決しようとするなら、間違った問題、また少なくとも間違って設定された問題であることになる。ある意味で、言語活動の歴史的条件としての言語は、発話に先行している、そして別の意味で、自由で創造的な活動としての言は、言語に先行している。

(51)V.Pisani, "La lingua e la sua storia", [Linguistica generale e indeuropea]所収 Milano, 1947,p.9-19,および[L'Etimologia],Milano,1947 p.49以下を参照。

(52)無論このことによって、共時態と通時態の間の二律背反を排除するものではなく(それでこれを排除すべきではない)、その技術的性格を再確認するだけである。この二律背反は研究の技術に属することであり、言語の現実に属するものではない。これについては「Cours」p.149:p.115の、「われわれの科学の静態的側面に関するものは、すべて共時的である」、ということばを思い返すのが適切であろう。

(53)[Die Sprache unter den Kraften des menschlichen Daseins]2版 p.8-9

(54)[Forma y sustancia] p.33-36,52

(55)実際に観念的言語学者達は、現在用いられているあらゆる抽象物を用いて研究を進めている(《言語》、《方言》、《基層》、《単語》、《語根》、《語幹》、《接頭辞》、《屈折語尾》等々)、これらは一方では、まったく正当なものである。

(56)まさにこの体系性により、言語様式は根本的に非言語的シンボル、例えば《正義のシンボル》である秤とは区別される。

(57)C.Schickは、(Paideia)X,4の[Forma y sustancia]の論評において、 この点について訂正しているようには見えない。 Schickは、著者の支持していると思われる(しかし実際には支持していない) 諸命題に対立する奇妙な方法を少なくとも部分的に適用し (これはまさにSchick自身の命題を適用しているということである)、 体系と規範の間の区別を困惑の体で考察している、 『観念論的傾向の学派の原理に精通している人にとって、 存在している2分法を超越するために、さらに下位区分を導入する必要性があるということは、 困惑をもたらすことになる...Coseriuは、 体系(sistema)と 発話(parola)との間の中間に 規範という概念を導入する』(p.272-273)。 事実、[Forma y sustancia]の著者は、観念論にかなり《精通》している、 しかし規範と体系の区別は、Saussureのいう言語(これは具物化された抽象物であり、 その中に下位区分を導入するのはよろしくない)における《下位区分》ではなく、 また[SNH]および[Forma y sustancia]において明確に排除されている2分法を修正するために 導入されたものでもない。これはことばの構造の諸タイプの区分、正確には、単に共通な(伝統的な) 構造と、機能的(弁別的)構造との区別にかかわっているのである。Schickはこのことを納得することなく、 次のように続けている、「イタリアの言語学、特にTerraciniは、言語活動についての最も直接的な 考察によって、それぞれの人工的二律背反の超越にいたった、これは種々の対立の恒常的な超越である」(p.273)。 著者は、イタリア言語学の長所を無視しようという意図を持っていない、むしろ著者自身この学派の気質 に染まっている。どの国よりも活発にイタリアで保たれている、ヒューマニズムの伝統や、 また今世紀のイタリアの偉大な哲学的運動のお陰で、イタリアの言語学は、 今日、社会学的、物理学的混同や数学化による不合理さや単純さから最も自由である。 しかしながら、イタリアの言語学の一部には(特にTerraciniにおいて、またはいいかえて最も洞察力のある、 そして鋭い言語学者においては)、観念的な区別、および手段としての区別は、対象の整合性に影響を及ぼすのでは ないかとの危惧が存在している。こういう態度とともに別の道を取ることもできる、 しかしながら別の道をとっても、二律背反を超越することにはならない、 なぜなら《超越》するということは単に《受け入れない》とか《排除する》ということではなく、 《有効性のあるものの内で、否定されているものを否定すると同時に、それを保持しながら、 もっと前進する》ということがあるからである。それで言語的活動の種々の二律背反を 《超越》するということは当たっていない、というのは話し手にとって、 二律背反は存在していないからである。さらに事物をこういう風に示すということは、 暗に話し手と言語学者の立場の同一視という、受け入れ難いことを意味することになる。 言語学は、第一義的ことば(第1章2.3.2参照)ではなく、 《ことばにかんすることば》であり、それゆえ単なる話し手の視点を採用することはできない。 言語活動に関する話し手の知識から出発しなければならない。 しかしことばの側面と言語学の側面を混同してはならない。もし言語が《話し手が行わない区別は行わない》という原則を採用するなら、なんら区別をすることはできず、言語学は成立しないであろう。観念主義に関しては、これを《既知のもの:Bekanntes》より《識別されたもの:Erkanntes》への移行として、現実の合理性の抑圧と理解する必要がある(Hegel)。翻って、もし観念主義ということばを、分別しないということであると理解するなら、それは漠然とした印象主義、判断についての単なる感嘆(根拠のある理解ということの代わりに、熱狂の内の雄叫び:理性的な分析の代わりの《狂騒、在れかし:tolle, lege>)となってしまい、反観念主義者と自己表明することになってしまう。

(58)[Meditaciones del Quijote]Madrid 1914. p.43

(訳者注:「ドン・キホーテをめぐる省察」長南実訳、オルテガ諸作集1.白水社1970年の翻訳あり。)

(59)[Prinzipien] p.11

(60)[SNH] p.54以下を参照

(61)他の例(音声的、文法的、語彙的)として[SNH]p.42-54, また[Forma y sustancia]pp.25-32を参照。特に音声的分野に関しては、N.van Wijk, J.LazicziusやB.Malmbergの研究、特にMalmbergの[Systems]および[Till fragan av sprackets systemkaraktar], Lund 1947を参照。   

(62)今日、屈折語尾の - は実際に一般的である の《任意異形》ではない。

(63)cinto, visto , veidoが共に許容されていた時代において、これは単なる《異形》、またはせいぜい《外的》均衡状態における実現体の《不変異形》として取り扱われていた。 今日機能的な《内的》均衡状態において、visto, のみを認めている。

(64)無論、この《諸可能性》は、多くの場所で実現されているので存在し、また認知されるのである。Z.S.Harris, Distributional Structure,《Word》,X,1954 p.150参照。しばしば云われているように、どういう方法によって、体系は《実現されていない時ですら》存在しうるのか、ということについては解っていない。 (これについて Hjelmslevは[Omkring Sprogteoriens Grundlaeggelse]英訳[Prolegomena to a Theory of Language]Balt imore,1953,p.68、<スペイン語訳あり、 Madrid、Gredos,1972>で述べている)。 言語学の諸体系は、現実の歴史的体系であり、単なる仮説的構成物ではない。 【訳者注:[Omkring]に日本語訳「言語理論序説「林栄一訳述、研究社、英語学ライブラリー(41)昭和34年がある)。

(65)[SNH]p.59を参照。この著書で《社会的文化的賦課(imposiciones)》について述べている。しかしこれは不幸な表現である、というのは言語は話し手に賦課されるものではないからである。(第3章1.1参照)

(66)[Forma y sustancia]pp.28-29.70-71を参照。

(67)これらの諸体系は、地域的なものであり、同一の地域にも共存しうる(たとえば社会的または文化的に異なった階層において)。ある《言語状態》における諸体系の共存性については、以下を参照。Ch.C. FriesとK.L.Pikeの"Coexistent Phonemic Systems"《Language》XXV,p.29以下、Pisani,[Forschungsbericht] pp.38-39, G.Devoto, [I fondament ],p.37, N.C.W.Spence, "A Hardy Perennial, The Problem of la langue and la parole" ArchL.IX,1957,p.1-27,およびMalmbergの[Systeme]と[Till fragan]。一個人のことばにおける《方言的》および《文体的》変種については、Z.S.Harris, [Methods in Structural Linguistics], Chicago 1950,p.9-11を参照。

(68)別の所で著者が明らかにするように、規範的対立は本質的に体系的対立とは違っている。後者は内的なものである、一方前者は外的なものである。規範の事実は《機能的》でありうる(例えば表現的または呼称的機能を果たすことがある)、しかし別の社会的環境や、別の地域的境界や、体系の別の《場所》に対応する他の規範や《語られていない》もの(存在していない規範)に関しては、機能的であるかもしれないが、同じ規範内においては機能的でありえない。それで1つの大体系(archisistema)内における種々の体系間の諸対立は、《規範的》であると考えられる。それでたとえば、 ラプラタ河流域のスペイン語で、 を (/j/でも でもなく) とするとは、《カステリアの標準スペイン語》に関しては文体的に機能的事実である、しかしラプラタ河流域のスペイン語の同じ体系内でそうであるわけではない。[Forma y sustancia],p.26 E.Coseriu y W.Vasques, [Para la unificacion de las ciencias fonicas],Montevideo 1953,p.11を参照。

(69)N.Hartmann, ob.cit.,p.213を参照、「個人は自己の言語を創造することはなく、既に話されている言語としてそれを見いだすことになる、そして他の話し手と話をするうちに言語を受け取ることとなる」。一方プラトンは、言語の主人は《民衆》であるとしている、Prot.,327e.Alcib.,IIIaを参照。

(70)この句は、17世紀のオランダの哲学者、A.Geulinxのものである。

(71)[De cognitione, veritate et ideis] 1684. スペイン語訳[Tratados fundamentales]2版、Buenos Aires, 1946,p.149以下

(72)B.Croceは、[Problemi di estetica]4版、Bari 1949所収の"Questa travola rotonda equadrata" p.173-177で、文法は対象を持っていないので科学ではない、というのは文法は知識の特別の形式ではなく、また事物の文法的視界というものは存在していないとしている。事物の文法的視界は存在していないというのは、明らかである、しかし文法は事物ではなく単語にかかわるのである。文法は言語活動において顕現している非言語的世界についての知識ではなく、言語活動そのものについての知識を組織化するものである。ことばの形式的、意味的様態について、H.J.Pos, "The Foundations of Word-Meaning", 《Lingua》,I.3,p.285を参照、「事実、人間は言語の助けをかりて事物についての知識を所有しているばかりではなく、言語そのものとしての知識を所有している」。この知識は文法の(言語学すべての)基礎そのものである。

(73)[Prinzipien],p.49以下を参照

(74)「Cours」pp.137-138:pp.103-104またpp.265-266:pp.230-231を参照、そこでSaussureは類推について論じ、話し手は言語の体系的諸関係の意識を有しているとしている。話し手に仮定されている《無意識》という観念について、M.Bartolo, [Introduzione alla neolonguistica],Ginebra 1952,pp.96-97,および、V.Pisani [Geolinguistica],p.148を参照。

(75)[Phanomenologie des Geistes] VI.B

(76)《文化的事実》としての言語活動、また同時に文化の《条件》について、J.Dewey,[Logica]pp.60-61,72の考察を参照

(77)(Lexis) III,2,p.217,: V.Pisaniの返事、[Paideia],IX,6,p.386を参照

(78)"Ideolect and Linguistics Super-ego", [Studia Linguistica],V.pp.21-27

(79)[Prinzipien],p.10-12またB.Croce, "La Volkerpsychologie e il sui preteso contenuto", [Conversazion ritische I]2nd.所収、Bari,1924,pp.121-125,および O.Jespersen, [Mankind, Nation and Individual from a Lingusiticc Point of View],スペイン語訳[Humanidad, Nacion, Individuo, desde el punto de vista linguistica], Buenos Aires 1947, pp.26-27, 47.を参照

(80)J. Dewey, [Logica], p.66

(81)ラプラタ河流域での慣用ですら、綴字 llの名称は ではなく、 である。     

(82)art.cit.

(83)[Humanidad],p.25以下、および[Atti del III Congresso Internazionale dei Linguisti], Firenze p.354. D.Jonesが使用している《言語》の概念について、"On phoneme", TCLP,IV.p.74 [The Phoneme: its Nature and Use] Cambridge 1950,p.9を参照。

(84)"The distinction of 《Speech》 and 《Language》", Atti.III,p.347

(85)また[Forma y sustancia],p.71を参照

(86)《個人》的言語という概念の不適格性について、Malmberg,[Systeme],p.18を参照。著者はHallがCroce流の言語活動についての概念より作った観念は、根本的に不正確なものと考える。Croceの云う《個人》は、なんらの社会的、心理的なものから抽象される個人(非社会的、非歴史的個人)ではなく、具体的な個人である、また同時に社会的歴史的である。それでCroceの云う《主体》は、経験的主体ではなく、《普遍的主体》(創造主としての精神)である。最後にCroceの云う言語活動は、理論的活動としての言語活動である記号の使用としての言語活動ではない。Croceは、言語活動は本質的に詩的なものであるとしている。しかしいかなる発話も詩であるとはしていない。それゆえCroceはBloomfieldに対立することはない、なぜならば、この2者はまったく違ったものについて論じているからである。しかしCroceは逆説的に理解されたり、本来彼自身のものでない観念が帰せられたりすると、不合理で取るに足らないものをなってします。pessima corruptio optimi(最良なものの曲解は最悪なり)。残念ながら、こういうことが特にイタリア以外のところで、しばしば行われている。しかし例外として、F. Leander,[Nagra sprakteoritiska grundfragor]Gotemburg,1943がある。彼は、Croceの学説を深い洞察力をもって解釈し不用意な反Croce派の人々の混乱や、イタリア哲学の様々な通俗的解釈を排除している。またCh.C.Freisの行ったCroceの観念の理知的な使用について、[The Teaching of English]Ann Arbor,1948, 特にp.107以下を参照。言語学にとってのCroceの学説の重要性については、M.Leroy,"Benedetto Croce et les etude linguistique", 《Revue Internationale de Philosophie》n.26.1953(=VII,4),pp.342-362,およびA.Schiaffini, El lenguaje en la estetica de Croce", [Homenaje a Amado Alonso,I](=NRFH,VII,1-2),1953,pp.17-22を参照。Croceに対立するのは、正当である(特に、単なる抽象物ではない言語に関するかれの姿勢のゆえに)、しかしHallの云う意味では正当なものではない。

(87)[Grammatik, Logik und Psychologie, Ihre Prinzipien und ihe Verhaltnis zu einender] Berlin 1855.p.231.

(88)この区別の意味は、以下においてより明らかにされるであろう。いまのところ、この3つの問題の差異は、ある点まで類推によって示すことができる:

a)人間はなぜ死ぬのか(つまりなぜ死ななければならないのか)

b)人間は何によって死ぬのか(老衰、病気等々)

c)誰某はなんで死んだのか

これらの問題の内の最初のものは、死の合理性の問題である(つまり人間の非不死性の問題)、それでこの問題を第2の問題へ還元することはできない。

(89)これについて、H.J.Posの重要な論文 "Phenomenologie et linguistique", 《Revue Int. de Philosophie》 I.2,p.354-365を参照。また[Forma y sustancia]pp.18-20,35-37を参照。

 

第2章 了  

2001/06/24
2001/07/12訂正
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