第3章

変化の合理性

改新と採用

音声法則

 

1.1言語の変動 性の問題でもある言語変化の合理性の問題は、これをもし特定の変化の条件の問題と 混同したり、外的必然性による因果律的用語で問題を設定しようとすれば、2重に不当な問題となってしまう。理論的な面から、言語はなぜ変化するのか(またはなぜ不変ではないのか)と問うのは、言語はなぜ変化するものであるのかとか、変化する性質があるということがなぜ言語の本性に属するのかということを問うに等しく、言語において確認された変化はどういった《原因》によるべきであるかという質問ではない。これは《定義上変化すべきではない》なにかが、それにもかかわらずなぜ変化するのかという質問とは関係がない、なぜならこういう質問は、形式的定義より問題を設定し、最終的分析においては、恣意的なドグマに基づくことになってしまうからである(1.2.1参照)。しかし事実はこの逆で、つまり言語が変化するということは、なぜ言語の存在様式に対応するのか、ということから出発すべきである。それで言語の変動性の問題は、これを正しく設定しようとすれば、言語にとっての基本的で必須の特性につい ての問題ということになる。 この問題はある意味でまた《因果律的》問題でもある。 しかしこれは形式的原因合理的必然性としての原因に関することであり、外的必然性と解される《能動的原因》に関する問題ではない。こういう意味でこれは《解決すべき》問題ではなくして、現実の言語の存在それ自身の理解によって暗に解決されている問題である。まったくの所、言語は形成されたものではなく、言語活動によって継続して形成されているがゆえに、変化するのである、つまり言語は話すことのモデル、技術としてだけ存在しているので変化するのである。発話は創造的で自由で目的のある活動である、そして現実のそしてまだ実現されていない個人的表現目的によって決定されている限り、発話は常に新規なものである(1)。話し手は自己の言語的知識が提示する技術や、前からの材料を使用して、自己の表現を創造し、構造化する。 つまり言語は話し手に課されているのではなく、話し手に提示されるのである、いいかえれば話し手は自己の表現的自由を実現するために、言語を駆使するのである。

 

1.2.この様に考えてくると、次のよう に質問することができるであろう。言語はなぜ全面的に変化しないのか、 なぜ再形成されるのか、または話し手は、なぜ自己の表現をすっかり発明しないのか、と。人間の歴史性は言語活動の歴史性と合致していることを了解しなければ、この問題を理解できない。話し手は他の技術を使用せず、共同体によって与えられている体系を利用し、伝統的な規範が彼に提示する実現体を受け入れるのである、なぜならこのことが言語の伝統だからである。話し手は自己の表現を全面的に発明するのではなく、歴史的個人という存在の仕方によって以前のモデルを利用するのであって、これとは別のやり方で自己表現をするのではない、なぜなら言語はその歴史性、つまりかくかくの存在という様式に属しているからである(2)。だからといって話すことが表現的自由や個人的に有意義な目的でなくなるということはなく、言語によって作られ、歴史的に決定された領域内で必然的 に実現される(3)。一方言語活動は歴史性を有しており、人間の歴史性それ自身の 基盤である、というのはこれは他人と話すつまり対話であるからである。《意味するところの意識は、解釈するところの意識を予想する、言い換えれば記号を受け入れ、それを理解するということである》(4)。話すということは単に《伝達する》ということである(2.3.4参照)。伝達によって《何かが共通なものに変わる》(5)、つまり話をしている人がすでに相互の会話において現れる共通なものを有しているので、コミュニケーションが存在するのである(6)。こういう意味で、言語活動は第一の基盤であると同時に、主観相互性(intersubjetividad)の最初の表現形であり(7)、歴史的存在としての人間と合致する他者との共存ということの第一義的存在様式である。実際、 《他者との共存》ということは、厳密に云って相互に理解しうるということ、 換言すれば、同じ歴史性の領域にお互いを見いだしうるということを意味するのである。そしてこの相互に見い出し得るということは、言語を介してのみ可能である、そして話し手においては彼らの歴史的存在様式がこのことを示している。そしてこの歴史的意識を人間において表現するための基本的様式が《言語》である、つまり伝統と合致し、他者と同じように話す、またはすでに話されたように話す、ということである。言い換えれば、発話とは、端的に言えば話すということ(しかし単に外化するということではない)であり、また《話しそして理解する》ということは、 他者に理解されるように表現するということ、換言すれば言語活動に本質的なことは対話であるということであるので(8)、発話とは単にことばを話すということである。このことから聞き手によって理解されている限り、理解したことは学習され、 そして《言語》(言語的知識)となる、そして以後の行為としての表現にとってのモデルとして利用されるようになるのである。聞き手は話し手のいうことを理解するだけではなく、どういう風に云ったのかについても注意を向けるのである。

 

1.3.しかしながら、言語(1つの言語)を使用しなければならないという事実は、 しばしば考えられているように決して自由を縮小するということではない。自由は表現的目的を歴史的に実現するために言語を必要としている。言語はそれが歴史的自由である限り言語的自由の条件であり道具である(第2章2.2参照)、そして人が自由に使用する道具は、牢獄でもなく鎖でもない。言語の《非十全性》についての苦情は、単にレトリックではなく、表現的無能さの暗黙の告白であるか、または別の表現的可能性を提供する他の言語との比較によるのである。単一言語使用者(モノグロット)にとっては、《言語》はつねに十全なものである。思考に対する言語の《専横》についての苦情も同じように言い分がある。フランス人であるゆえにフランス人は、ロシア人のように考えることは確かにできない(9)、しかしこれは決して刑罰といった意味を含んでおらず、また具体的自由の制約というものでもない。 それで、あるフランス人が、ロシア語を知らなければ、別の方法ででも考えることもできるのだ、などと考えることに思いもおよばないのである、つまり自分が自分自身であらねばならない【訳注:つまりこの場合には、フランス人である自分がフランス語しか知らない】ことは、 刑罰でもなんでもない。話し手は自分の利用している言語、つまりそれを使用する以前にすでに形成されている言語を変化させることはできない。それゆえ、言語は理性的不可能性として存在している。とは云っても、話し手は自己の表現的必要性によって言語に手を加え、そして言語を乗り越えるのである。加うるに、言語は特有の性質を有する道具である、そしてこれが《諸可能性の体系》(第2章3.1.3参照)である限り、その固有の止揚のための道具である(10)。

 

2.1.歴史的に形成された言語は、発話において利用され表現される。 しかし エネルゲイアに従っている 言語は ディナミスに従っている 言語とは完全に合致しない。発話において行為に先立つ言語は、表現的目的の限定や音的実現体の心理・物理的限定によって止揚され変容される。

 

2.2.1.音的実現体としての場である話し手において、あるものは偶然的(例えば話し手が疲れているとか、興奮しているとか)であり、またあるものは恒常的である。そしてまたあるものは、あらゆる話し手においてすら恒常的である、たとえば 聴覚的イメージの全体的特質や、音的実現体の《線状的》性質の不調和(先入音、音位転換、後退的同化の契機)や発声器官の怠慢(前進的同化や挿音現象の出現の契機)や、発声器官の不均衡などがある。これらはMartinetによって指摘されているところである(11)。そして気候とか人種という要因によって発話の生理学において作られる偶発的変容というものを考察することもできる。

 

2.2.2.こういう問題に対して、高名な言語学者達、例えばJespersenによってなされた皮肉は基盤を欠いている(12)、なぜなら現実にこれらの要因(気候、人種)を先験的に排除することはできないからである(13)。特に言語学からこれらを排除することはできない。実際、言語は文化的事実であり、そして発話は物理的活動であり、それゆえ話し手の物理性を形成するものすべてによって限定されているからである。しかし言語学はいかなる意味においても気候とか人種とかの偶発的な諸問題を解決することはできない、というのはこれらの問題を設定すべきではないということになる。言語学者は、物質性がどのように発話を限定しているのかということに注意をむけることはできても、人間の物質性を限定しているものを取り扱う能力を有していない、なぜなら言語学はすでに限定されている人間から出発するからである(14)。

 

2.2.3.あらゆる心理・物質的限定素は《変容》の契機となりうるが、しかし必然的にそうであるのではない。そしてこれらは《変化》の契機となることはない(3.2.1参照)。人間に特有の現象は、人間が受け入れるもの以外の物質性などによって限定されない。人間においては、文化的なものや物質的なものは、常に生物的なものや必然性を超越している(15)。そして発話もこの意味で例外ではない(16)。発話においては《生理的》変容は、言語的知識や機能性によって厳格に抑圧され、制約されている。それでその変容が体系の機能性に影響しなければ、言語的知識の不十分性や弛緩がある場合に、言語に作用を及ぼす(換言すれば採用し、拡大する)ことがある。それで ke, kiの口蓋音化(生理的に条件づけられた変化として:第5章2.2.2参照)は、ラテン語では、口蓋音がなかったので可能であったにすぎない。そしてこれゆえ 《変容》は弁別的対立には影響しなかった。しかし所謂《俗ラテン語》に出現した新しいke, kiはまだ口蓋音化されていなかった、というのは口蓋音は体系内に存在していたからである。そして発声器官の不均斉と矛盾する 《母音体系の均斉についての共時的音韻法則》(17)は、機能的目的がいかにして物理的必然性を止揚するのかという明白な指標である。

 

2.3.1.目的についての限定というものを考えた場合には、表現的目的伝達的目的、つまり何かを云うことと、何かを誰かに云うことを区別しなくてはならない。

 

2.3.2.話し手の表現意図は確かに、大部分言語によって許容された範囲内(言語的伝統内)で維持されている。しかしながら、言語的知識それ自身の多様性は、 種々の規範的実現体と種々の等機能な体系的様式の間での広い選択の可能性を示している。そしてあらゆる選択は、発話において確認されている言語の均衡性のうちの1つの変容である。 一方話し手は、伝統的な規範を無視することもできる、またこの伝統的な規範は話し手になんらかの特有のモデルを提示することはない、そしてこういう場合に、話し手は体系の諸可能性と合致する自己の表現を創り出す。 例えば子供が、quepo, anduveの代わりに、 cabo, と云うときや(18)、アカデミアの辞書を引くことなく《芋の畑:plantacion de papas》という意味でpapalAmer.芋畑:標準スペイン語では、adj.papal=教皇の<sub.m.papa=教皇)を使用する時などがこれにあたる。さらに話し手の表現的必要性に応ずるために、話し手は他の体系、さらに他の歴史的ことばの様式や要素に助けを求めたりすることがある。そして最終的に、発話の状況的、文脈的限定素は故意に規範を無視したり変容させたりするのを容認し、ついには発話の特有な環境や言連鎖において、余剰的となった体系的なすべての区別を、廃止するに到ることもある(第4章4.4参照)。

 

【訳者注:(i)verb.caber, andarについて:caber(inf.入る),andar(inf.歩く)のような語末の-er,および -ar動詞が規則変化をすると、直説法現在形単数で、*cabo,cabes,cabeとなるが、実際はquepo /kepo/, cabes /kabes/, cabe /kabe/と変化する。 またandarの直説法不完全過去形単数は、規則変化すると、 * ,andaste, となるが、実際は、anduve, anduviste, anduvoと変化する。即ち子供がまだスペイン語の動詞の変化の規範を知らないときには、それぞれ、-er動詞、-ar動詞の規則変化をさせることがあることを記述している。また参考までに、スペイン語のアクセントは通常、語末が子音で終わるときには、最後の音節に、また母音で終わるときには語末の音節の1つ前の音節にくる。この規則に外れているときには、アクセント記号{´}を付ける、逆に規則的な時には綴り字にはアクセント記号はつけない。 例:{caber}= ,{quepo}= , = ,{andaste}= 。 詳細については、スペイン語文法書等を参照。

(ii) plantacion de papas : papal について:標準およびアメリカ・スペイン語では、(芋)はそれぞれpatata:papaである。一方標準スペイン語には、下記のような名詞形のパターンがある。manzana(リンゴ)/manzanal(リンゴ畑)、 naranja(みかん)/naranjal(みかん畑)、banana(バナナ)/bananal(バナナ畑)、むろん、patata(いも)/patatal(いも畑)となる。】

 

2.3.3.この最後の事柄は、伝達の必要性と関連しあっている、というのは発話の《諸状況》のうちの1つ(これは最も重要なもの)はまさしく聞き手だからである。また伝達的目的は大部分言語の諸限界内で保持されている。しかし話し手の言語(言語的知識)は、聞き手のそれとまったく同じであることは決してない(19)、一方単語は、Montaigneに云わしむれば、常に話し手半分と聞き手半分である。このことから、このそれぞれ2つの半分は、できる限り同等になろうとする、つまり他者のように話そうという傾向に向かう恒常的努力が生まれる。この他者の言語的知識を採用しようとする傾向によって、外国人と話すときに起きるように、言語的知識の大部分を棄ててしまうこともある(20)。話し手は常に他者に理解されようと努め、かつ相互理解を容易ならしめるために自己のモデルの実現体をいくぶんか変容させる。

 

2.3.4.Pagliaro(21)は、伝達は言語活動の《実際的な》側面にかかわると考え、さらに発話は表現的意図と言語の2つの極の間で発達するという理由で、伝達ということの重要性を低く見ている。多分もっと正確に言えば、発話は伝統の連続性と聞き手との連帯性という2つの連帯性の軸によって発展する自由な表現的行為である、ということになる。この2つの軸が合致しないなら、聞き手との連帯性が常に優先する可能性がある、というのは伝達でない発話は存在しないからである。伝達はそれが実際に行われている限り、言語活動の本質には属さないということは確かである。しかし言語活動の本質は対話において与えられる(1.2参照)。それゆえ伝達は発話の永続的環境であり、発話の外的な不変的な限定素である(22)。加うるに、実際的、付随的伝達(何かを伝達すること、だれかにあれやこれやについて話すこと) ―これはむしろ《通告》と呼ぶべきである― と本質的、本源的伝達(だれかに伝達する、ということであり、言語活動にとって付帯的なものではないので、実際的伝達が設定されなくとも、または云われたことが理解されなくとも、このことは存在する)とを区別しなくてはならない。事実、単になにかを《云うということは》他人に対してであり、言語活動はまさに《他者に対する自己表現》である(23)。こういう意味で、発話は単に《伝達する》ということであり、この伝達ということのおかげで発話は必然的に《言語》であり、単語は必然的に普遍的である。

 

3.1.言語変化は対話の中のその起源を有している、つまり一方の話し手の言語的様式が他方の話し手の言語的知識へ移転するという事実の中にその起源がある。言語的様式としての話し手によって話されたものが、それによって対話を形成している言語に存在している諸モデルから離れてゆくものすべてを変革と呼ぶことができる。そして以後の表現のモデルとして聞き手によって変革が受け入れられることを採用と呼ぶことができる(24)。この区別は明白であるので、そう重要性がないように見えるかも知れない、しかしそうは云っても、この区別は言語変化に理論的問題の正確な理解と問題設定のためにには基本的なものである。多くの言語学者は、《変革》を説明すれば《変化》を説明したことになると考えているようである。しかしこれは抽象的言語の側面で問題を取り扱うことから来るもう1つの間違いである。事実、抽象的言語においては、各モデルはただ1つ(1つの音素、1つの単語)である。しかし多数の個人的言語知識の多くのモデルが抽象的言語の各モデルに対応している。この多数の個人的モデルが同時的に変容されるとは考えられない。

 

3.2.1.変革 ―可能性のある変革や、無からのまれな創造というものを別にすれば― には次のようなものがある。
a) 伝統的なモデルの変革
b) 言語における異形と、言語に存在している等機能的様式の中からの選択
c) 体系的創造(体系の諸可能性と合致している諸形式の招来)
d) 《他の言語》よりの借用 (これは部分的または全体的でありうる、そしてモデルに関しては《変革》を暗に含んでいる)
e) 機能的経済(ディスコースにおける余剰的区分の無視)

多分このほかにも変革のタイプを設定できるであろう。変革の類型学は、すでに作られている言語を、発話がどのように乗り越えるかという様態に興味をもつのである。しかしこれは言語変化の問題に関しては基本的なものではない、というのは変革は《変化》ではないからである。言語変化(言語における変化)は、変革の拡散とその一般化、即ち変革の一連の連続的採用である。言い換えれば最終的分析においては、すべての変化は起源的には採用ということになる。

 

3.2.2.採用と変革とは、本質的に違った行為である。変革は言語行為の状況や目的によって限定されている限り、用語の厳格な意味において《発話の事実》である。つまり言語の使用に属している。逆に将来の行為を目的としている新しい形式や異形および選択方法の習得であるところの採用は、ある経験の《知識》への変換、つまり《言語の事実》の形成である。これは言語の習得または言語活動による《再形成》ということに属している。変革は言語の超越であり、採用とはディナミス(言語的知識)としての言語そのものの超越への適応ということである。採用も改新も共に言語によって条件付けられている、しかしこれは逆命題的意味においてである。さらに改新は物理的原因を持つことができる、しかしこれは物理的必要性による自由からの偏差としてである。一方採用は、言語的モデルまたは表現の可能性の獲得、変容、交換である限り、もっぱら心的な行為である。そしてそれゆえ、文化的、美的、機能的な目的による限定素を持ちうるだけである(4.3参照)。

 

3.2.3. 言語を個人に対して外的である存在に帰そうとする人は、あらゆる歴史的言語または方言における同時的変化ということの 可能性を考えるという危険をしばしばおかしがちである。それでSaussure派というよりはむしろ青年文法家であるMeilletによれば、一般化された改新であるだけではなく、一般的な改新もあるということになる(25)。しかしこのような見解は、(言語地理学の提示する文献、言い換えれば《事実》によって矛盾したものとせられていることに加え)、理性的にも論拠がない。これはまさに、言語は自律的な存在ではなく、話すこと、または話し手の心においてのみ存在しているからである(第1章1.3.2参照)。 言語のこの様な存在のありかたを認めれば、《一般的》改新という考え方は、理性的ないかなる説明をも受け入れることはない。変化の探求においては確かに、改新とか採用の最初の行為まで遡及することは困難であり不可能である。しかしこれは《事実における困難さ》であり、論理的、理性的な困難さではない(26)。別の見方をして、次のように考えることもできる、類似的な改新が類似的な歴史的状況にある種々の個人のうちに発現し、体系の内的な矛盾と直面し(第4章4.4参照)、 その改新それ自身の固有性を損なうことなく、拡散にとっての好都合な条件を見いだした、と。しかし《知識人》の言語の体系から採用された学術的ことばや、Bという別の言語体系から採用されたA言語の形式という場合はこれとはことなる。それでどんなスペイン語の話し手もtickettiqueと, stestと, r-を rr-と, またph-を p-として採用する。しかしこれは改新というこにはかかわらないことであり、適応adaptaciones)ということにかかわっている。この問題は、ある1つの言語における変化の問題と区別しておかなければならない。適応は1つの体系の利用ということにおいて所与のものとなるのではなく、2つの異なった体系の間で所与のものとなる。 《基層》による《改新》は、正確には(基層の言語から見て)適応であり、 改新ではない、そしてもし問題の言語間の関係が逆になるなら、言い換えれば生き残る言語が《上層》であれば《変化》が生起することになる(27)。Meilletは、《模倣》の通俗的理論を排除するに際し、大いに論理的にことに当たった。しかし彼はある社会学者と別の社会学者(つまりTardeとDurkheim)を対立させ、論ずることはなかった。そして採用は模倣行為ではなく、知的、選択的行為であるとした。

 

4.1.最も簡単な用語に還元すれば、言語変化の問題はつまるところ、採用の問題である(28)。しかし言語変化の問題は、目的のある行為ではなくその可能性(4.2)や様態(4.3)にかかわるものだとすれば、これは採用の理由の問題ではない。そしてさらに、特に音的採用にかかわるとすれば、その《普遍性》、《規則性》の問題が加わる。

 

4.2.もし伝達が言語を介して行われるとすれば、聞き手が《以前には決して云われたことがないもの》や《新しいもの》または《変形されたもの》を理解できるのは、どうして可能なのか。ただ単に《変形されたもの》に関しては、それは常に受動的である知覚それ自身の性格に依存している。言語的知覚(他のどんな知覚と同様に)は、すでに知覚されたものの構造的統合か、または以前の知識の範囲内での即時的解釈である。まったく《新しいもの》に関しては、言語的体系は、話し手ばかりではなく聞き手にとっても《諸可能性の体系》(第2章3.1.3参照)であることを考慮しておかなければならない。言語的体系は表現の規準というだけではなく、まだ実現されていない諸可能性の解釈の規準でもある。加うるに伝達は、言語によって根本的に限定されている。しかしながら、トーンとか、模倣、ジェスチャーとかいう状況的、文脈的限定素(目に見えるものとか話し手が知っていることすべて)をも利用している(30)。最後に、話すことは何かについて話すということだけではなく、また話されたことについて話す、発言されたことの説明、解明また少なくともその云い方の正当化でありうる。つまり実際に使用されている発話の第一義的言語活動であると同時に、メタ言語活動である。このことは、新しいものは既知のものを乗り越えて理解され、また対話者の言語的知識に変えられ、そのたびに《言語》になりうることを容認するということである。

 

4.3.1.発話において生起する多くの改新のうちのあるものだけが採用され、普及するのはなぜか(31)。この質問に対する解答は、表明されている論証それ自身の中に暗黙の部分として見いだされる。つまり採用は、機械的再生産ではなく、常に選択である。

 

4.3.2.それで音的なものに関しては、選択はその構造的および統合的性格のゆえに、知識より始まる。Vosslerが云う《話すことと聞くことの間の自然的一致》(32)というものは疑いもなく存在している。しかし音声が規範的、機能的な枠組みの内で発音され、聞かれるなら、これはなんら重要性を有していない(33)。規則の内にとどまり、なんら機能的価値を有していない最小の変更の大部分は、普及しないだけでなく、知覚される可能性もないのである(34)。器具を利用すれば確認できるが、人の耳に聞きわけられない無数の異形や個人的偶然的な音声的変形の場合が、そうである(35)。

 

4.3.3.知覚されたものについては、 選択だけが問題となりうる。言語的知識の(混乱はしているが)意識的な性格によって(第2章3.2.2参照)聞くということは、言語的主体としての話し手にとって、また言語的様式として発言されたことにとっては、常に1つの行為である。この場合、特にイタリアの言語学者達によって(36)、論証された《威信》という基準が関与してくる、つまり他の主体に対する言語的主体の威信とか、他の共同体に対するある共同体の威信とかである。もし言語が知識であるとすれば、言語はよく知らない人からではなく、より上手く話す人や、より知っている(知っている思われている)人から学ばれる。聞き手は ―しばしば反省的にではなく、瞬間的なやり方ではあるが― 自分の知識と話し手の知識を常に比較し、もし話し手に文化的優秀性を認めたり、自分に固有な知識の卓越性についての疑いを持つなら、話し手の言語的様式を受け入れる傾向がある(37)。発話されたことに対する批判的態度のゆえに、聞き手が非機能的または間違いであると感ずる《改新》を受け入れることはありそうにもない(38)。 機能的なもののうちに、弁別的または永続的な意味的要請に対応するものと、個人的デモンストレーションまたは偶然的アピールの表示であるものとを分ける境界がある。そしてこれゆえ、《言語》の中立的価値として採用されることはない。これらのことはただ1つの原理に還元すれば、採用は常に表現的必要性(39)、つまり文化的、社会的、美的、または機能的であり得る必要性に対応している(40)。聞き手は彼が知らないこと、美的に彼を満足させる社会的に有益であり且つ機能的に役立つものを採用する(40)。それゆえ《採用》とは、文化的、嗜好、そして実践的知性の行為である。

 

4.4.1.音的採用の《規則性》や《普遍性》の問題は、所謂《音声法則》という旧い問題と合致する。間違った見通しや物理的な視点から集められ分類された歴史的事実の存在は、言語に間違いなく作用しかつ変化させている多少とも神秘的な要因を信じせしめる(一部の人はまだこれを信じ続けている)に到った理由の1つである。ここから、W.Scherer(1875年)Leskin(1876年)H.OstofftとK.Brugmann(1878年)によって次々に公理化された《青年文法家》のあの有名な歴史的言語や方言において例外無しと理解されている音声法則の絶対的規則性または《無例外性》(Ausnahmslosigkeit)という定理が出てきた(しかし注41を参照)。しかし音声変化は自然科学的法則ではなく、歴史的確認であり、これは一般的なものではなく一般化されているものであり多くの例外を許容していることを観察すれば、この無例外性の問題を否定的な意味でも解決することはできない。ましてや、十分満足いくように解決することはできない。事実、 以前と同じく神秘的であり続ける法則の問題を排除することなく、音声法則に例外を認める研究をするのは、言語をエルゴンとして議論の基礎にしており、理性的な混乱に基づいている学説を経験的な側面で論じていることを暗に示している。無例外性の学説は、諸事実によって矛盾しているがゆえに間違っているのではなく、これが間違っているので、諸事実によって矛盾したものになっているのである。この無例外性を否定するために、この本来的な誤謬性を論じなくてはならない。このことは1面からすれば、同時にその本来の真実性を論ずることと等価である、しかしなんらかの間違いには、ただ単に間違いであるとすればよいことである。しかし一歩ゆずって、《一般的改新》と《一般化された改新》を認める融和的学説を受け入れることもできる、しかしながら一般的改新という概念そのものは矛盾しており認めがたいものである(3.2.3)。もし音声法則がなんらかの現実の事実に対応するとすれば、音韻法則に関する態度を決めるということではなく、 《音声変化》という観念それ自身はどういった現実の諸事実に対応しているのかを論証するのが問題となる。自然法則的な音声法則を歴史的論証に還元したのは、疑いもなく1つの重要な前進であった(41)、とはいえこれは方法論的な前進ということである。しかし《音声法則》は歴史(Historie)にとって、どんな価値を有しているのかを示しているにすぎず、史的出来事(Geshichte)においてこれは一体何であるのか(つまりどんな具体的事実に対応しているのか) ということは示していない(第2章2.3参照)。

4.4.2.この本質的な問題は、抽象的言語では解決されず、言語が具体的に存在する言語活動においてのみ解決されうる。《言語》の側面では、発話の中に具体的に与えられているものの歴史的結果、またはその《投影》が論証されることはない(42)。発話の視点よりすれば《方言》(個人のグループの言語)における一般的音声変化には、はっきり区別しなくてはならない普遍性の2つの型を含んでいる。1つはグループすべての話し手の発話での普遍性、これは外延的普遍性、または単に普遍性と呼ばれる。他の1つは、作用を受ける音素や束を含むあらゆる単語(または作用を受ける音素や束が類似の状況にあるすべての単語)における普遍性、これは各話し手の言語的知識においてのみ考察されうる、そして内延的普遍性または《規則性》と呼ばれる(42-bis)。

この二つの普遍性の型を区別しないのは、音声法則についてのあらゆる問題の基本的間違いである。間違いの1つとして、単語が辞書におけると同様に唯一的なものである抽象的言語の側面に問題を設定するということがあげられる。しかしこの単語というものは、個人的な言語的知識に含まれている一連の第1段階のモデルに対応する第2段階のモデルであるので、一瞬にして変化することはない(3.1.)

4.4.3.外延的普遍性は必然的に《改新の普及》言い換えれば、一連の継続的採用の結果である(3.2.1参照)。《方言》とは、等言(isoglosas:訳注「等言線」と訳されることがある:語源はiso-:同じ、gloso:語彙)、つまり類似の言語的事実の1体系である。そして改新の普及とは、等言の形成または個人間の言語事実の形成ということである。それゆえ、《音声法則は同一の方言において例外なく作用している》というのは、循環論である。これはある言語的事実の個人間の同質性の論証によって、まず方言の境界を定め、―この境界内に種々の音声変化の結果が観察される― 次にその変化結果によって境界が定められた方言において、それらの音声変化は例外なく起こる、と確認されるということなのである(43)。具体的な例としてあげれば、 まずラテン度のkt (octoocho)となった方言を、カスティリア語の境界と定め、 次に驚いたことに kt はカスティリア方言において不可避的におこった音声変化であると観察するのである。それでもしこの循環論を破り、方言は生起した変化によって、限定されるとするなら(44)、普遍性の公理は、明確にその同義反復的な性格を示すことになる。つまり音声法則は、それがおこったと論証された空間において作用していることを確認することになる(45)。実際のところ、音的改新の普及としての音声法則は、言語の形成に属しておりそれゆえその結果である方言に先立っているということである。言い換えるなら、方言的境界は、音声法則に関しては先立っておらず、遅れたものである(46)。

 これによって導き出される結論は、音声変化は先験的な外延的普遍性を有していないということである。この普遍性は、ある特定の個人のグループや特定の時代においてのみ実現されるか実現されない特有な歴史的過程に依存している。 その結果、外延的普遍性はなんらの普遍性を有してない。こういう意味で《生起する事実》(音的改新の普及)としてではなく、《すでに生起したことの論証》として、言い換えれば、史的出来事の事実としてではなく、歴史の事実として解された《音声法則》は、実際には歴史的、特定的、《後天的な》論証のことなのである(注41)。  

【訳者注:(i)ktが (octoocho)に変化: ラテン語のkt[kt]が (IPA )となる。octo[okto](L.数字の8)がスペイン語でocho IPA となる。 kt> (IPA )という音声変化の 条件を付けて、ある境界を創り、その条件を法則としてしまう。 (ii)スペイン語、カスティリア語について:Menendez Pidalは[Manual de gramatica historica espanola](近松洋男訳:「スペイン語歴史文法教本」2頁脚注2)で、「スペイン語という呼び名はカスティリアでは(カスティリア語という呼称ほどではなかったけれど)中世に用いられた。当時はカスティリアとアラゴンは言語の上では融合していなかったがゆえに、この呼称(スペイン語)は確かにそれほど適切なものではなかった。16世紀、17世紀には既にこの呼称は文法家、作家がよく用いていた。これらの人達の幾人かは書く時にカスティリア語という名称は<正確ではない>として排斥している。外国では中世以来常にカスティリア語というのが普通であった。アカデミアは、両方の呼称を用いていたが、むしろカスティリア語の呼称を好んだ。...最後に1925年版アカデミア辞書にスペイン語(lengua espanola)の名称を採用したので、アカデミアはカスティリア語という呼称は断念したのである。」と両呼称の経緯を述べている。一方、イベリア半島内の方言区分としてのcastellano(catalan, aragon, leon, gallego-portugues, mozarabeに対比させて)が用いられている。 最近、この方面で興味ある本、Ralph Penny,[Variation and change in Spanish],CUP,2000年)が出版されている。】

 

4.4.4.内延的普遍性の問題は、これとはまったく異なったものである。この問題に関連して、個人の言語的知識での音的採用の普及、ある語から他の語への普及を公理的に決定することはできない。疑いもなく新しい言語習慣として採用された様式の使用の頻度においてかなりの幅がある段階的変化というものも存在しうる。しかしこれは言語知識の利用における幅ということであり、言語知識それ自身における幅にかかわっているのではない。採用された改新は必然的に、そして最初からそれを採用する人の言語知識に属している。それでもし音的様式にかかわっているとすれば、この様式は、事実新しい表現的可能性として当該の個人によって認知されている音的様式の体系の中に結果として挿入せられるのである。

 確かに、音素の聴覚的諸特性は、実現体において別々に与えられるのではなく、 単語や句においてのみ経験せられうるのである。しかし、音的改新を採用する聞き手は、 聞いた語を自分の固有のモデルと比較する。そしてこの採用する(学習する)ということは、あれを選ぶか、これを選ぶかの違いにすぎない。一方弁別的特徴とかそれに対応する相関関係としての音素とか、その異形とかは、言語知識によって認知され技術的に個別化される。そして採用とは、まったく知識として言語で実現される1つの操作である(3.2.2)。それで例えば有声性の相関関係の意味を子供に理論的に教えるのは困難となる、とは云っても、ある人がeste pato blanco(この白いあひる)に代わりに(ezde bado blango)と云ったとして、子供にこの発音を模倣させたり、ある音を無声子音にして、この遊びを続けさせるのになんら困難はない。この言語知識の体系的性格によって、音的改新はその改新自身が聞かれる語の反復のゆえに採用されるのではなく、言語的活動一般のゆえに採用されるのである(47)。もし採用された改新がある音素に作用するなら、 これは(可能性として)どの語、またはどの位置にある音素においても採用される。 そしてもし、改新が連鎖、または限定された位置にある音素に作用するなら、同じ連鎖、同じ位置にある同じ音素において採用される。これはなにか計り知れない神秘さのゆえなのではなく、採用された音的様式が各々の場合ただ1つであるという、単なる事実によってである。つまり採用されるものは、既成の要素(これこれの語におけるこれこれの音)ではなくして、形成的要素、規準そして行為の様式である(48)。音的採用はある点までタイプライターの文字の交替または変更と同じようなものでありうる。

 例えば交替せられた文字がaであるなら、このタイプライターで打つaという文字を含むあらゆる語は、同じ交替を示すのは不思議ではない。なぜなら交替せられたものは、実現体における同一のモデルとなるからである。こういう意味で《音声法則》は常にどこかで論証されているようなものである。そしてこれは、経験的に引き起こされた採用によって検証されうるものである。それで発音の欠陥や間違いを訂正する際に、その話し手に問題の音素が現れるあらゆる語を教えるのではなく、少しの例をもって正しい発音を教えるのである、すると話し手は自分が知っており、また理解しているあらゆる語に、これを適用するのである。llama, lleno, tallaという語を、[ljama],[ljeno],[talja]と発音している人に、 スペイン語の標準的発音では、 と発音するのだと教えるとすれば、その人は自分の間違いに納得し、 の発音を習得すると、それを間違いだと指摘された語だけではなく、llを含むあらゆる語に適用することになる。そして同じことがある特定の位置にある音素に対しても行われる。例えばある人にスペイン語では、[rama], [resto]ではなく、[rrama], [rresto]と発音しなさいと指示すれば、彼は[rraspa], [rremo], [rrima]とも発音するようになるであろう。このことは、 話す主体が厳格に lj> とr- > rr-という2つの《音声変化》を適用しているにすぎないのである。 また類似した2つの《体系》や《方言》間の規則的対応を承知して、話し手は自分に固有のものでない体系や方言のあらゆる語を、知らずして他から一方へと使い分けることもある。そしてこれが《音声法則》の厳格な適用によってうまれる《訂正のしすぎ》、《標準語化した方言》という多くの例を生み出す結果となる(49)。内存的法則とか発話から自由である法則としての音声変化は、話し手があらゆる場合に、自分の表現を体系的に創造しようとする時に、適用するものである。一方、2つの体系または方言間の実際的対応(これに例外を認めても)を説明する音声法則は、一連の類似の内延的《法則》によって歴史的に条件付けられているところの歴史的結果である。新しい調音様式は、その調音が個人的なものであれば、《一般的》なものとして現れることはない。しかしこれは唯一的なものであるから、その始めから《規則的》である。音声法則は調音の変化を意味するという事実は、その《規則性》(交替された様式を含むあらゆる語への適用)を暗に示している。しかしこれは 個人的言語活動間の相互作用の結果だけらか生ずるその《普遍性》を示すことにはならない。言い換えれば、OstoffやBrugmannによって定立された音声法則の原理によって(注:42-bis)、第2義的普遍性(内延的普遍性)はまったく受け入れられるものであるが、一方第1義的普遍性(外延的普遍性)は受け入れられないものである。他方注目しなければならないのは、同じ背年文法家のなかでもB.Delbruckは、厳密に云って、音声法則は個人の言語にのみ有効であり、かつ言語のある特定の時期にとってのみ有効であるとする見方を棄てていないということである(49-bis)。ただここでもっとより厳格にしておかなければならないのは、音声変化は、将来の表現の可能性として言語の中で生起するということである。新しい音的様式は、抽象的言語によってつくられたあらゆる語に同時的に現れることはなく(これは理性的にも不可能である、というのは何事も起きないからである)、ある語から他の語へ普及してゆくということもなく(50)、ただ今後、語を形成するために採用されるのである。

 音声変化の規則性の問題は、最終的分析においては無意識の問題である。このような問題は、もしエルゴンとしての言語という視点から問題を設定するなら、解決困難であり、複雑であるというだけでなく、解決不可能である。このことはなぜかと言えば、言語はエルゴンではなく、こういう眺望のもとでは、規則性はただ既成のこととして論証され、受け入れられるだけだからである。もし言語活動をエネルゲイアと、 そして言語をディナミスと、または発話の歴史的技術と考えるなら解決される、またはもっとうまく言い表すなら、この問題は排除されながら解決されるので《消散》せられる、といえるだろう。それで規則的音声変化はまさに、すでに実現された何物かにおける変容ではなくして、言語的形成の技術における変容である。

【訳者注:[rama],[resto]:[rrama],[rresto]について:スペイン語でrama, restoの発音は[rrama],[rresto],また人によっては、 [rr]の代わりに と書く学者もいる:スペイン語の語頭/語中の{r-}/{-rr-}をそれぞれIPAで示すと:[r](歯茎顫動音=舌先を歯茎部で数回弾く音:江戸っ子がベランメー調で喋る時などに聞かれることがある音、ロシア語、イタリア語で典型的)、一方、 語中の{-r-}(例:pero)はIPAで示すと で(歯茎弾き音=舌先を歯茎部で一回弾く音:日本語の母音間のラ行の子音に似ている音)。スペイン語の発音は比較的日本人には容易であるが、語頭で舌先を数回連続的に弾くのが難しい人がいる。教室で初心者が{rama}, {resto}を日本語風に発音すると、教師はこれを訂正して、大げさに舌先を歯茎部で10回以上弾かせて発音して、生徒にこれを練習させる。そして一旦これを憶えてしまえば、スペイン語の語頭に来るr-で始まる単語の場合には、毎回間違いなく発音することができるようになる。語中にある-rr- {-rr-}もこれと同じ発音になる。】

 

4.4.5.K.Vosslerは(51)、 音声変化の過程(彼はこれを残念ながら《メカニックな不調整》と理解している、注32参照)は、 各語では繰り返されないということから観察して、一時は上記の解釈に近づいたように見受けられる。しかし彼はこういう考えから離れ、《生理的類推》とか、‘起動的感情とか、音声の機械的連想とかについて述べ、これらの作用により、はじめは散発的であった変化がすぐ頻繁になり、最終的に一般化する’と考えた。しかしこのような説明は、矛盾しており、承認し得ない。変化は外延的意味では、一般化されるが、内延的な意味では一般化されることはない。Vosslerは、普遍性と規則性、抽象的言語と具体的言語、《知識》と言語的活動を混同している。知識に関しての《生理的類推》とか《機械的一元化》という概念は、少なくとも不適当なものではない。知識(機能的なものの物質化の様式として)の生理性と機械性とに言及するが、しかしながら知識に関していえば、これは生理的でもまた機械的なものでもない。そして彼は、《頻繁な形式のグループから希れな形式のグループに対して行われる機械的牽引》の存在を認め、新しい様式はなぜ散発的であり、 より頻繁である旧い形式は、新しい形式に《機械的牽引》を加え、それらを排除しないのか、と問う。またさらに、ある散発的な形式がそれと取って代わった所の形式よりも頻繁になるに到るのは、どのようにして起こるのか、とも問う。新しい言語的習慣の普及とその《規則化》は、文化的・機能的にのみ正当化されうるというのが事実である。言語において、《機械的》なものは、なにもない。これに加えて、不調整がもし《機械的で、意識されないもの》であるとすれば、なぜこの不調整はある語においてだけ起こり、他では起こらないのか、そしてなぜ不調整が変化の《前衛》であるこれらの語に根本的に作用を及ぼす前に《生理的類推》が作用しなかったのかの理由は理解できない。同様にVosslerが例を出しているように、すでに区別されている音素と、音素の結合の間の等価性を、《起動的感情》というもので正当化することは承認できない。このような等価性は(異なった発話での)《普及》において、(しかし起動的感情によってではなく、機能的同一性の認識によって)設定しうる、しかし同じ発話における 《規則性》によっては設定しえず、この同一の発話においては、唯一の機能的様式の異形としてのみ所与のものとなっている。ある音または音結合aと、まったく違うある音または音結合bが同一の語において相互交替不可能であるとすれば、前者と後者は、体系内で等価であると認識されることはない。それゆえ、スペイン語のfaltahalta,またはfirmarhirmarと交替するということは現実において、何人にも起こり得ない。言い換えれば、こういうことは、hが発音され、これがfの変種であった時代においてのみ可能であったにすぎない。

 Vosslerは一見して、Hermann Paul(52)の音声変化(Lautwandel)と音声交替(Lautwechsel)という区別に注目して、音声交替としての音声変化の《一般化》について考えているようである。これはある程度正確である。それで採用に続く選択は(4.4.6)、実際に音声交替と解釈される(53)。しかしこれは《類推》ということではなく、2つの音的様式の機能的同一性の認識にかかっている。 あらゆる[lj]を と発音させることと、動詞の範例を規則的にして(llevo, llevas, lleva等との類推で)levar, levamos等のl ととは同じではない。音声変化(または言い換えて音声採用)が、規則的であるということは、 類推的であるということではなく《体系的》なことである。それゆえ、Vosslerは、A.Alonso(54)が確認しているように音声変化と類推との間の二律背反を止揚できず、かえってこの2つの現象を混同してしまっている。しかしながら実際は《止揚》すべき何物も存在しない、つまりこの2つの現象はまったく異なったものであり、対立すらしている。音声変化の場合には、ある音声様式がある語で他の様式と交替するということであり、類推の場合には、ある特定の語または一定の語に属している種々の語尾変化形式におけるある音素のまたはある音結合の交替ということにかかわっている。音声変化の場合の同等性は、示差的音声様式の体系内における形式的要素(例えば、λ lj)の間に設定される。類推の場合の同等性は、範例的(paradigmatic)連合とか意味的、文法的、語彙的様態などによって、《形式》または《形式化されたモデル》の間で設定される。音声変化においては、 《形式》がある音を同等と認識されるので変化するのであり、類推においては、形式それ自身が部分的に同等であり、連合しあっていると認識されるゆえに変化する。言い換えれば、音声変化は《体系》において起こり、類推は《範例》またはある一定の位置で起こるといえる。実現された言語という視点からの変化の結果は、その双方の場合において音的なものの1つの変容であるという事実は、この2つの過程を同一視する理由とはならない。音声変化と類推は、より上位の1つの原理に還元しうる。これはHermann Paulが(別の意図でもって)表現した、「機能的に同等なものの物資的一元化」の原理である。「各言語は絶え間なく無用な非同等性をすべて排除すべく作用している、と同時に機能的同等性および同等の音的表現を作り出すべく作用している」(55)。これは一面では、言語の体系性と同じ原理である。そしてこういう意味で、《音声法則》と類推は、体系感(systemgeful)の両面として現れる、とするA.Debrunmer(56)のことばを承認するのは正しい。

 

【訳者注:falta: halta, firmar:hirmarについて:現代スペイン語の発音は、falta[falta](不足):halta[alta](意味は無い)、firmar[firmar](サインする):hirmar[irmar](意味は無い)。 ラテン語f-が、スペイン語ではf->h-> (zero)になるという音声変化があった、例:fumus[fumus]>humo[humo]>humo[umo](煙)。 しかしfumar(v.inf.たばこを吸う)があり、fumo(v.私はたばこを吸う):humo(n.煙)という品詞は異なるfumo:humoがある一方、faz:haz 意味はともに「顔」)がある。スペイン語の音韻論として本書でもしばしば引用されている Emilio Alarcos Llorach(1922-1998)の[Fonologia espanola]は現在第4版まで出ている。初版は1950年、2版1954年、3版1961年、4版1965年で1986年まで7刷が出ている。その後何刷まで印刷されたかは不明であるが、Internetで調べたところ、1991年3月発行のものが最新版である。訳者は上記の第3版の翻訳を終えているが、最新の4版にもとづき見直しをして、完成次第、公開する予定である。この本の構成は、一般音韻論、スペイン語音韻論に分けられているがその内まず最初に、それぞれの通時音韻論を最初に公開する予定。全体は290頁あり、そのうち通時音韻論は約100頁である。】

 

4.4.6.それで《音声法則》は、もしその根底的本質および第一義的形式に還元するなら、音声的採用の内延的普遍性または唯一性と合致する。音声法則は《知識》としての言語に、 また現実体の可能性としての新しい音声様式の個人的獲得(創造)の最初の行為にかかわる。新しい音声様式の実現そのものにおいて、またその歴史的固定化において(もし固定化されるにいたるものであるとすれば)個人的および個人間的選択の長期の過程が関与してくる。音声変化は終了するのではなく、《音声法則》と共に始まるのである。それで選択の過程において、《法則》は無効にはならない(採用され、普及する改新はある表現的要求に対応しているとすれば)、しかしこれは(同じ体系内で)他の表現的要求によって、例えば諸体系の干渉などにより、ある場合には《訂正され》、中止されることもある。しかしながらこれらの事実は、音声法則の本来の規則性に影響することはない。音声変化はその絶対的瞬間には、諸可能性の第一義的側面に属しており、歴史的結果や定着した伝統の側面には属していない。

 それゆえ音声変化は外延的な意味では普及であり、内延的な意味では選択であるといえる。選択が終了したときに、言い換えれば2つの同価の音声的要素(旧いものと新しいもの)のうち、一方だけが可能になった時、または2つとも異なった時に、変化は内延的に終了する(言い換えれば、音声法則は作用しなくなる)。

 外延的意味で、先験的に限界を設定することはできない。 つまり限界とは普及が歴史的に到達したところものだからである。一方言語的規範はまだ終了していない選択を、定着させることができる。例えばスペイン語で(seer, veerではなく)serとかverという形式が定着している一方、creerとかleerとかの形式が定着しているのがこれに当たる。さらに歴史的規範は、ことなった諸体系より発した諸要素を選択し定着させうる。アマヤ地方とブルゴ地方のカスティリア語の相互作用に際し、ある場合には、mbという子音束をmに縮小するブルゴ地方の形式(paloma, lomo)を採用し、またある場合には、対応するラテン語の形式との類似を支持されて、カンタブリア地方の形式(cambiar, ambos)が定着する。それゆえ変化は例外を許容するということ、―起こるべきであった語すべてにおいて確認されていないということ―、は歴史的な結果という観点からすれば正当化される。よく知られているように、多くの場合、間違った例外に言及しているということにすぎない、それであれこれの音声法則に従わない語は、 対応する変化が起きなかった発話より生じているということである。または用語を変えて云えば、例外はただ言語を単一で同質の伝統であると考える時にはじめて現れてくるということである。しかしもし歴史的言語は、種々の言語的伝統間の相互作用の結果であるということを考慮するなら、例外は規則的な形式ということになる。それで厳密に云えば、palmaはスペイン語では、al +子音>oという音声法則の例外の一例であるのではなく、aloに変化しなかった発話の語彙的採用の一例である。この場合(変化が起きた発話において)採用されたのは、音的、形成的様式ではなく、既成の形式であり、そのようなものとしてのモデルである。palmaotroという形式は、そこから生じた発話の《音声法則》を遵守している。ある場合には《教養語》が、ある場合には《俗語》が定着する(56-bis)。

【訳者注:ver(v.inf.見る), ser(v.inf.である)について:しかしveer, seerという語は現代スペイン語にはない。creer(v.inf.信ずる), leer(v.inf.読む)

それぞれの語の語源は下記の通り([Diccionario Critico etimologico de la lengua castellana], Joan Corominas, Gredos 1974による)、 である。また同書によると、16世紀には、ver, veerが共存していた時期があったとのこと。】

 

4.4.7.上記のことから、《音声変化》はあることば共同体によって、ある時期に到達した表現の相対的一元性の論証によって正当化された方法論的規準以上のなにものかであるということが導き出される。もしより深い正当性を持つことが出来ないとするなら、この一元化それ自身は、了解不可能となり、《法則》ということはなんらの方法論的価値を有していないということになってしまうだろう。しかし音声的採用の内延的普遍性としての音声変化は、その基本的現実においては言語の体系性と合致する(57)。言語は《作られたもの》ではなく、《現在作られている》ものである。それで《音声法則》は、音声的側面での言語の形成(再形成)の様式に対応する。このことは現実的見通しとしては、《言語状態》において論証された音的体系性は、体系自己形成、言い換えれば音声法則の投影である、ということを意味する(58)。ここから言語学的に過去の諸形式を再構成し、設定するという可能性が生まれるのである(59)。最終的に言語を《形成する》のは、話す主体の言語的自由である。 その体系性は、不断の体系的活動の結果である。それでいわゆる《音声変化》は、言語的自由を行使する様式に対応している。《音声法則》を論証するということは、単に話者は言語を体系的に創造しているということの論証を意味しているにすぎない。一方この解釈は、言語のあらゆる体系的なものにとって有効である、それで文法的な側面にとってもまた有効である。新しい動詞の時制 ―これはある時期に一定の行為に現れた― は、なぜあらゆる他の動詞に有効であり、冠詞はひとたび作られると、なぜあらゆる名詞に適用可能であり、音調素はひとたび獲得されると、同じタイプの文に有効となるのかということについて、だれもたずねられることはない。だれもこれらの(音声変化とまったく類似している)事実を、神秘的理由のせいにすることは出来ないし、また「文法的変化の盲目的で不可避的な法則」について云々することはできない。

 それで《音声変化》は、言語に作用するのではなくそれによって言語が創造せられる行為それ自身の特徴または規範である。それゆえ、(たまたま未だ知られていない)《外的要素》が作用するような《もの》として言語を考え、《内延的普遍性》と《外延的普遍性》を混同している学者が思っているよな、神秘的で機械的なものは、音声法則にはなにもない(60)。ここで取り扱われるのは、必然性の法則ではなくして、自由が創造的行為において作用する目的論的規範にかかわるものである。

 

4.4.8.それでこの自由それ自身が、ある表現的自由のために法則を《破棄》することもあるということは、不思議ではない。こういう意味で音声法則は、意味の区別を尊重するから盲目的ではないと解することができる(61)。これはある点まで正確である、しかし制限つきで理解しなければならない。まず最初に、《音声法則》によって示される体系的目的は、特定の弁別的目的を克服する(第4章4.2.3参照)。それでスペイン語のalto(高い)はすでに(言語のレベルで)otoに変わってしまっていても、発話においてはまだ存続していたし、また《規則的》形式たるotoを排除したこともある(しかしこの事は、ミミズクの一種たるotoと区別するためではない)、なぜならaおよびlはこういう発話の音韻体系において保存されていたからである。しかしラプラタ流域では、 と区別するため の発音を保持することはできなかった、なぜなら というラプラタ流域での変化は、この地方の固有の音素目録から を排除してしまったからである。第2に、《例外》は《法則》と同時的に設定することはできず、 選択の連続的過程において設定される。それでカスティリア語の発展途上のある時期に、hormaformaという2つの異形があり、ある特定の意味で用いられていた時には、この2つの異形の意味的違いに気づくに時間はかからなかったろう。歴史を無視すれば、カスティリア語のambos(両方の)はamos(主人達)から区別するために、amosとならなかったと考えることもできよう、しかしブルゴ地方では、ambosamosになり、より保守的な発話からすぐにまたambosを再導入してきたことが知られている。《音声法則》を基礎としてとらえ、《例外》を説明する方法論的原理は、それゆえ基本的にはうまくいっている。実際、発話の視点からすればここで解されているような意味での《音声法則》は、初源的性格を有している。つまり音声変化は、 新しい音的様式の創造それ自身において所与のものとなる、 一方《例外》は《選択》の2次的側面に属している(62)。《音声変化》は盲目的ではなく、体系的である。そしてそれゆえ特定のケースについて考察することはできないし、また考察しないのである。特定のケースは2次的に解決されるし、また色々な方法で解決されうるのである。

【訳者注:forma(形、形式)、horma(靴、帽子等の型)として、現代スペイン語にもある。前者formaは抽象的なものをしめす語として、また後者は特定の物を指す語を指すために使用されている。】

 

5.1.言語変化とその合理性を理解するために、言語をその具体的存在において考えねばならないと結論づけることができる(63)。変化は単なる偶然的なものではなく、言語の本質に属している。事実、言語はいわゆる《言語変化》によって形成されるものである、つまり言語変化は、言語史の内での言語活動の創造性の表明以外の何物でもない。それで変化を研究するということは、―言語をエルゴンと見るときに考えられるように― 交替や変更の研究を意味せず、逆に言語的伝統の統合、言い換えれば、言語それ自身の形成の研究を意味する。逆に、《なぜ言語は変化するのか》、(言語は不動であるべきだと考え、なぜ不動ではないのか)という質問は不合理である。というのは、こういう質問は、表現的必要性はなぜ新しくなるのか、とか、人間はなぜすでに考えそして感じたことだけを考え感ずるだけですまないのか、と問うに等しいからである。言語はもし一時に作られ、言語活動によって継続的に形成されるものではないとするなら、Bergsonの云う「語は旧いことの調整以上の新しいことを表現することはできない」(64)、ということを認めなくてはならないだろう。しかし実際には語は本当に新しいことを表現している(注1および10参照)。しかしながら、言語活動は文化であるから、新しいことは文化的なものの中で所与のものとなるという意味で、「文化は伝統であり、伝統においては、その新しさは自発的なものであり、また創意に富んだものである」(65)。発話は以前のモデルに基づいており、言語は話し、理解するということであるので再形成されるのである。つまり発話は常に新しいゆえに、言語は言語活動によって止揚される。そして理解するとは、行為に先立つ言語によってすでに既知のもの以上のことを理解することであるので、言語は刷新されるのである。言語活動は、言語を話し理解することではなく、言語を介してなにか新しいことを話し理解することであるゆえに、現実の言語また歴史的言語はダイナミックなものである。それで言語は話者の表現的必要性によって採用され、それが採用されている限りにおいて言語として機能し続ける。Saussureの「変更の原理は連続性の原理に基づいている」(66)という確言は、逆にして、連続性の原理は変更の原理に基づいている、としてもまた有効である。《変更》されないものは連続性を有しておらず、永続性を有している、しかし歴史性を欠いているのである。

 

5.2.一方、エルゴンとしての言語の視点から設定された言語の変動性の問題には、探求の側面と、探求されている現実の側面との混同に原因がある方法論的な間違いがある(第1章1.3.1参照)。実際このような問題設定の仕方は、抽象的言語は現実の変化によって正当化されるのを要請しているということよりもむしろ、現実の変化(具体的形成される言語)は、抽象的言語によって正当化されるのを要請しているようである。共時的に投影されている言語状態は、いわゆる言語ではなく歴史的に連続している言語中の横断面である。これは動いている汽車を写真に取った人が、汽車はなぜ動くのか、そしてなぜ写真のように止まっていないのか、と質問し、汽車と写真を混同してしまうようなものである。つまり《非合理的》なものは変化ではなく、抽象的言語の視点から設定された変化の問題である。そして非合理的な問題は、合理的な解答を与えられることはない。このことから、言語を現実に動かしているもの(これは言語的自由である)に変化を帰する代わりに、物理的な意味での因果律でこれをとらえようとする問題設定のしかた、言い換えれば、形式的な理由を能動的な理由に変えてしまうことや、《原因》や《外的》要因に理由を帰す必要性を主張するというようなことが出てくるのである(60)。


第3章の注

(1)M. Merleau-Ponty, "Sur la phenomenologie du langage", Problemes actuals de la Phenomenologie所収。Bruxelles,1952,p.100を参照。「私が表現を行ったのは既に語りつつあるこれらすべての用具を利用して、それらの用具がいまだかって一度も言われなかった何ごとかを私がそれらに言わしめようとするときである」(訳者注:訳文は「シーニュ。1」東京1967年 p.142より)。またJ.Vendryes,[Le Langage]3版 Paris, 1950, pp.182-183を参照。

(訳者注:藤岡勝二訳「言語学概論」刀江書院1938年)

(2)G.Gentile, [Sommario di pedagogia come scienza filosofica, I]5ed.Firenze 1954,p.65を参照、「それで私は机をペンと呼ぶこともできる!、抽象的には確かにそうである、がしかし具体的には言えない、なぜならこの話す私は、自己の後ろ、または自己の内側に歴史を持っているからである。それゆえ、私は机と呼ぶ、また呼ばなければならず、別の云い方で呼ぶことはできない」。Saussureが、「Cours」p.139:p.106で言う《伝統の法則》というものは、こういう意味に解釈できる。

(3)A. Pagliaro, [Corso],p.26-27

(4)G. Galogero, [Estetica, Semantica, Istoria], Torino, 1947,p.240

(5)J.Dewey, [Logica], p.61

(6)M.Heidegger,[Sein und Zeit],Tubingen, 1960, p.155,162. スペイン語訳[El Ser y el Tiempo],Mexico, 1951 p.188,194を参照。

(7)M.Merleau-Ponty, Arc.cit.p.108

(8)M.Heidegger, [Holderlin und Wesen der Dichtung] Frankfurt a.M.1936,III,A.W. de Grootは対話の重要性を認識して、言語、言、解釈という区分と、言語・言という二分法を対立させている(BCLC,V,p.6参照)。これについて、G.von der Gabelentz, [Die Sprachwissenschaft], Leipzig 1891,pp.181-182を参照、「言語は、我と汝という2人の間でかわされる通信に規則的に役立っている。その際、言語は双方に依存している、我は発言する、そして汝はそれを理解する、さもないと言語の目的に添わないことになる。言い換えれば、汝の言語は我の言語でなければならない、我は、汝が習慣づけられている発言および聞き取り方法と大体同じように発言しなければならない。この習慣づけは、伝達にもとずくものであり、我と汝はこの習慣づけに結びつけられているのである」。

(9)A.Secheye, "El pensamiento y la lengua o como concebir la relacion organica de lo individual y lo social en el lenguaje", [Psicologia del lenguaje]所収p.52。この論文はSaussureの枠組みから抜け出そうとする努力の1つである。SecheyeはHumboldtから若干神秘的なものを引き出したり(p.48-49)、また逆にSaussureは、Whitneyの慎重な視点を素晴らしい形で表明しているとしている、その考えとは、「言語資料におけるあらゆる創造や変革は、最終的には誰かによって行われた選択に遡及する」(p.50)、ということである。しかしこれによって、言語は、「個人にとって外的である対象を形成している」、「好むと好まざるとにかからわず、それを受け入れ、それに耐えなければならない」(p.52)、とするSaussure的言明を阻止するものではなかった。Sausure,「Cours」p.145:p.111によれば、「連続性の原理は自由を無効にする」ということばを思い返そう。

(10)Ch.F.Hockett, 《Language》,XXXII,p.468を参照。彼は、「いかなる言語においても、どの話し手も伝達をそこなうことなく、以前において言われたことのない何事かを語ることができるし、またしばしば語っているという議論の余地のない事実」を強調している。北アメリカ(Bloomfield流)の言語学は、抽象的言語ではなく、ことばより出発して、その公言している反精神主義にもかかわらず、言語を諸可能性の開かれた体系、または《行為の様式》と解釈するために、Saussure流の言語学よりも、全体としてより良い条件下にいると言える。

(11)"Equilibre et instabilite des systemes phonologiques", [Proceedings of the Third International Congress of Phonetic Sciences]所収、Gent 1939,pp.30-34, "Function, Structure and Sound Change", 《Word》,VII,pp.23-28,またA.Haudricourt et A. Juilland, Ob.cit.,p.21以下、およびE.Alarcos Llorach, [Fonologia],p.101を参照。

(訳注:Function, Structure and Sound Changeは、黒川新一訳、「機能、構造、音韻変化」。研究社-英語学ライブラリー(31)昭和33年)。

(12)[Language, Its Nature, Development and Origin] 9ed.London 1950,pp.256-257.

(訳者注:市川三喜・神保格訳「言語、その本質・発達および起源」岩波書店 新訳、三宅 鴻訳、上巻<下巻は未刊>、岩波文庫1981年)

(13)A.Martinet, "The Unvoicing of Old Spanish Sibilants",《Romance Philology》 V.p.156を参照。

(14)E. Coseriu, [La geografia linguistica], Montevideo, 1956, p.8を参照。

(15)J.Dewey, [Logica] p.57を参照

(16)無論《変更》は普及しうる、しかしこれは採用、言い換えれば文化的目的論的に限定された自由な行為によって普及するのである(3.2.2参照)。《段階的および無意識的》生理的変化の仮説は、非合理的な仮説である、というのはこの仮説は、言語が本来持っていない物理的連続性に帰そうとしているからである(第5章1.3.3参照)。《生理的》変更は、言語行為においては無くなってしまい、そして知識、言い換えれば物理的ではなく文化的事実として保存されうるにすぎない。

(17)N.S.Trubetzkoy, [Grundzuge der Phonologie], 仏訳[Principes de Phonologie],Paris, 1949 p.120を参照。

(訳者注:この著には、スペイン語訳、[Principios de Fonologia ]、長嶋善郎訳「音韻論の原理」岩波書店1980等あり)

(18)子供のことばは、言語の仮説的な初源的状態についてなんらわれれわれに教えるところはない、しかし言語的諸体系を機能させる様式につては教えることが多い。子供は言語形式の体系的規準を習得する、という事実については、V.Pisani, [Geolinguistica]p.101注を参照。

(19)同一の《歴史的言語》によって行われた対話には、4つの異なった《言語》が暗に含まれていると言える,a)話し手の知識、b)聞き手の知識、c)これら2つの知識の共通項,d)対話によって発生する新しい言語。

(20)これらについては、R.Jakobsonの"Sur la theorie des affinites phonologique enter les langues", N.Trubetzkoyの[Principes]に所収p.355-356を参照。Ch.Bally,[Le langage et la vie],スペイン語訳[El lenguaje y la vida]2ed.Buenos Aires,1947,p.194によっていわれた2つのタイプの《社会的圧力》、つまり暗示と自己暗示は、この原則に還元できる。

(訳者注:小林英夫訳「言語活動と人生」岩波書店1974年)

(21)[Il linguaggio come conoscenza],p.80以下。

(22)V.Pisani, [L'Etimologie],p.50を参照

(23)このことをHegel以上に的確に言い表している人はいない。Hegelは、この問題に相対的にほんの少ししか関心を払っていなけれども、アリストテレス以後、言語の本質に最も深い洞察を行った思想家である、「言語は純粋なそれ自身の存在である、つまり言語はそれ自身で意識している実存の単位として存在している、それで言語は他の人のためにあるのである」(Phanomenologie,VI.B)。言語活動の間主観性(intersubjetiviad)については、W.von Humboldt, [Uber dir Verschiedenheit]p.34-35,55,およびG.von der Gabelentz,[Die Sprachwissenschaft]p.2を参照、「言語は、1者の理解の基盤であるばかりではなく、他者の理解の手段でなくてはならない、言い換えれば、言語はまず我をそして次に汝を必要としている」。またG.Galogero,[Estetica]p.244を参照、「言語は閉じられた窓...を開け放すことである、つまりある精神より他の精神への解放である」。しかしGalogeroは、言語活動の実用性(口語性)によってこのことを結論づけている。

(24)無論これは最小の図式に還元された対話について論じているのである。現実の対話は、もっと複雑である。現実の話し手は改新を行うばかりではなく、同時に異質の改新をも普及させる。それに加えて、《改新》は例えば知覚の不完全さやまた話し手によって意味されているものの無理解によって、聞き手の中でおこることがある。一方対話をしている2人の話者の各人とも、同時に話し手であり聞き手である、そしてそれぞれ話し手は、自分自身の云うことを聞いている。最後に、聞き手は話し手からのみ《改新》を学ぶばかりではなく、単に無視されている伝統的方法をも学ぶのである。

(25)たとえば、[La methode comparative en linguistique historique], Oslo,1925 p.85-86を参照。この点について、もっとラディカルなのは、J.Vendryesの立場である、"Reflexions sur les lois phonetiques"(1902),これは現在[Choix d'etudes linguistiques et celtiques] Paris 1952に収められている、p.6。彼は音声変化は原則的に一般的事実であり、一般化された個別的特有性ではない、と考えている。そしてさらに、個人より発する音声変化は例外としている。

(26)B.Croce, [Convrsazioni critische I]p.123を参照。

(27)習得された言語についての最初の問題提起については、不十分であるが、E.Coseriuの"La lingua di Ion Barbu", 《Atti del Sodalizio glottologico milanese》, 1.2.Milano, 1949,p.47-53を参照。音素的採用については、特にE.Polivanov,"La perception des sons d'une langue etrangere",TCLP,IV,p.79-96を参照。

(28)H.Paul, [Prinzipien],p.63で、音声変化について言及するところを参照、「音変化の主要な誘因は、音を新しく個人へ伝達することに存する、と言えるであろう」。またCh.Bally [El lengua y la vida],p.168を参照、「言語に新しいものをもたらすのは、聞き手であり話し手ではない、つまり新規なるものが広がる前に、それを採用していなければならないからである」。改新は個人的であり、変化は社会的であるとしばしば言われる、しかしながら、個人それ自身も社会的なものであることを忘れないならば、そういう特性によって上記の2つの現象(個人的、社会的現象)は区別されず、その現象の広がりが示されるだけである。

採用、音声法則、《例外》やそれらに関連した問題については、V.Pisani,[Geolinguistica],pp.96-148の《照射》に関する章を参照。Van Ginnekenの生物的視点、特にいわゆる遺伝的《精神物理学的》要素を取り入れていることを除けば、この章は全面的に同意できるものである。Pisaniは上記のGinnekenの考えに譲歩をしめしているが、《基層》(pp.130-131,注)の現象について、R.Menendez Pidalの《隠れた状態=表面に現れていない状況》という考え方とたいへんに似た説をもって、この現象に正当な説明を加えている。

(29)これについては、E.Coseriu,"Determinacion y entorno, Dos problemas de una linguistica del hablar", 《Romanistische Jahrbuch》VII,pp.29-54を参照。

(訳者注:この論文は[Teoria del linguistica general ]Madrid, 1967 Gredosに再録されている)

(30)たしかにジェスチャーをともなって現れる言語要素というものは存在する。B.Migliorini,《Lingua nostra》XII,2,p.55を参照、[con tanto di barba(こーんなあごひげの)という表現は、もともと手で髭の長さがしめされるのである」。このスペイン語訳のcon una barba asi de larga(こんなに長いあごひげ)という表現を参照。

(31)B.Malmberg, 《Studia Linguistica》III,p.134. 彼は改新の問題ではなく、採用、普及の問題は言語変化の基本的問題であるとしている。またE.Lerch,"Die Aufgaben der romanischen Syntax", [Hauptfragen der Romanistik Festschrift Becker]所収、Heidelberg,1922,p.94を参照。

(32)[Gesammelte Aufsatze zur Sprachphilosophie]、スペイン語訳[Filosofia del lenguaje]2版、Buenos Aires 1947,p.102。またVosslerは、音声変化を《気づかれていない、そして機械的な最小の不一致の総体》と考える。しかし他の変化を音声変化に加えるために、《機械的》不一致はどのように保存されるのであろうか(注16参照)。

(33)音素的図式は、必ず聴覚的図式であると解さなければならないということはない。B.Malmbergは、J.Forchhammerとの論争で(《Studia Linguistica》IV,p.101)、「われわれはある器官の動揺によってではなく、音声の助けを借りて自分自身を理解せしめるのである(そのメカニズムは、大部分の話す主体によって無視されている)」、と言明している。R.Jakobsonはよく知られている学説に対応しているこの説は、同じ証拠やまた常識にもとずいて申し述べられているようである。しかしながら、これは聴覚的イメージを調音的イメージから実際に区別することはできないので議論の多いところである。聞き手はしばしば単語とか句を繰り返した後で、それを正確に《理解する》ことがあるという事実がある。そして一般的に、聞いたことを理解するには少なくとも、調音の素描を必要としている、という多くの証拠がある。M.Brealは([Essai de semantique]p.157)これに関連して、Ribotを引用している、「われわれが聞く際には、しばしば発声器官内での沈黙の調音の始動や、弱いまた粗略な運動などがみられることがある」。人間の知覚は、特に有意味な事実にかかわろうとする時には、受動的なものではなく、《関与的》である、つまり知覚したことを内的に再行為するということである。話し手の《無視》については、Malmbergが述べていることが、もし科学的知識についてであれば受け入れることができる。事実、音声学者でも生理学者でもない話し手は、調音のメカニズムについて科学的知識を持っていない。そして同じことが、同じ理由で聴覚的メカニズムについても言える、なぜなら普通の話し手は聞くことについての生理学を知らないからである。逆に話し手は、調音的運動を実際に行っているので、その技術的知識を必然的に有している(第2章3.2.2参照)。

(34)L.Gauchatの[L'unite phonetique dans le patois d'une commune](O.Jespersenの[Humanidad]p.44に引用)での観察、つまり彼によって研究された村人達は、みな同じようには話していないということを《知らなかった》という報告は、そういう風に解釈される。一般に物理的客観主義は、《いかなる単語も(物理的行為としては)他の単語と同一ではない》という観念にわれわれをならしてしまっている。それで言語活動のエネルゲイアとしてとらえる考え方と何か関係があるのではないかとする人もいるが、実際には何の関係もない。

言語的エネルゲイアを、単なる物理的な多様性というものと混同すべきではない。事実、いかなる単語も他の単語と同一ではない、というのは客観主義的に確かである(科学者や録音機器にとって)、しかし客観的にはそうではない(話し手にとって)。話し手はカイモグラフではない。N.Trubetzkoyは([Principles]p.12)音声学を《現象学的研究と定義している(表されたものとしての音声について研究するから)、またこれと同じ用語は、"Project de Terminologie phonologique standardisee", TCLP,VI,p.309に見られる。しかし(Trubetzkoyによって認識されている)音声学は、《現象的》であり客観主義的なものである。音韻論は、現象学的という語をFusser以後の意味で使うとすると、まさしく《現象学的》なものである(もし音韻論を機能的音声学と広義に解釈し、しかし単なる《弁別的機能》の研究と解さないとすれば)、というのは音韻論は、話し手の《自然的知識》に、より多く対応しているからである。

(35)H. Paulは、([Prinzipien],p.55)ある限界内の発音の変異性は、知覚されることはない、と言う。これと同じ意味で、G.von der Gabelentz,[Sprachwissenschaft] pp.33-34,187-188を参照。Paulは、その中に話し手によって気づかれない変化の鍵がある、と信じている、がしかしこれは受け入れがたい、なぜなら知覚されないものは、採用されることもなければ普及してゆくこともないからである。

L.Gauchat, [L'unite](O.Jespersen,[Humanidad]p.41に引用)も同様に、新しい様式で発音した最初の話し手は、気づかれないと信じている。しかし、Jespersenが示しているように、これは矛盾である、つまり気づかれていない何かを採用するのはそれ自身矛盾であるからである。言語変化は《伝染》ではない。K.Vossler, [Positivismus und Idealismus in der Sprachwissenschaft]、スペイン語訳[Positivismo e idealismo en la linguistica],Madrid 1929,p.83で、彼は、「それとなく言われ、まわりの人々に取り上げられ、しかもだれも最初は、偏差とは気づかない」新しい発音について言及している。採用について仮定されている《無意識》については、Bally,[El lenguaje y la vida]p.168の観察を参照。

(36)しかし多くの学者のうちで、まず最初にO.Jespersenの[Humanidad]pp.42,46を参照。彼は個人的発音の採用と普及の論証されている例を挙げている。

(37)この基準は重要である、しかし機能性および社会性の基準と合致しなければならない。聞き手はより劣った文化の主体の言語的様式を採用することができる、もし聞き手にとって、それらの様式が機能的に有効であり、特に表現的に有用であるなら。しかしそういうことがなくとも、言語的に共同体より孤立しないために、《他者のように》話そうとする傾向によって、採用されることがある。また言語的共同体から表面的にも抜きん出ないということは、良いことまたは悪いことであると考えられたとしても(しかし実際は良いことである)、好みの問題である。

(38)体系にとって異質であり、規範に逆らっているということで、機能的正当性がないものは、すべて《間違い》と考えられる。

(39)F.Schurr, "Substrattheorie und Phonologie aus dem Blickwinkel des Rumanischen",《Cahier Sextil Puscariu》,II,1,1953, pp.25-26を参照。

(40)《機能的必要性》ということは、この最後の文脈において言語体系の弁別的または指示的必要性と解される。別の意味で云えば、文化的、社会的、美学的必要性もまた《機能的》である。

(41)H.Paul,[Prinzipien],p.68の公式を参照、「音法則とは、ある種の一般的条件下で、必然的に反復して発生するものを述べるのではなく、ある種の歴史的現象の1集団内にある一様性のみを確認するものである」。一方、E.Pulgramは"Neogrammarians and Soundlaws",《Orbis》IV,p.63で、一般に青年文法家にとってLautgesetzという複合語におけるGesetzという用語には、《法則》という語の本来の意味はなく、むしろGesetzmassigkeit(規則性)という意味である、と述べている。Pulgramはこの論文の中で、(p.64)Leskien,[Die Deklination im Slavisch-Litauischen und Germanischen],Leipzig, 1876,p.XXXVIIIの公式を引き写している、それは、音声法則は例外もありうるが、しかし音声法則は恣意的でも偶然的でもない、と明確に述べている。

(42)言語学において、具体的なことばに関連させてのみ解明できるような問題が、《言語》の抽象的側面において設定されることがある。その抽象的側面において、それらの問題は単に解答を得られるのではなく、ただ部分的解答を得ることが出来るだけである。そういうものの例として、ことばの表意的な様式である動詞のカテゴリーがある、しかしこれは言語の単語の《クラス》として解釈するようになっている。さてカテゴリーは《クラス》ではない、しかしカテゴリーはクラスではないと言うのは、(しばしば考えられるように)カテゴリーは存在しないとか、または単に1つの習慣や実際的方策に対応しているものであるということを、暗に意味しているものではない。この最後の結論は、まさに《クラス》(これは事実、教育的方策である)としてのカテゴリーの解釈にかかわっているのであり、カテゴリーそのものにかかわっているのではない。それでカテゴリーは《単語のクラス》ではないということを設定するために必然的に現実のカテゴリーに言及しなければならない。同じように、音声法則は一般的ではない、ということを設定するために(現実の)音声法則に言及しなければならない、というのはこの場合、音声法則そのものが、その存在を否定的に断定されるものの主題であるからである。勿論、音声変化は《存在しない》と言明しても矛盾するものはない。しかしその場合、存在しているものは何か、そして《音声変化》と解されうるものは一体何か、を設定しなければならない。

(42−bis)同じ意味で、J.Kurylowiczは("La nature des proces ditsanalogique》",AL,V.p.36) (言語共同体の内部に対して》外的広がりと、《文法的体系の内部に対して》内的広がりを区別している。OsthoffとBurgmannは、音声法則の原理を公式化する際に、その2重で同時的な一般化を明確に措定している、一つは、ある共同体内のあらゆる話し手における一般化、もう一つはある音がある一定の条件下にあるあらゆる語における一般化である。M.Leroy, "Sur le copcept d'evolution en linguistique", 《Revue de L'Institut de Sociologie》,1949,p.346注3を参照。

(43)この悪循環は、すでにH.Schuchardtの[Uber die Lautgesetz],1885で言及されている。《方言》は音声変化に関して《先験的》かまたは《後天的》なものと考えるべきかについて、彼は問題を提起している。[Brevier],p.59を参照。

(44)変化が起こらないということは、こういう意味で変化が起こることと同じ価値がある、というのは、保守的方言は他の革新的方言と必然的に接しているからである。

(45)《例外》をともなってか、または《例外》なしに、というのは、音声変化のこういった側面が、法則の《規則性》に対応しているのであり、法則の《一般性》に対応しているものではないからである。

(46)[La geografia linguistica],p.29を参照。

(47)B.Croce, [Problemi di estetica],p.171。彼はHumboldtの観念([Uber die Verschiedenheit],pp.38-39を参照)を再度取り上げる一方、実際の所《言語》を学ぶということはなく、言語を創造することを学ぶのである、と正当にも見ている。もっと上手く言い表すとすれば、《言語》はまさにこの後者、つまり言語創造の技術的、体系的様式である。

(48)音的側面における言語形成の規準については、V.Pisani,[Geolinguistica],p.109を参照。M.Grammontは、([Traite de phonetique]4ed.Paris 1950,p.166)かなり明確に規則性の原理は何によっているのか、について気づいているが、しかしながらすぐに《規則性》と《一般性》を混同してしまっている、「音声変化は、それがある1つの単語または語類の変容ではなく《調音様式の変容に存するので、規則的である。変容にとって本来的である時間的および空間的限界内において、音声法則は絶対的に作用する」。この言明はまさに、論証されるものは論証される、と言っているにすぎない。またB.Delbruck,([Einleitung in das Sprachstudium]2ed.Leipzig,1884,p.126および[Die neueste Sprachforschung],Leipzig, 1885,p.17)によると、音変化はそれぞれの単語において所与のものとなるのではなく、音の発音において所与のものとなる。Delbruckは、変化は《無意識》であると考えている、そして理論的ではないが、事実上、《自然的必然性》について論ずることができるとしている。逆に理論的視点より、音声法則と自然法則の同定を拒否している。これについては、[Einleitung],p.130や[Sprachforschung]pp.17-18を参照。J.Vendryesは([Reflexions]p.4)これと同じ意図で、単語ではなく調音における《変更》について語っている。

(49)ラプラタ河流域で、アカデミックなカスティリア語を話そうとして [arrojo]のかわりに と発音する人は、《類推》によるのでも、 または(desarrollo の感染が介入するかして)ある特定のモデルによってそう発音するのではなく、この場合には適切なものではないが、 が体系的に対応するという知識によって、そう発音するのである。そしてabstractoの代わりにabstraptoと云う人は、pttという音声法則を(誤解して)逆に適応しているのである。digresion, devastarの代わりにdegresion, desvastarと云うのは、dis-, des-という接頭辞の知識が介入しているからである。しかしラプラタ河流域では、子音の前のsの脱落を避けようとする傾向(脱落は俗的、または粗野な現象と考えられている)がある、しかしこれはいわば2つの話し方の様式間の暗黙裡の比較であるにすぎない。ことなった諸言語間での恒常的関係についての直観については、V.Pisani,[Geolinguistica],p.13を参照。

(49-bis)「われわれはそれ(音声変化)を、ただ一人の個人のもとで期待することができる、またむしろ、われわれがまったく厳密であろうとするのであれば、1個人の言語を瞬間的に切断する時に期待できる、と云えよう」([Einleitung in das Sprachstudium],p.129)。こういう意味でDelbruckは、それ自身における音声法則について語っている。また[Die neueste Sprachforschung],pp.12-13を参照。

(50)一般に、《単語》のメカニズムを抽象的言語のメカニズムと取り替えるのは適当でない、というのは前者は後者より抽象的なものが少ないということはないからである。どんな変化も辞書に記載されている1単語においておこることはない(4.4.2)。新しい音的様式を採用する前に、話し手はそれを色々な語で聞くことがなければならない、そして言語間の接触の場合には、種々の語の特有の音的様式が市民権を獲得し、それが典型的な外来語とは見なされなくなる前に、ある言語から別の言語へそれらの語が移行していなければならない、ということである。

(51)[Filosofia del lenguaje],p.103

(52)[Prinzipien],p.68

(53)一方内延的意味で、《段階的で無意識》な変化はありえないとすれば、あらゆる音的変化は《音的交替》であることになる。PaulのLautwandel(音声変化)は音的様式の体系におけるLautwechse(音声交替)である、そして彼のLautwechseは、1つの単語、または1つの単語の語尾変化の範例におけるLautwechselである。

(54)A.Alonsoの「Cours」(スペイン語訳)への序説17頁および脚注。G.Devoto ([I fondamenti],pp.69-70]によって提示された音声法則の類推への還元は受け入れることはできない。Devotoは、 音声法則はそれによって音的平衡性、規範性、恒常性が設定されるようになる過程であるとしている、「1つの改新が承認された後では、その他の類推の形式もその改新に引きずられることになる」。

しかしこれは、Vosslerにおいて批判されたばかりの同じ矛盾を含んでいる。逆にE.Lerch,([Die Aufgaben],p.94)は、正確に見ている、彼は重要なものは量的理由ではなく、新しい(間違った)様式がどのようにして、規則となるためにそのような量的優越性に達したのか、という問題であるとしている。そして彼はそれに解答を与える、「それはむしろ種子のようなものによる:それは好都合な大地に落下しなくてはならない」(およびp.97を参照)。Lerchは統辞的変化について語っている、しかし音的なものは、そのようなものではなく、また違ったものである。

(55)[Prinzipien],p.227.またGabelentz,[Die Sprachwissenschaft],p.209,「それで言語は、似たやり方で似たことを表現する」を参照。

(56)"Lautgesetz und Analogie", 《Indogermanische Forschungen》,LI,1933,p.269,《メカニズム》および言語的技術としての類推について、J.Kurylowicz,"La nature des proces ditsanalogiques》",AL.V.pp.15-37を参照。

(56-bis)R.M.Pidal, [Origenes del espanol] 3ed.Madrid, 1950,SS.20.3およびse21,またA.Alonso,[Castellano, espanol, idioma nacional]2ed.Buenos Aires, 1949,p.61を参照。

(57)事実、《音声法則》はその歴史的結果において、言語が《体系的》で単一体系的である限り真実である。しかし言語的伝統の総体としての言語は、《体系》であるばかりではなく《規範》でもある、言い換えれば、機能的体系によって与えられている諸可能性内での選択である。このことに加えて、歴史的言語においては体系の合流と共存がある(第2章3.1.3−4参照)。しかしながら音声変化は、K.Buhler ([Sprachtheorie],1950,p.16)が考えているような《静態的規則性》である、ということを意味するものではない。Buhlerは、音声法則は、《物の落下の法則というような、単純な自然法則ではない》と言う、しかしこれだけでは不十分である。ここで言わなくてはならないのは、音声変化とはいかなる形であれ、単純であれ複雑である決して自然法則ではない、ということである。

(58)研究の不可避的要請により、ダイナミックなもの(これは具体的なもの)は、必然的に2つの《状態》(共時的投影)の間で研究さえるとすれば、2つの状態の間で要素の交替が確認される時に、《音声法則》ということが云々される。しかしながら言語のダイナミックな現実という視点よりすると、《連続性(または繰り返し)の音声法則》ということが言われても、同様に理由がある。しかし一方、言語の2つの状態の間で、aaというタイプの対応が設定される時には、そういうように2様に研究されている。交替の《法則》は言語の形成にかかわり、連続性の法則は言語の再形成にかかわるのである。

(59)歴史的に現実的なものでありうる諸形式や観念上の体系は、再構成される(しかし再構成されるのは、歴史的に現実の言語、言い換えれば、その全体性において歴史的に限定された時代、および所定の言語共同体に帰属させうるすべての要素をそなえた体系ではない)、ということを頑固にも理解しようとせず、R.A.Hallは("La linguistica americana dal 1929 al 1950",《Ricerche Linguistische》,I.2.p.291)逆に、再構成される、ということを受け入れる人を《頑固者》と呼んでいる。実際、再構成された形式の地理的広がりの同一性や歴史的同時性についての保証は、なにもない。これに加えて、考察されている言語に存続している形式だけが、《再構成》されうるのであり、存続していない形式は再構成されることはない。それでロマンス諸語では、少なくともラテン語の語尾変化の再構成まではなされうる、がしかしラテン語の受動態の活用を再構成することは許されない。同様に、印欧語の場合《共通印欧語》の音声体系は、再構成されうることはなく、印欧語の《共通の音声体系》が再構成される、 つまりより厳密に云えば、再構成する際に考察される諸言語に対応する印欧語の共通の音声体系が再構成されるのである。そしてこのことは、音声体系と同じようなタイプの体系性というものを有していない、言語の他の側面、例えば語彙に関しては、よりこのことが当てはまる。 《頑固者》が否定しているのは、再構成の可能性や、その方法論的価値やまた手段としての価値ではなく、しばしば再構成された形式に付与しようとする不合理な意味である。たとえば、ヒッタイト語それ自身が提示している新しいデータを利用することなく、ヒッタイト語を再構成された印欧語に対立させることができる、という考え方を否定するのである。 再構成については、E.Pulgram("Proto-Indo-European Reality and Reconstruction", 《Language》 XXXV,pp.421-426)の行っている正確な観察を参照のこと、しかしながら彼はここ40年に亘って同じ観察をしてきたイタリアの学者達に言及していない、彼は実際には彼らの研究に負っているにもかかわらず。

(60)2つのタイプの《一般性》の混同、言い換えれば、《音声法則》をある歴史的言語全体にわたる同時的なものであると考えるということは、非常に奇妙な間違いに導いてしまった。それで例えば、保存の現象(例えばLogudorese方言(サルディニアの主要方言)でのke, kiの保存)を《逆行》と解釈することになる。逆行は疑いもなく、存在しておりこれはしばしば起こる現象である、しかし別の説明もなされうるのである。個人間の体系において、まだ完了していない変化(4.4.6)は、より旧い異形にとって好都合なものを選択することにより排除されることもある。そして異なった体系間の相互作用によって、すでに完了した変化が、革新的な話し手に対する保守的な話し手の影響、言い換えれば、革新的なものに対する逆に意味での拡散によって、排除されることがある。

(61)このような事実は、G.Curtiusによって指摘されている。最近では、W.HaversやW.Hornによってこのような事実が、明らかにされている。V.Pisani[Forschungsbericht],p.39およびPaul,[Prinzipien],p.209以下を参照。

(62)H.Paulの以下の考察を思い返して欲しい、「それで例えば、新高ドイツ語で弱変化動詞の過去と過去分詞の中間音のeは、tとdの間では保存され(redete, rettete),その他の場合には消失した。しかしながら、16世紀に遡ればあらゆる動詞に2つの形式が共存していた、つまり一方ではzeigetezeigte、他方ではredeteredteがあった。音声変化は目的性を無視して起こったのである。そしてこれはより大きな目的性が、形式の保存のために決定的であったのである」([Prinzipien],p.71)。これは単に目的性や目的性の欠如について言及しているのではなく、一般的(体系的)目的性や特定の目的性について言及しているのである。Kurylowicz("La nature des proces",p.31)は以下の原則を申し述べている、「言語は、中心的な序列に属する差異を設定するために、より周辺的な序列に属する差異を放棄する」。

(63)A.Martinet、[The Unity of Linguistics],p.125を参照、 「言語の場合、観察することによって、言語は今日どのように機能しているのか、ということだけではなく、 言語使用者の変化し、また相反する必要性が、どのように永続的にまた暗黙裡に作用しながら今日の言語から 明日の言語を形づくっているのかが解るであろう」。 それで一方では、昨日の言語にもとづいて、今日の言語が形成されているということになる。

(64)[La pensee et le mouvant] 5ed.Paris,1934,p.102また[Essai sur les donnees immediates de la conscience]16ed.Paris 1914,pp.125-126を参照。

(65)R.M.Pidal,[Miscelanea historico-literatura],Buenos Aires, 1952,p.39

(66)「Cours」p.140:p.106

(67)M.Brealは、このことを明確に観察している、「30年以前もまえに、筆者は言語の発展の中でこれを明確に観察していた。筆者にとって、前進するとは2次的な原因を切り離し、唯一の真実の原因である人間の知性、意志に注目することである」([Essai],p.7)。言語を話し手から切り離さないよにすることが(第2章1.3.2参照)、言語変化の理解のために重要である。

 

第3章 了
2001/07/11
2001/07/12訂正