第4章

変化の一般的条件
体系的および体系外的限定
歴史的伝統と安定性の不安定性

 

1.1変化の一般的問題は、言語変化の普遍的問題(つまり言語の安定性の問題)とは根本的にことなり、変化するということは言語の存在様式に内存的であることを認識するとすぐに設定される類いの問題である。変化のこの第2の問題《言語はなぜ変化するのか》または《言語変化の原因にはどういうものがあるのか》という問題と同じような用語で設定されがちである。このことは変化が必然的に2つの《状況》において研究されること、また自然科学に固有の語彙や表現を使っている人文科学の一般的な用語上の欠陥に陥っているということを示している。 これは特に言語に対する自然科学的態度そのもののに根ざしているこの2つの問題の同一視や混同によるものである。しかし実際には、これはまったく異なった問題にかかわっているものである。言語の安定性の問題は、これを経験的問題として設定するときには不当なものとなる、なぜならこれは合理性の問題であり、単なる部分的な説明の積み重ねによっては解決できないからである。つまりこれは言語の存在様式にかかわるものであり、あれこれの言語で所与のものとなっている 特定の変化にかかわっているのではないからである。逆に変化の一般的問題は、 ―これは言語の存在様式に先立つ知識にもとづくものではないが― 経験的問題または一般化された歴史的説明の問題としてまったく正当なものである(第2章4.2参照)。この場合、答えを要求している問題は、言語の安定性に理由についてではなく、あれやこれやの変化の理由についてである。なぜ一般に言語は所与のものとなっており、また言語はなぜ不安定なものではないのかが問われているのではなく、変化はそれがまさに実際に生起したようにしか生起し得ないのはなぜか、ということである。用語を変えていえば、言語変化の《原因》(原因ということによって能動的原因や外的原因というものを考えるなら、言語変化は原因を有していない)を記述するのではなく、変化の一般的様式を決定する状況(条件)を設定することにかかわるのである。

 

1.2.言語は形成されるものである、いわゆる変化は、言語それ自身の自己形成であるとすれば(第4章5.1参照)、変化の一般的問題は、この言語的自由によって形成されるものであるなら、また発話の視点から設定されたこの同じ問題は、言語的自由が言語を刷新する条件を設定することであり、もし形成される言語の視点から問題が設定されたとすれば、言語はどういう仕方で話し手の表現的自由によって創られたものが受け入れられ、普及してゆくのか、言い換えれば言語的伝統に入ってゆき、ついには伝統となってしまうのかということを設定することである。それでこの問題は、自然科学的意味での因果律的問題ではないので、 指摘されている色々な条件の収集と積み重ねをしたとしても、 言語変化の誤った因果律的問題設定に解答を提示するとは考えられない。 説明は確かに単なる記述以上のものであろうとする、そして変化の理由を見出すなら、変化を動機付けまた正当化しようとする。しかしながら、変化を動機付けるということは、変化一般を動機付けることを意味しない、そしてその《理由》というものは、 ―この用語(理由)が必然性の面で有している意味で― 原因ではなく、話し手の言語的自由が働いているもののうちの条件、環境または限定素である(1)。このような限定素は変化を誘引するものではなく、ただ変化を条件付けるだけである。そしてこれは言語の《発展》と不適当な用語でよばれるものを促進するか、または押しとどめることがある(第6章脚注7参照)。

 

1.3.それでもし変化の一般的問題が、その条件付けの問題であるとするなら、この問題はまさに言語体系の相対的安定性の問題である。ある言語は他のものより変化しにくい理由、またある伝統が他のものより長く保存せられる理由を説明するのは、変化そのものを説明すると同じように重要である。

 

2.1.1.言語変化の第2の問題に関して、《外的》《内的》要因とか、《構造的》《歴史的》要因とかについて語るのは間違っていない。その際これらの要素は、能動的要素とか、変化の限定素などにかかわるものではなく、受動的要因とか発話の環境や言語的自由の歴史的限定素にかかわるものであると解される。

 

2.1.2.実際には、これらの諸要素は発話の条件としては、すべて《内的》であると解さねばならない。 所謂《外的》要因(住民の混同、文化的中心、等)(2)は、 2次的段階の要因である、それでこれらは言語的活動を直接的に限定することはない。 それらの外的要因が限定するところのものは、言語的知識の 造形であり、これは同時に発話の条件である。 それで言語的自由が直面する環境とは、住民といったものが混ざり合うことではなく、 その混ざり合いの結果としてうまれるであろう個人間の言語的知識の状態である。同じことは特にMeillet(3)によって言語変化の最終的な理由として採用されている、 「社会構造における変容」についても云える。社会構造における変容は、言語の内的構造において変容として反映されることはない、というのはこの2つは並列的構造をなしていないからである。社会的構造は、言語の外的構造や社会的な階層化に対応している。そしてこの社会の階層化は文化的事実である。社会的なものは疑いもなく、言語《発展》における間接的に重要な要素である、しかしこのことは、ただ文化的要素としての言語的知識の種々性や階級付けといったものを暗に含んでいる限りにおいてである。《歴史的要素》と《構造的要素》の区別に関しても同様に考えなければならない。構造的要素が歴史的であることを停止することはない。というのは体系はまさに体系として存在しており、 それ以外の様態では存在していないということは、また1つの歴史的事実であるからである。それでもし《歴史的》要素という語によって、所謂《外的》要素を示しているのだと解するなら、その時には歴史的なものは構造的なものと並列させることはできない、なぜなら既に示したようにこの2つは異なった段階の要素にかかわっているからである。

 

2.1.3.それで体系的要素と体系外的要素(この2つのカテゴリーにおいて恒常的要素と偶然的要素を区別して)について語るほうがよいであろう。一方この区別は、内延的および外延的というすでに設定された区別、つまり変化の2つの方向と合致する(第3章4.4.2参照)。機能的対立や言語の規範的実現体、言い換えれば機能的規範的体系に属するものはすべて《体系的》である。そして話し共同体における言語知識の種々性や、その知識の段階や、言語的伝統の厳格さにかかわるものはすべて《体系外的》(しかし《外的》ではない)である。

 

2.2.さてこの諸要素の2つの序列は、同じ意味でではないが両者とも言語に属する。そうすると《言語変化》の諸要素は、言語そのものの中に所与のものとなっているという明らかに矛盾する結論に到達する。この結論は、もし今論じられている諸要素が、まったく変化の決定的原因であるとするなら、非合理的であろう。事実このことは、言語がその言語固有の変化の《結果》であるということを意味するからである。そして変化は言語の新しい要素の構成素であるとすれば、言語それ自身で《原因》であるということと同じことになる。しかし上記の諸要素は《原因》ではなく、言語的自由の条件であり、また限定素であると考え、さらに以前の言語的伝統と交替する新しい伝統の構成素としての変化は、すでに構成されている体系の総体、つまり体系的技術、また文化としての《言語》の中にその《場所》、その可能性、その内延的外延的正当性(機能的および文化的)を求めるべきであると考えれば、非合理でも矛盾もしていない。さらにこのことは、変化が改新の普及であるとすれば、改新の個人間での採用にとっての好条件を《言語状態》に求めなければならないという事実の当然の帰結である。

 

2.3.上記のことから、変化の《条件》はもっぱら文化的機能的なものであり、なんらかの《言語状態》において確認されうると類推される。言語は《行為の知識》であり(第2章3.2.2参照)、これはまさに知識として変化する。それゆえ変化の否定的および肯定的限定素は、個人間の言語知識の条件、つまり話し手の表現的必要性に対応するその能力のうちに存する。一方言語は体系的様式の1つの総体である(第2章3.1.1参照)、ただ体系的に変化(刷新)することができるだけである。それで新しい体系的様式の構成素としての変化は、その正当性や限界をその中に含んでいる体系の機能性の中に見出さなくてはならない。 実際、もしなんらかの《言語状態》において《体系》を際立たせることができるとすれば、言語はあらゆる瞬間において体系であり、体系として《発達している》ということを意味する。より的確に言えば、共時態における体系性の確認は、言語が体系的に再形成され、刷新されるゆえに可能なのである(第3章4.4.7参照)。そしてもし2つの《状態》の間で言語が体系的であることをやめることなく変化するとすれば、このことは変化は必要な場所を体系の中に見出すということを意味する、つまり変化は話し手の新しい表現的必要性に対する初源《状態》としての可能性、または《不十分さ》によって正当化されるということを意味する(4)。

 

2.4.事実、変化は言語の存在様式にとって内存的なものであるので、 あらゆる瞬間にわれわれは現在おこっている変化に直面しているのだということは明らかである。それゆえ厳密に共時的な視点からは、変化として確認できなくとも、変化は言語の《諸状態》に反映されていなくてはならない(第1章2.3.3参照)。要するに、変化は共時態において現出する。また文化的視点よりすると《散発的》様式や既存の規範に対するいわゆる《現行の間違》および発話で確認しうる異質の体系的様態において変化は現出する。一方機能的視点よりすると、発話それ自身における随意的異形および非機能的諸様式そのものの中で変化は現出する。さて、通時的視点からすると、これらはすでに変化であるが、《言語状態》の視点よりすると体系のうちの問題となる部分また類似の様式間の選択の可能性としての変化の条件である。

 

3.1.文化的なものに関する分野では、同一の歴史的言語の境界内での言語知識(地域的または社会的) の異形や、文化的な頽廃期や縮小された文化の社会的グループにおける言語的知識の弱体化は、変化にとって好都合な条件であることが知られている。所謂《俗ラテン語》において前期ロマン語の分割へ導いた変化の大部分は、粗雑なまた地域的な起源のものである、言い換えれば、ラテン語の規範を不完全にしか知らなかった共同体より派生した。 そしてラテン文化が衰退し、ローマ帝国がその政治的経済的権威や、帝国の文化的中心としての威信をともに失い始めた時期に、 変化が拡散するようになった。逆に言えば、言語的知識の同質性や言語的伝統への愛着などが、相対的安定性(変化に対する抵抗)の条件である。

 

3.2.上記の事を理解するために、次のことに留意しなければならない、つまり文化としての言語である言語的文化は少なからず、文化一般と合致するけれども、この両者を混同してはならない。ある社会のうちで洗練されている階層は、外国語の影響を受けることもある。ある国の言語の規範性というようなものが問題になった場合には、これはむしろ大衆的な発話において見出されるであろう。同様に、言語以外の広範な文化を有する共同体だけではなく、言語が唯一のまたはほぼ唯一の文化的な結合素である共同体は、言語的に保守的なものになりやすいことはよく知られている。それゆえ、このために言語的伝統の保護は、その言語の固有の個別性の保護と合致する(5)。文化的に上位にある他の共同体によって文化的に囲繞されている小さなことば共同体にとってこのことは正しい。新言語学派の学説によれば、よりコミュニケーションに晒されている地域は、他の言語と接触している時には、改新的である代わりに保守的になる(6)、というすでに論証づみの事実と上記のことは関係している。 一方ある文化的規範の拡大の時期に起こる拡散へ向う変化(cambios de diversificacion)と、収斂へ向う変化(cambio de unificacion)を区別しなくてはならない。この収斂へ向かう変化のタイプにアッティカ方言からヘレニズムのコイネー(共通語)へと導いた変化や、黄金時代のスペイン語のいわゆる《音韻的革命》を形成した音声変化などがある。

 

3.3.また文化的視点よりすると、言語間の接触は同一の共同体での言語的知識の種々性に属するものである。これらの接触は外来の単語が、話されている言語の体系に採用されることなく、外来語として使用される2言語併用の場合や、その時期に特に重要性をおびてくる(7)。それでラテン語ではpurpuraとかgubernareという旧いギリシャ語系の語は、ラテン語の音韻体系に適応したが、一方古典時代に、ギリシャ語を知っている人によって採用されたギリシャ語系の語は、ギリシャ語の形式を保存している。ルーマニア語はある時期に、ルーマニア語の規範がoaを要求する位置で強勢のあるoをもつスラブ語の要素を採用している、つまり 等である。これはすぐに、以前/o/の異形として存在していたoaの音韻化をもたらした。そしてこれは2言語併用という条件においてのみ可能であった、しかしこれらの語は別のやり方ででも、ルーマニア語の体系に適応されたであろう。しかしこれはあまりにこだわる必要はない、よく知られたケースの問題を扱っているにすぎない(8)。

 

4.1.1.言語は、あらゆる瞬間において形成され続けているという最も普遍的で重要な条件より始めて、言語の《体系的》または《機能的》条件に言及するのは有益である。《均衡のとれている定義》ということは別として、言語体系は伝統的形式においてすでに実現されている限り、その本性からして(まだ完了していないという意味で)《不完全な》体系である(9)。Saussureはあるところで、変化によって作られた《言語のメカニズム》の中での損傷について言及している(10)。そしてSaussure後の言語学においては、しばしば《外的要素》が言語体系において作る《動揺》について言及されている(第1章1.1参照)。しかしそのような場合、共時態において境界が定められている諸体系はしばしば、《均衡化された体系》であり、また《損傷を受けた》または《動揺せられた》体系であるとしなければならないし、またあらゆる言語体系は常に不安定な均衡状態にあると認識しなければならない。

 

4.1.2.まさにこの最後の言は正鵠を得ている。言語活動の技術としての体系に関して、あらゆる機能的な要素は、肯定的定義(あれか、これか)、および否定的定義(あれでもなく、これでもない)を有している。そしてある要素が何かであるということと、何かでない(しかし体系の機能性に作用することはなく、そうでありうる)ということの間には、実現体の可能な余地を示す自由な領域がある。諸音素実現体の幅と所記(記号内容)の《承認》の幅について考えてみよ。ある場合には、上記の余地がたいへん広いこともある。例えばラテン語の軟口蓋閉鎖音(k, g)の場合がそうである、たとえば後にe, iが来る時に、それが他の音素によって利用されていない実現体の領域内にあるのなら機能的体系に影響を及ぼすことなく、 と実現されることもあるであろう。

ロシア語で/t' /は、軟音化を許さない /ts/や/ /と混同されることなく [ts' ],[ '] と実現される(例えば のような語によって影響された発音)にいたることがある。フランス語において/r/は混同される危険なしに[x]と実現されうる、一方スペイン語のようにxが音素的価値を有している場合(例:aro/ajo)や、DarstellungDach-stellungが混同されることになってしまうドイツ語の場合には、 不可能であろう。
 第2に、音的領域に限って考えれば、体系内には動揺している相関関係や、不完全な相関関係に対応する 《構造の穴》(casillas vacias)(訳注:Eng.hole in the pattern)というものがある。それでラプラタ河流域のスペイン語では、有声性の相関関係は、 の場合、無声の相関項を欠いている。それでわれわれは、これを埋めうる / / という《構造の穴》を持っていることになる。 そしてこれはすぐに、 の散発的実現体によって埋められる。このことは、この構造の穴がなければ、ただ (例: bolchevique)としてだけ採用されるであろう 英語のshorts と実現されるのを許容している。同様にラテン語においても、逆の意味においてではあるが、同じ相関関係にある音素/f/に対して、構造の穴/v/がある。実際にこの穴は、文法体系にとって重大な影響を与えながら、/u/の実現体によって占有されるにいたった(4.5.5参照)。

【訳者注: , について、これはそれぞれの発音はIPA , である。
aro/ajo(輪/ニンニク)の発音は、[aro]/[axo]であり、rとxを交換すると異なった意味になる、 またDarstellung/Dach-stellung表現/屋根を葺く のrとxを交換できない。 (IPA ) の相関項は、 / /(IPA[ ] ) であるが、スペイン語では後者と音素的対立を示す語はない、それゆえ、ロシア語よりの借用語 は、スペイン語では、 bolchevique と通常 となるが、この英語よりの借用の場合は、 (IPA: ) とは発音されず、 と発音されている。】   

 

4.1.3.もし実現体の異形や規範的実現体などを考慮するなら、体系の均衡はもっと不安定なものとなる。例えばスペイン語の 標準カスティリア語では/j/は色々な場面で、 / / との相関関係によって要求される実現体である , として(例:語頭や鼻音やlの後の位置で、yugo, inyectar, conyugal)実現される(11)。これによって、/j/は南部の下位方言や、 アメリカの各地で と実現されるにいたったものである。[w]や[gw]の場合、文学的なまた共通の規範は、 多少とも不安定な均衡の中で、異なった2つの強制された実現体を保持している([weko]、しかし[agwa]はそうではない)、しかしこれはスペイン語の音韻体系の弁別的対立には対応していない。ラプラタ河流域では、音素/s/が許容する実現体の多様性は、/s/が名詞または動詞の形態音素として有している重要性のゆえに、文法体系における深刻な変容の今後のなりゆきにとって、音韻体系の微妙で問題の多い部分となっている(12)。実際、既に示したように(2.4参照)、実現体の異形は、共時態における変化の変容を示している。同じ事が《言語状態》において常に論証されている多くの相補的、非機能的様式についてもあてはまる。例えばラテン語の動詞体系においては、時制が支配的であった、しかしまたアスペクトもまだ存続していた。つまり語尾活用が存在していたと同時に、前置詞の広範な使用も行われていた。それで多くの実詞は活用でことなった2つの規範(paradigm)を許容していた。ある意味で文学によって固定され統一されている言語を取り扱う時には、現行の文法が《他の可能性》とか《例外》として指摘しているものはすべて、 新しい様式の形成体、または旧い様式の存続体としての共時態における通時的なものの反映であり、実現された体系の《問題の多い部分》を形成している(13)。

 

【訳者注:(i)語頭や鼻音やlの後の位置で、yugo, inyectar, conyugal について:

Alarcos Llorachは[Fonologia espanola]3ed.p.149で『一方、yerno, yodo, hielo,yugo, rayo, haya等々には、(contextおよび地域的規範によって 条件づけられている ,[y],[j]という異音が存在する:el yerno ; tu yerno[y]; con yodo ; de yodo[y]等がある』としている。そして、p.157で、 『 や[y]という音は、それぞれ中位硬口蓋有声の破擦音と摩擦音であり、唯一の音素/y/の音声的実現体である。破擦音は、語頭またディスコース内で鼻音の後にくる時に、 あらわれる:conyuge, hierba, yerro, yunque.』と記し、 続けてp.169で『 と/y/の間には、有声性の対立が設定できることについては疑問はない。このことによって、ある地域の俗語では音素/y/が、 更に振動を加え、 となり、ある場合にはこれが無声音化され、 / / と混同されるにいたることもある』としている。
CoseriuとAlarcosが使用する音声記号とそれに該当するIPAを整理のために下記する: 

となり、混乱を招きやすい。
(ii)[weko], [agwa]の[w]や[gw]について:Alarcosのp.152-p.159で、語頭の[w]は強められて、 hueso(骨): というバリエーションを示しているとし、[we-]の前の音素とは別の音節であることを示すために[we]が強調され、 los huesosは、 [loz-wesos] または となり、 とはならないとしている、それでhaz huecos(空にしなさい)は、 または として実現される。一方の母音と[w]の間にある/g/は、音としてはzeroで実現される(つまりg音が落ちる)、例としては、agua(水):igual(同じ)が、[agwa]および[awa]:[igwal]および[iwal]と実現される。それによって、 /g/+/u/という音結合が、 または[w]と実現されている音との同一視が結果として起こる。それによって、 huerto(野菜畑),huevo(卵)が綴字で と書かれたり、de huellas(足跡の)と (汝が首を切る)がまったく同じに発音で実現されることになる。】

 

4.1.4.実現された体系の《不完全》な性格の他の側面は、機能的体系における可能な対立の大部分が利用されないままになっているという事実に存する。それでたとえばスペイン語のような言語では(接頭辞や接尾辞を伴う様式は別として)、その諸音素のうちの1つによって、また各様式でただ1つの音素によって区別されている語は多くない、たとえばpuertaは、*cuerta, *duerta, *nuerta等と対立していない。このことは大多数の可能な能記(記号表現)は、言語において実際に存在していないということである。またこのことは一方では、具体的な言語的現実において最小の弁別的単位は時に多音素的なものであり、実現体の幅や了解可能な知覚は、しばしば抽象的音韻体系に託されている弁別的対立の枠組みを越えているということを暗に意味している。理解するとか理解させるために十分なものとは、 ―言語外的な限定素を除いて考えれば(第3章4.2参照)― 多くの場合、多少とも輪郭がはっきりしていない単語の《影絵》のようなものである。このような事実は、特に多音節語の言語にとっての《不安定性》の恒常的条件となっている。

 

4.2.1.まだ十分に研究しつくされていない弁別的対立の 機能性の程度の問題と、このことは関係している(14)。抽象的な音素目録において、あらゆる弁別的なものは、同じ側面に存在している、それがある場合にしか区別するのに役立たないにしても。しかし言語の現実においては、《機能負担量》の広範な違いが論証されている。ある対立は他の対立より重要なこともあるし、同じ対立に関しても、位置や、色々な語によって機能負担量の違いを指摘できる。それで種々の弁別的対立は、体系の機能性に重大な影響を与えることなく《消失》(つまり話し手によって無視される)しうるということになる。それでスペイン語では、/θ/-/s/, /λ/-/j/の対立は:(caza-casa, cocer-coser, cebo-sebo, ciervo-siervo,cerrar-serrar, zueco-sueco, halla-haya, - , mallo-mayo, pollo-poyo)は、/ks/-/s/(expirar-espirar, expiar-espiar)とかb-v( , basto-vasto, rebelar-revelar, acerbo-acerbo)のようにすでに一般に無視されている対立よりも重要であるということはない。 文学イタリア語においては、 という対立は、体系的なものであるが、たとえば、/o/-/a/や/o/-/e/という対立のような機能的重要性を有していない、なぜならば上記の対立は、アクセントのある位置で起こり、しばしば単なる 《規範的》な対立であるからである(それで のような規範的変種すら許容することもある)。そして/s/-/z/の対立は、/fuso/-/fuzo/という少数の例において見られるだけであり、 ただ母音間において存在しているにすぎない。

 

4.2.2.一方ある対立の機能負担量は、しばしば明白である。つまり辞書で論証できる、しかしながらそれらは発話においては、実際に現れることはない。 [awa](</agua/)とか (</huevo/)という実現体や、guaca-huaca(古墳)、guasca-huasca (革ひも)という規範によって許容されている異形があるにもかかわらず―、 異なった意味を有する /huello(目/足場)、 /huero(赤毛の/空の)のような存在のゆえに、辞書にもとづいて、スペイン語では/gw/と/w/とを区別するのである。しかし対立の諸形式はまったく異なったことばに属している。

 一方ある対立は、同一の発話において所与のものとなるが、その機能負担量は実際的にはゼロになってしまうことがある。なぜならお互いに対立している諸形式は、同じ文脈や同じディスコースには現れないからである。例えばzueco-sueco(足の曲がった-スエーデン語), cebo-sebo(給餌-脂肪)の場合がこれにあたる。また語は音素的構成素によってだけではなく、他の手段でも区別されることがある、 それで -/j/ が に融合すると、事実pollopoyo, hallahaya, が混同されることになる。しかしながらこれは抽象的にのみ生起するといえるだけである、というのはこれらの語は、具体的にはその異なった連辞的連合によって区別されるからである(15)。 

【訳者注: /huello, /huero について: :アストリア地方や、高地アラゴン地方で‘目’という意味、huello:標準スペイン語、‘足場’、また、 :グアテマラ・メキシコで‘赤毛の’、huero:標準スペイン語‘空の’という意味であり、辞書に記載されているので、対立しているように見えるがそれぞれ異なった地域で使用されているため、混同が起こることはない。】

 

4.2.3.それゆえ、「音声変化は弁別的対立を尊重する」という見方は、 まさに制限付きで理解すべきである(第3章4.4.8参照)。実際に生起することは、他のどんな体系的変化と同じように音声変化は、Edward Sapirによって駆流(drift)または《偏差》(16)と呼ばれるような性格を獲得するということである。 これは、言語は体系的に創造されるということ、 または、言語的創造において体系的目的とは、 一般的体系的目的が特有の体系的目的を止揚すると同様に、特定の弁別的目的をも止揚するということを言わんがための単なる比喩である。 ある変化が現実にある重要で不可欠な対立に作用するという場合には、他の特有の変化によってその困難さは解決される、 つまり語は派生や語彙的改新とか意味的拡張によって、区別して保持される。 それでスペイン語のcama(<camba)がcama(寝床)と混同されるような時には、 前者のその意味を考慮してpierna(脚)にとって替わった。 またラプラタ流域では、cocer(煮る)がcoser(縫う)と同一になってしまうとcocinar(料理する)に替えられる。 広範な体系的なものについて言えば、ある要素が体系から消失するずっと以前に、その機能性においてそれと交替しうる要素は、 すでに言語の規範の中に存在しているといえる。

 母音の音量が、(弁別特徴としては)ラテン語の体系より消失するずっと以前に、強弱アクセントや、徐々に表面に現れてくる母音の音質の違いはすでにラテン語に存在していた。 ウルグアイのスペイン語の語末のsを落す発音において、この子音はその形態的な機能を、母音の音質と音量という相関関係に交替せられている(17)。言い換えれば、この/s/は現実の発話において、 語末の母音の閉音的音質 や、母音の音量(a:)として現れる。もしある場合に、これらの現象と語末の-sとの選択の可能性についての意識を失っているとするなら、音質と音量は、アンダルシア方言において起きているように、自動的に固有の音韻的価値を獲得するようになるであろう(18)。 なんらかの方法であらかじめ補修されていないような不安定なものとか、 その不安定なもののための調整の可能性が存在しないような言語は存在しない(4.3参照)。

【訳者注:cama<cambaの変化が起こると、cama(ベッド、寝床)と 同音異義になってしまうので、前者のcamaはpierna(脚)で代用するようになった、 とする記述がある。このcamba>camaなる変化のcambaの意味は何であったのか、を調べてみると、 色々と問題点があり、長くなるので別頁を設け(cambaの語源)、検討の経過を記録する。

  • (cambaの語源)をクリックすると該当頁へ:現在製作中 '01/07/30】

     

    4.2.4.機能負担量の違いについて言及している上記のことは、無効な対立とか小さな機能性しかない対立は、必然的に消失すべきであるということを意味するものではない。それらは、文化的規範によって無制限に保持することができる。そしてその正当性は、体系の中、例えばそこに含まれている特徴の機能性の高いものの中においてすら見いだせる(19)。それでイタリア語で/dz/-/ts/の対立は、ただ孤立した語において機能しているだけであり、典型的に辞書的なものである。 例えば/ra-dza/-/ratsa/, といったものである(他の という語の場合には、/dz/-/ts/が唯一の弁別的なものではない)。それでこの対立は、/z/-/s/(これはイタリア半島北部や南部では無視されている)よりも、規範においてはよく保存されている。なぜなら有声と無声の対立は、 イタリア語のあらゆる閉鎖音や破擦音で機能しており、摩擦音においては機能しておらず (イタリア語は、 / / を知らない)、/dz/-/ts/の対立は、母音間の位置においてのみ存在する/z/-/s/という対立のように、語において定められた位置というものを持っていないからである。

     

    4.3.1.言語体系において変化によって作られたいわゆる不安定なものを調整する恒常的可能性は、新しいものと旧いものが言語では、長期に亘って外延的のみならず内延的に(《変種》や《非機能的様式》という形式として)共存するということによる、言い換えれば、すでに述べたように変化の条件の1つは変化それ自身であるという事実によるものである(2.4参照)。言語と発話の関係についてのSaussureの有名な立言を敷衍して、―言語間の採用とか、何もない所からの(ex nihilo)偶発的創造といった場合を除外して― 《前もって規範に存在していないようなものは、体系に現れることはない》、また逆に、規範によって実現された長期に亘る選択による以外に、機能的体系からなにも消失することはない、と言うことができる。一方規範(実現された言語)におけるあらゆる交替は、体系にすでに存在しているなんらかの可能性の歴史的具体化としてのみ所与のものとなる。

     

    4.3.2.これに関して文法的な例は、より明白であり、 音声的な例よりも文献に残っている。しかし物事が、音声的側面とは違った別の手順で 生起することはない、ということについては疑問はない。 それでmagisを用いる比較法は、現在スペイン語や他のロマンス語で有している価値を 獲得する以前に、ラテン語では文法的《異形》(等機能的様式)であった。 事実、magisを使う比較法は、-eus, -uusで終わる形容詞ばかりではなく、 《形容詞化された実詞》(magis amicus:より親しい)や2つの質的な 比較のため(magis prudens quam sapiens:賢いよりも注意深い)や、 また動詞や数詞を用いる比較の表現(magis quam quadraginta:40以上)のために、 古典期のラテン語ですでに存在していた。そしてまた、副詞をともなう任意的異形としても存在し ていた(magis audacter:より大胆に, キケロ)。 所謂俗ラテン語において起きたのは、magisと語尾変化による比較(ラテン語の文法体系の迂説的様式の 発展的是認と合致して)との間での、選択による規範の段階的交替であった。 長期に亘る選択の後に、はじめてmagisは少なくとも発話において許容される唯一の比較法となり、 《異形》ではなくなったのである。つまりこういう風にして、体系に変質が起こったのである(20)。すでに冠詞は、たいへん近い価値をもって使用されていた 指示詞illeが(例:ubi veniemus ad illam aeternitatem我々がその永遠なるものに向かわんとする時,聖アウグスチヌス参照)、同じような手順による変質によって本来の冠詞となった。その変質の時期には、《それ》というためにilleと言わずに、例えばeccum illeと言っていた。deを使用する構文は、属格が消失する以前に、迂説的表現に好都合な選択のゆえに、ラテン語では属格の連辞的異形であった。そして古典ラテン語においてこういう構文は、しばしば属格を用いる構文と同じ機能を有していた、例えば:signum de marmore:大理石の像, aetas de ferro:鉄の時代(オビディオ)、fama de illo:彼の評判, unus de illis:彼等の一人(キケロ)。またad を用いる構文も与格の異形として機能していた(21)。また完了形や未来形の迂説的動詞の形態は、俗ラテン語で本来の時制の価値を獲得するずっと以前に、相、または叙法的価値をもっていたということが知られている。例えば、habeo absolutum(シーザー)、dictum habeo (キケロ)、habeo pactam sororem meam(プラウト)、haec habui dicere(キケロ)。

    スペイン語でhabia + 過去分詞は長く-ara, -era (gritara, saliera)という最も旧い形式の1つの異形であった。しかし-ara, -eraで終わる形式が(条件法の構文で使用されるようになり)、接続法になると、この異形habia+過去分詞は直説法の大過去形の体系的な唯一の叙法としての価値を獲得することになった。逆に-ase, -ese (gritase, saliese)で終わる形式は、 接続法の不完了形の体系的叙法を前にして、同じ理由から、異形となった。そして今日これらの形式は、あまり用いられなくなっている一方、-ara, -eraで終わる異形が多く用いられるようになっている(22)。

     

    4.4.1.《不安定性》の永続的な別の条件は、実現された言語体系すべての内的な矛盾によって形成されている。実際、規範はしばしば余剰な実現体や範例的軸で正当化される実現体(しかしこれは連辞的な面では有効ではなくなる)を要求している。そしてこの範例的一元性という理由によって、体系に対立する実現体すら要求することがある。それで具体的なもののうちでは、連辞的なものと範例的なものの恒常的衝突が存在している。ある意味で、発話においては機能的に必要なもの以上のことが語られているのである。

     

    4.4.2.等機能的形態素が蓄積さえた場合に(体系においてではなく言連鎖において)何が起こるのかについて考えてみよう。例えばラテン語では前置詞の使用によって格語尾変化は、多くの場合無効なものとなってしまった。そして実際にこのことは、語尾変化の進行性の機能的弱化の主要な理由であった。スペイン語では、範例的一元性(つまり今日、語の《個別性》の規範と呼ばれているもの)は、(名詞においては数をすでに示しているので)機能的に余剰的である場合にも、冠詞の複数形を要求している。 事実、スペイン語の語彙的単位は、 ss, , sblという音結合を有していない、しかし発話において、冠詞はそれに続く名詞と共に1つの音声的語を形成するので、こういう音結合は複数形の 冠詞が前に置かれ、 語頭にs, , bl のくる語の場合には不可避的に現れる。例:los senderos, las llanuras, los bloques。こういう言連鎖によって、sの前にあるもう一方のsが落ちるようになる、 そしてこれがアンダルシア地方やラプラタ河流域の語末のsの消失への第1歩であったのだろう。また , , sj, sx,s+2つの子音という連鎖は珍しく、複合詞においてのみ所与のものとなることに注目すべきである。srは珍しく、こういう音結合の場合には、rは実際的には語頭音として取り扱われる(原音素/R/はこの場合[rr]として表される)。

     

    4.4.3.同じような考え方が、逆の意味でもできる。つまり言語において、 範例的なものと連辞的なものの間の衝突が論証されず、また範例的なものが最も小さいものに縮小されているとすれば、これは相対的安定性の1つの条件を構成しているはずである。

     

    4.5.1.最後に言い添えておけば、あらゆる言語体系の構成要素のダイナミックな相互依存性(これは言語の不安定性の恒常的な条件である)は、実現されたどんな体系の内的矛盾とも関連している。それゆえ、あらゆる変化の他の類推的、相関的変化の動機であるか、または動機たりうる。

     

    4.5.2.この相互依存性は、まず最初に言語の記述において境界が 引かれる部分的諸体系の各体系(音声的、文法的、語彙的)の要素間の連帯性として理解される。一般的には新しい機能的要素の措定は、別の同じような要素を形成するのに有利に働き、また逆に機能的要素の消失は、同じタイプの他の要素の弱化させるように働くと云える。例えば俗ラテン語の破擦音の場合を考えてみよう。これは確かにすべて同時的に現れはしなかった。また同じ俗ラテン語の格変化の進行的弱化を考えてみよう。

     

    4.5.3.言語の音声的様態間のダイナミックな 連帯性の原理は、よく知られているように、Jakobson(23)によって設定され、特にMartinet(24)によって精査され世界的に評価されるようになった通時音韻論の基礎である。それでこの通時音韻論によると、プラーグ派の音韻論者は青年文法家に帰因するとされる所謂《原子主義》に対立すると解されている。しかしながら、多分この前述の原理は、最初に青年文法家のうちの理論家と目されている学者Hermann Paulによって表明されたということを忘れるべきではない。「あらゆる言語には、音体系のある種の調和というものがある。それである1つの音が転じてゆく方向は、他の音の方向によって制約されていなければならない」(25)。また一方では、通時的構造主義以前またはそれと関係なく、同じ原理が1902年に刊行されたVendryesの論文(26)、またGrammont(27)によって公式化されている。

     

    4.5.4.上記の相互依存性は、 もっと広い意味で言語体系全体の連帯性と解することができる。このことを理解するために、 言語は「すべてが張り合っている1つの体系」(28)、であるというMeilletの有名なテーゼを思い出そう。確かにこのようなテーゼは、種々の体系や規範を含んでいる歴史言語に関しては留保をつけずに受け入れることはできない(第2章3.1.4参照)。またこのテーゼは、ただ《機能的言語》にのみ適用可能である(第2章3.1.3参照)。しかし機能的言語に関しても制限が必要である、なぜなら言語体系においては、 その不安定な均衡を示すあい矛盾する可能性が常に存在しているからである。一面からすると、これは同語反復的テーゼである、つまり最終的な分析では、単に《体系は体系である》ということを意味していることになるからである。即ち《体系とは、まさに相互依存的要素の総体を意味する》、とは言ってもこれは重要で有益な同意反復である。というのは言語においては、自律的で非伝達的な分野(しばしば文法記述の時に現れるような)は存在せず、音声的なものや文法的なもの、語彙的なものの間に緊密な連帯性があるだけである、という事実に注意を向けさせるからである。通時的眺望からすれば、 このことはこの3つの側面でのどんな変化も体系全体に反映するということを意味している(29)。そしてまさに言語体系の諸要素の相互依存性は、一致によるばかりではなく、矛盾によっても形成されているからこのことが重要なのである。まず第一に一般的体系的目的性と、特殊的目的性との不一致によって(第3章4.4.8参照)、このような矛盾はある面からの《構成せん》とするものと、別の面からの《衰微せん》とするものによる相互作用により、あたらな《調整》が必要となってくるということである。

     

    4.5.5.それで例えば東部ロマニア諸言語の語末の-sの消失は、 複数形を2つのタイプ(-e, -i )に縮小させたばかりではなく、第3人称と混同されたであろう動詞の 時制の第2人称の変化語尾-i (イタリア語chiami, vedi, ルーマニア語chemi, vezi)を拡大させた。同様に(機能的条件に関連して)ラテン語の文法体系でおきた他の色々な交替を説明できる。この中には連辞的未来形の迂説的形態との交換がある。表現性の視点からすると、古典ラテン語において未来形はすでに不完全であった。そして4つの種類の語尾活用において、まったく違った2つの活用法を形成したことや、第3,第4活用の第1人称の接続法現在形が合致してしまったことになり、体系的視点からすると奇妙なものとなってしまったのである。それでこれは体系の《弱点》を作ったのである、しかしそれが存続することを、なにも脅かしはしなかったようである。俗ラテン語ではしばしばwbが混同された、そしてこのため未来形のある形態(amabit, ambimus)と 直説法の過去形のある形態(amavit, amavimus)の混同がおきた。 一方 eへの移行や母音の音量の消失は、結果的に第3, 第4活用の未来の形式と同じ動詞の直説法現在の形式(dicet-dicit)の混同を引き起こした(30)。このことすべてがhabeo, debeo, voloをともなう迂説的表現との交換を促進させ(しかし決定させたのではない)、同時にこれは《現在から見た未来》を意味するので、意図とか強制という特有の表現的要求に対応させるようになった(第5章4.2参照)。同時代的に見ても直説法の完了形は、混同をおそれて、しばしばhabeo+過去分詞という迂説的型と交換せられている。しかし-en, -bisで終わる未来形の完全な消失や完了形の活用で-w-が落ちるのは、この時制の再生を許した。この時制は、現在なお大部分のロマンス語方言で用いられている。

     逆に新しい弁別的可能性は、新しい文法的可能性でもある。ルーマニア語でひとたび 《音韻化》された の対立は、語彙的区分 ばかりではなく、文法的区分のためにも役立ちうる。それでモルグボの下位方言で[robi](男のスラブ人達)と[roabi] (女のスラブ人達)が、 の対立だけによって区別されている。そして文法的なものも、たしかに音声的なものに影響している。ラテン語の語末の(特に -m)子音の消失や、(弁別的特徴としての)母音的音量の段階的消失は、文中での名詞の機能を区別するために 前置詞の使用を要求した( <棒で、dat.奪格>の代わりにcum hasta<棒をもって>)。しかしこのことを逆に言うこともできる、つまり前置詞の使用は活用や音量の機能的弱点を内に含んでいた、と。つまりこれは随伴的で相互依存的な過程ということである。そしてこれはたいへん一般的である《類推》というケースを加えることができる。例えば古代カスティリア語の語末母音の無声化による消失(naf, nuf, verdat, homenax)、や語末-eの脱落は、上記の語の複数形における有声音の存続(naves, nubes, verdades, homenajes)によって、単数形のnave, nube, verdad, homenajeが複数形のモデル、また単数/複数という対立のカスティリア語の体系的規準と合致して再形成されたのである(31)。

     

    5.1.言語の体系規範の間には、変化の一般的条件として、文化的および機能的に見て合致しないものがあるあることを見て取らなくてはならない。

     

    5.2.実際、言語知識の視点からすると、体系についての知識量と規範についての知識量の間には、恒常的不一致が論証される。規範についての知識量は、文化のより高い段階をさし示している。そしてこれは可能なもの、つまりその機能性に影響することなく、言語において言いうる範囲を示すばかりではなく、実際に言われたこと、また言ってしまったこと、つまり伝統的実現体をも暗に示している(32)。体系は、規範よりもずっと先に学ばれる。子供は、それぞれの特定の状況における伝統的実現体を知るずっと以前に、《諸可能性》の体系を認識する。そしてそれから生ずる規範に対立する子供達の《体系的創造》 (anduve, cupeの代わりに、 , )は、より年齢の高い人によって常に訂正される。

     体系と規範の間の文化的不一致は、一般的に2つの帰結をうむことになる。第1に、所謂《体系的創造》と呼ばれるタイプの改新は、その数が多くなり伝統が弱まった文化的後退期または縮小された言語文化の社会で、大いに伝播する可能性がある。第2に、言語は、変化に好都合な文化的環境では、他の言語より変化し易いと、先験的に言える。

     体系に対する規範の明白な優越性、言い換えれば機能的に可能なものに対する伝統的に実現されているものの優越性、というものが存在している言語がある。このような言語は相対的に単純で規則的な構造の言語、例えばフィノ・ウゴル諸語、特にトルコ語である。一般的にこれらの言語では、伝統的な実現体はそう重要ではない。決して以前実現されなかったものでも《トルコ語において可能なものは、トルコ語である》としばしば言われる。しかしながら、大部分の印欧語のように、複雑で一部は変則的な構造の言語においては、このようなことは起こらない。それらの言語では、体系はある同一の状況において種々の可能性を示す、一方規範はそれらのうちのあるものだけを要求するのである。それでスペイン語で、rendimiento(敬意)- rendicion(降伏)、remordimiento(悔恨)- remordicion, volvimiento-volvicionという同じような3つのペアーの内、規範は最初のペアーでは(異なった価値をともなうが)双方の可能性を許し、第2のペアーでは最初の語の可能性を認め、第3のペアーでは(revolvimiento:かき回すこと、を許すけれども)どちらも使われない。印欧語のようなタイプの言語において、言語的伝統が不安定な状況にあるときには、《規則化》へ向かう大幅な変化、言い換えれば体系が規範に大幅に反して適用されて変化する可能性が常に存在している。これはスペイン語で大部分のラテン語の《不規則変化》動詞や、古代カスティリア語から古典カスティリア語に移る際の完了形や強分詞に起きたことである。

     

    5.3.類似の不一致は、《内延的》視点からすると規範と体系の間に存在している。(音声的に)弁別的なものにおいては、体系がまさっており、有意味的なもの特に文法的なものにおいては、規範がまさっている。そしてこのことは、一般的に2つの帰結を暗に意味している。つまり音声的なものにおいては、余り使用されない形式は変化によって影響を受けずにいる(例えば学識者のサークルで使用されていれば)、これに反して文法的なものは、より使用される要素、つまりよく知られた要素では(33)、旧い規範(例えば不規則動詞)が保持される。

     

    6.体系的で文化的な《諸要素》は、変化に対して改新の選択素として機能していると言える、つまり言語的自由の条件と限界として、言語を形成したり再形成したりする仕事を行う。発話において論証される多くの改新のうち、あるものだけが機能的体系の可能性や必要性を尊重し、個人間の言語知識の好都合な条件に合うので採用され伝播するのである。言語変化は、常に規範の《交替》として始まり発展してゆく。しかし規範が交替せられるためには、それが機能的に適切なものであり必要性のあるものであるか、規範が無視されるか、または規範を無視することが言語の機能性(相互伝達)に影響しないということが不可欠である。言語は、伝統的知識であるので知識の一般的弱化の時期には急速に変容せられる、しかし変容は体系の機能性にその限界をおいている(34)。言語は機能的体系であるので特にその《弱い場所》つまり体系そのものが話し手の表現的、伝達的必要性に有効に反応しない場所で変容せられる。しかし《必然的》変容は、伝統の安定性にその限界をおいている。厳格な文化的規範は、《平衡を欠いた》体系ですら保持してしまうことがある。それで体系的要素と体系外的要素は、変化の条件であり、かつ変化に対する抵抗の条件である。そして言語的《進化》のリズムは、その弁証法的役割、言い換えれば機能的に必要なものと文化的に許容されているものの間の一致または不一致やこの2つの系列の要素のどちらが優勢であるかに依存している。

     


    第4章の注

     

    (1)言語の存在様式のゆえに、これらの限定は一方では、ことばそれ自身の限定でもある、このことは、はなし共同体全体の視点から考察される時にのみ限定となるということである。この限定がなければ、変化は所与のものとならないだろうとする考えは間違っている、というのは、言語は話されることがなければ変化しないということを、このことは意味しているだけだからである(第1章2.2参照)。

    (2)勿論、《変化》の動機とはなりえない生理的要因は除かれる(第3章2.2.3および第3章注16を参照)

    (3)[Linguistique historique] I.pp.17-18

    (4)M. Merleau-Ponty ("Sur la phenomenologie du langage". p.94)が達した解釈を参照。『それで、言語を横断的断面で考察するなら、 それは体系であり、勿論言語は発展途上にあるものとしなければならない。また別の面からすると、通時態は共時態を包含している。縦断的側面より考察すれば、言語は偶然を許容しており、共時態の体系はどんな瞬間においても、粗野な出来事がたまたま入り込むような亀裂といったものを伴っている』。彼は《偶然》や《粗野な出来事》を問題としているのではない(これに関しては、かれはSaussureの概念を採用している)。《改新》は、瞬間的必要性や偶然的可能性に対応しうる、しかし《変化》は、ただ必要性や一般的可能性に対応しているだけある。

    (5)このようにして、2つの言語(例えば、サンスクリット語とリトアニア語)は、文化的に正反対の理由により保守的な言語にどどまりえたのである。

    (6)V. Pisani, [Geolinguistica e indeuropeo], Roma 1940,p.170を参照。

    (7)こういう意味で、外国語の形式のまま使用されるただ1つの外来語は、限られた場合に限るが《2言語併用》である。

    (8)言語間の接触や2言語併用について設定される種々の問題を詳細に研究するのは、筆者の意図するところではない。これについては、Terracini, [Conflictos de lenguas y de cultura],Buenos Aires, 1951や、U.Weinreich, [Language in Contacts],New York, 1953を参照。後者の書は、特に構造的視点から2言語併用について取り扱っている。しかし言語間の接触の色々な問題については、はば広い参考書目があげられている。言語変化の条件としての2言語併用について、S.Puscariuの重要な考察を参照のこと、[Limba romana],ドイツ語訳、[Die rumanische Sprache, Ihr Wesen und ihre vookliche Pragung], Leipzig, 1943,p.24以下。在来の語と外来語との交替について語る際に、Pi?cariuは採用の真実の《原因》は、2言語併用ではなく、交替させられた語の機能的弱さであると考えている(246頁)。このことは大部分の場合には、確かである。しかしこれは《原因》について言及しているのではなく、言語的自由が直面する現実のシチュエーションの《条件》について言及しているのである。

    【訳者注:Weinreichは、神鳥武彦訳「言語間の接触」-その事態と問題-、岩波書店 1976年の翻訳あり。また最近スペイン語で出版された最新の言語接触について論じている諸作としては、Marius Salaの[Lenguas en contacto]Madrid,1998がある。参考書目はp.325-403と膨大なものがあげられている。】

    (9)M.Merleau-Ponty, "Sur la phenomenologie", p.95を参照、「共時態というものは、通時態に対する1つの横断面でしかないのだから、そこに実現されている体系は、決して完全に顕在化したものではなく、いつも潜在的または潜在的な変化を含んでいるものである」。(訳者注:訳文は「シーニュ、II」,p.137より)

    (10)「Cours」,p.157:122

    (11)E. Alarcos Llorachは、/j/はカスティリア語の現行の体系的構造における不均衡な点を示している、とする([Fonologia],p.150)参照。

    (12)これに関しては、W.Vasquez, "El fonema /s/ en el espanol del Uruguay", Montevideo, 1953を参照。

    (13)H. Frei, [La grammaire des fautes],Paris-Geneva-Leipzig, 1929,p.32.彼は特有語の改新は、必ずしも《間違い》でもなく、《不正確な》形式でもないとしている、そしてこれは体系的に必然的な創造として取り扱いうるものであるとしている(第3章3.2.1および注38を参照)。言語体系の《不完全性》については、A. Meillet, [Esquisse d'une histoire de la langue latine],5ed. Paris, 1948,p.234を参照。

    (訳者注:Frei, 小林英夫訳「誤用の文法」みすず書房 1973年)

    (14)Martinet, "Ou en est la phonologie?", 《Lingua》,I,p.55.V.および[SNH],pp.66-67; [Forma y sustancia],p.69を参照

    (15)G. Bottiglioni, "La geografia linguistica (Realizzazioni metodi e orientamenti)", 《Revue de Linguistique romane》,XVIII,p.151. 彼は同音異義語は、話し手には必ずしも我慢のならないものとは、ならなかった、としている。事実、同音異義は、(構造主義は変化の条件としての同音異義を評価しようとする時には、言語地理学に接近する)、同じ意味的環境に属している時にのみ、やっかいなものとなる。一方、同音異義の許容度は言語によって異なる。B. Trnka, "Bemerkungen zur Homonymie", TCLP, IV, pp.152-156を参照。同音異義の概念についてもっと厳密に知るには、R. Godel, "Homonymie et identite", CFS,VII,pp.5-15を参照。

    (16)[Language],New York, 1932,p.160以下を参照。《偏差》としての解釈は、駆流(drift)の概念にもっとよく対応しているものである。そしてこのことは、J. Mattoso Camara JRの最良のポルトガル語訳に現れている、[A Linguagem], Rio de Janeiro, 1954,p.148以下。

    (17)W.Vasquez, "El fonema /s/", pp.6-8を参照。同じ事が、よく知られているように他の色々なスペイン語の地域的な方言に見られる。

    (18)T. Navarro Tomas, "Dedoubleent de phonemes dans le dialecte andalou", TCLP, _VIII,pp.183-186,および"Desdoblamiento de fonemas vocalicos", 《Revista de Filologia Hispanica》, I.pp.165-167を参照。この同じ事実を研究した最初の論考として、E. Alarcos Llorach, "Fonologia y fonetica (a proposito de vocales andaluzas), 《Archivum》,VIII,pp.193-205を参照。

    (19)E. Alracos Llorach, [Fonologia],p.107を参照。

    (20)通時音韻論の《音韻化》fonologizacion, 《脱音韻化》desfonologizacionと《転音韻化》transfonologizacionという概念との類推で、変質一般は、肯定的、否定的、転移的変質(mutacion de transferencia)のどれかでありうる。

    【訳者注:Jakobsonの[Principes de phonologie historique]<Trubetzkoyの[Principes de phonologie315-336に所収>の319頁にdephonologisation, 321頁にphonologisation, 324頁にrephonologisationの用語がある。それぞれの訳語としては、通常は、音素化、脱音素化、再音素化と訳されている。気が付いてものでは、[Emperical Foundation for a Theory of Language Change]の翻訳(山口秀夫、言語史要理、153頁で、“「新音素化」(rephonologization)”としているものがある。このrephonologizationをスペイン語では、transfonologizacionと訳している(例:Alarcos Llorachの[Phonologia Espanola]等)、しかし一方では、rephonologizacionと同じ、としているものもある(例:[Diccionario de linguistica], Ramon Masso, etc.edited,1986)。スペイン語圏ではtransfonologizacionが一般的のようである。理由は多分、Jakobsonの下記の記述により、re-の代わりにtrans-を使用したものと思われる:<Il y a trois types de rephonologisation: I)La transformation d'une paire de phonemes correlatifs en une disjonction; II)La transformation d'une disjonction en une paire de phonemes correlatifs: III)La transformation d'une paire appartenant a une correlation en une paire appartenent a une autre correlation.>p.324と思われる。それでtransfonologizacionの訳は、「転音韻化」とした。】

    (21)同様のことが、現代ルーマニア語で証明されている。ルーマニア語では前置詞laをともなった構文は、与格と同等である、それで、la un copil, la copiiは、しばしば、unui copil, copiilorと同じ価値で使用される。

    (22)別の例としては、[SNH],pp.64-66を見ること。

    (23)"Remarques sur l'evolution phonologique du russe comparee a celle des autres langues slaves"(=TCLP,II),Prague, 1929,および"Prinzipien der historischen phonologie", TCLP, IV,1931, 仏訳"Principes de phonologie historique", これはTrubetzkoy, [Principes],pp.315-336に所収。

    (24)[Economie des changements phonetique, Traite de phonologie diachronique], Bern,1955を参照。Martinetは、この書で通時音韻論の一般的基盤と原則を設定し、以前の書いた一連の特殊研究を再録している。

    (訳者注:スペイン語訳あり、[Economia de cambios foneticos, Tratado de fonologia diacronica],Madrid, 1975)

    (25)[Prinzipien],p.57. たいへん似たやり方で、G.von der Gabelentz([Die Sprachwissenschaft],p.191)は同じ原則を公式化している、「例えば例外のない規則ではなくても、人は原則として採用し、言語の音転移に際しては、ある一定の首尾一貫性が支配し、規則は音を転移させ、類似の運命を作り出す」。またB.Delbruckは、音変化の間のある種の相互関係を認めている、「精神物理学的メカニズムによって、ある変化が他の変化を自分の方へ引き寄せる(例えばkの変化が、gの変化を引き寄せる、というように)のは、まったくありそうなことである」([Die neueste Sprachforschung],p.17).

    (26)"Reflexions sur les lois phonetiques", p.4。しかしVendryesのこの論文は、この原則を別とすれば、言語の不明瞭な傾向、一般的改新というような神秘主義の表明である。

    (27)「1言語の音調の総体は、事実すべてが張り合っており、あらゆるものが厳密に依存しあっている体系を構成している。もし1つの変容が体系の1部で生起するとすれば、体系は相互に緊密なものであらねばならないので、体系全体に作用するような変化となる」([Traite de phonetique],p.167).これに関して、Grammont が引用している例は、もっぱら構造的なものである。またp.156で彼は変化の体系性は存在していない《言語の傾向》に帰させようとするが、これはまったく受け入れがたい。

    (28)[Linguistique historique],I, p.16.

    (29)R. Jakobson, "The phonemic and grammatical aspects of language in their interrelations ", [Actes du Sixieme Congres International des Linguistes], Paris, 1949, Rapports, pp.5-18を参照。

    (30)W. von Warturg, [Problemas y metodos], p.163: V. Bertoldi, [La parole quale mezzo d'espressione], Napoli, 1946,pp.259-260: A. Pagliaro, [Corso di glottologia],I,p.163, および[Logica e grammatica],p.20.注1:B.E. Vidos, [Handboek tot de romaanse taalkunde], 's-Hertogenbosch, 1956,pp.185-192を参照。【訳者注:スペイン語訳あり、[Manual de Linguistica Romanica] Madrid,Aguilar, 1968】一方,C.H.Grandgentは、[An Introduction to Vulgar Latin],1907,スペイン語訳[Introduccion al latin vulgar]2ed.Madrid,1952,p.98で、ラテン語の未来は、「ラテン語後期に発音では、直説法、接続法現在と混同されかけていら」としている。/b/と[w]の合流の効果について、J.Mattoso Camara Jr.[Uma forma verbal portuguesa], Rio de Janeiro, 1956,p.30を参照。

    (31)このタイプの例として、E.A.Nidaに言うように[Linguistic Interludes], Glendale, 1947,p.149),「類推は、全体として一般的構造と平衡を保っていない言語のその部分に作用する」。別の例では、類推は特有の体系的可能性を実現することがある、この可能性はより一般的な他の可能性と矛盾していることがある。例えばoigoはスペイン語においては類推的形式である、しかしこのことによって《全体として》スペイン語の動詞の構造と合致しているわけではない。

    (32)体系規範との区別は、ある点まで北アメリカの言語学が、英語の複数の-sという生産的パターンと、ox-oxenという《固定された》または《限定された》パターンの間に設定した区別と似ている(E.A.Nida,op.cit.p.146)。われわれにとって、規範とは《化石化されたもの》のみを含むのではなく、伝統的言語実現体において共通になり、すでに定着しているものをも含んでいる。このことは、体系が実現体の《諸可能性》や、機能的基準や限界、つまり言語行為の技術そのものを含んでいる限りそうである。ox-oxenの場合、規範の事実としての形式が、oxenという形式であるということではなく、(機能的可能性としては、oxesよりも体系性が劣るということではない)、伝統的な実現体はoxesではなくoxenである、という事実である。

    (33)H.Paul, [Prinzipien],p.227の観察を参照。

    (34)厳密な意味で、Saussure正統派の人、つまり通時的構造主義に反対し、偶然的変化に賛同する人たちですら、少なくとも言語変化に対する体系のこの《否定的》役割は認めている。例えばA.Burger,([Phonematique et diachronie]p.32)は、「一般に、言語進展における体系の役割は、本質的に否定的、保守的である。これは相互理解の妨げにならない改新に対して自由な分野を残す、つまりこれは相互理解を妨げるものを阻止するものである」、と言う。

     

    第4章 了

    2001年8月2日