第6章

因果的説明と目的論的説明
言語変化に対する通時的構造変化
目的論的解釈の意義

 

1.1.前章までで明らかにしたことによると、言語変化は機能的および文化的な用語でのみ説明されうる(動機づけられる)、しかし変化の文化的または機能的説明は、決して《因果的》なものではない。所謂ことばの《発展》における因果律という観念そのものは、言語を《自然有機体》としてとらえる、つまり言語活動(言語)に限定される《法則》を見出したり、言語学を物理学と同類の《法則科学》にしようと夢想する実証主義者の旧来の概念の残滓である。

 

1.2.このうちのいくつかは、また抜きがたい矛盾として現代の構造主義者、特に通時的構造主義に目を向けている学者の間に残っている。かれらは、言語の機能的概念は久しく研究されてきた変化の《原因》を解明するのに貢献するだろうと信じているようである。それで例えば、Haudricourd&Juillandは、《原因》の概念と(変化の)条件の概念を同一視し、そして《体系の平衡》への傾向とか、《因果的(条件的)説明の汲み尽せない源泉》(1)である弁別的対立の保持の傾向を、《原因》と考えている。この二人の学者は、音声的変化を《動力因》と呼び、あらゆる変化は言語の構造に固有な要因によって条件付けられているという事実を、《目的因》と呼んでいる(2)。同様に、E.Alarcos Llorachは、―生理的、《歴史的》(ことばの混合)のような― 《外的要因》また、内的要因(体系の変化に対立する抵抗)などを《原因》と考え(3)、黄金時代のスペイン語の具体的な例に言及する際に、彼は基層の影響を《外存的原因》と呼び、体系の弱い場所を《内存的原因》と呼んでいる(4)。Martinetは、注意深い表現ではあるが、通時的構造主義は、少なくとも音声変化の《原因》のいくつかを見出したと考えている(5)。

 

1.3.これらのすべて、またはその一部は、用語上の問題である。しかし、構造主義はSaussureを受け継いており(しかし残念ながら、もっと的を得ており実り多いSaussureの他の概念に目を向けていない:第7章1.1.2参照)、SaussureはSchleicherより受け継いでいる(第2章1.3.2参照)自然科学的観念への固執である(6)。それで構造主義による言語変化の問題の解明への貢献と価値と意味を調べる前に、―不可避的な繰り返しという危険をおかすかも知れないが―、因果律的なあらゆる態度のうちの抜きがたい誤りを明らかにする必要がある。加えて術語は、単に伝統的なのではなかったということを知っておかなければならない。つまり術語は、文化または人間科学の一般的欠陥に対応する立場を明らかにしている。これらの科学は、自然科学と同定されるには至らなかったこととか、所謂《実証的方法》のみを使用するにはいたらなかった、という事実がその欠陥としてしばしば考えられてきた。しかし実際の欠陥は、逆に、物理科学と人間科学、自然科学的方法と社会科学的方法の間の 不十分な境界設定のうちにある。すでに示したように(第4章1.1参照)、言語学が、変化の問題を設定しようとする際に出会う困難さは、大部分極端に自然科学にモデルをおいた人間科学の方法論的不十分さによっている(7)。このほかにも、夙に広まっている物理的信条は、われわれをして、実際の経験の《背後》に別の世界を追求せしめるべく習慣づけ(諸現象の世界を正当化している)、この世界の多くの部分的事実の累積または物理科学の道具の使用によって、明らかにされうると信じさせるような習慣をもたらした(8)。一般に諸事物や諸現象の《背後》または《下部》には、何物も存在していない。加うるに、言語活動の場合には、単に《世界》が取り扱われるのではなく、人間によって作られ知覚された人間世界が取り扱われるのである、つまりその世界においては、実際の経験に属していないようなあらゆるものは、文化的側面では機能することなく、なんらの効力も有していない。それであらゆる人間科学と同様に、言語学ではその基盤は、人間が自己自身について有している《本源的知識》であり、 またそうであらねばならない(第2章4.2参照)。

 

2.1.言語変化に対するあらゆる因果律的態度に共通している2重の間違いは、この問題の3つのレベル混同や、―または少なくともこの内の2つの混同(言語の変動性のレベルと、発生的に考察された諸変化のレベル、第3章1.および第4章1参照)― この問題を外的因果律の用語で設定しようとする事実による。言語は因果律的意味で《原因》を有しうる現象であるかどうなについて、あらかじめ問題を設定しないで、事前に原因を有しているはずであるとされるのである、そしてここから《原因》の熱心な探求が始まるのである。このような探求は、―獲得せられた諸結果の不適切な公式化であるが―、確かに変化の《条件》に関しては無益ではない、しかし言語の変動性や変化の現実的動機付けに関しては無益なものである。その意味でこういう探求は、何ものをももたらさない、なぜならそれは矛盾しており非合理的だからである。しかしそれにもかかわらず、変化の《原因》の探求は正当であるかどうかを質す代わりに、因果主義は探求はまだ不十分であり、今後も探求を続けなくてはならないと考える。それでそれについて明確にし、排除してしまう代わりに、あるものを別のものと取り違えるという一連の間違いを結果として招来することにより、この混同は保持され、かつ強化されることになる。

 

2.2.1.この混同によるものの内で最も奇妙な側面の1つは、言語変化はただ発生的にただ1つの原因を持っているはずであるとする仮説に立脚して探求を行っていることである。作用(変化)が1つなら、原因も1つであるべきであると考えられている、そしてこういう信念を、《同じ原因は同一の作用を生み出す》という原理に基礎づけようとすらすることになる。しかし厳密に云うと、この原理は可逆的ではない、というのは、同じ作用は種々の原因によって生み出されうるからである。第2にただ1つの原因の探求は、物理科学の分野ですら、まったく不当な方向に向かうことになる。実際、言語変化は発生的レベルにおける唯一の現象ではない、唯一なのは、変化するということ(言語は変化するという事実)である。しかしこの事実は、発生的なものではなくして、普遍的なものである、それゆえ発生的説明を有することはありえない。さて自然界における発生的説明に注目する物理科学においてすら、普遍的変化の《原因》について問うことはなく、ただ変化のあれかこれかの限定されたタイプの原因について問うだけである。AがBに変化する(例えば水が水蒸気に変わる)ことの発生的原因を探求するが、しかし同じ原因がAがC, D, E....(例えば水を氷に、水を酸素と水素)に、またMをNに、PをRに変化させるとは考えていない。このことはつまり普遍的現象の単純な発生的原因を探求することはできないということである。言語変化の《その原因》は何かという質問は、《対象はどういう形式を有しているか》という質問と同じであり、それは丸いか、または四角いと答えようとすることと同じである。もし普遍的事実としての変化が、外的原因をもちうるとしたら、これは少なくとも同じ序列、言い換えれば普遍的原因に属するものでなくではならない。逆に発生的レベルにおいては、変化は複合的現象である、それで探し出そうとするものが原因を持っているときには、ただ1つの原因を持っているだけということはない。

 

2.2.2.言語変化の発生的レベルと、歴史的レベルの混同は同じように残念なことである。特定の歴史的事実としての言語変化は、普遍的、発生的に説明されるだけでなく、その特有性においても説明されるべきものである(第5章4.2.8参照)。歴史的に限定された変化の発生的説明だけを与えるということは、家は《火が木材を燃焼させるので》燃えたというようなものである。このことは発生的視点(または自然科学に固有な視点)からは正確である、しかしこれは燃焼の(特定の)歴史的原因については、何も語っていない。

 A.Sommerfeltは、まったく合理的に次のように云っている、 「歴史的因果律と自然科学が用いる因果律の間には、 根本的な違いが存在しているので自然法則に対応する歴史法則は存在しない」(9)。 そして言語的事実は、それが歴史的事実である限り、《一般的》説明を有することはなく、 特定の説明を有すると付け加えている(10)。歴史においては、一般化されうるのは確かであるが、 しかし歴史的な一般化は《形式的》なものであり、《物質的》なものではない、つまり言語変化の場合には、 これは変化の方向や条件や発生的様態にかかわっているのであり、 その特有性にかかわっていない(11)。文化的または体系的に限定された条件下で、 あれこれの一般的タイプの変化(つまり教養ある規範の外延化、借用、 範例の規則化、体系の《弱い場所》の止揚)が起こるということを設定することもできる。しかしたとえば、 /a/は/o/に変化するということを設定することもできる。しかし逆に、 異なった言語や歴史的に異なった時期に起きた変化の物質的同定は、 その歴史的《原因》の同定を意味しない、というのは、 言語変化は自然的《作用》ではないからである(12)。 物質的に同一の2つの歴史的事実(たとえば、異なった言語または同じ 言語の異なった時期での[λ] の[j]への変化)は、ことなった歴史的説明、 または対立する説明をすら有することがある。この原則の無理解の例として、 A.Burgerがある、彼は、証明されうる文明的違いを考えに入れずに、 口蓋化現象に関して、スラブ語で物質的に同じ事実が存在しているという議論でもって、 東方のラテン語と西方のラテン語の文化的レベルのちがいについて疑問をていしている(13)。 実際に生起するのは、俗的な事実と、より文化的事実との対立は歴史的であり、 特定的なものであるということであり、自然的でも発生的なものではない。 俗的というのは、同じ言語の中で考察された、あれこれの口蓋的調音ではなく、 教養ある規範が ki を要求している 共同体で、 と発音するという事実である(14)。物質的に同じ事実は、ある共同体では《教養的》で、 ある別の共同体では《俗的》で、また第3の共同体では《中立的》でありうる。 ある共同体では、f を h と発音するのが俗的であり、 別の共同体では逆に h をf と発音するのが俗的であり得る。さてもし 双方の共同体で f という発音が、一般化されたとするとこの2つの変化、―物質的に同じ変化―、はまったく 対立する歴史的説明をもつということになるであろう。またもし逆に、第1の共同体では f が一般化され、 第2の共同体では h が一般化されるとすると、―物質的には対立する― この2つの変化は、 歴史的に類似の説明を有することになるであろう。実際に歴史的説明は、歴史的に種々の異なった事実との 物質的な類推によって、その特有性について、確認することも、 また反論することもできない(15)。

 

2.2.3.言語 変化の原因の単一性という観念に対して、すでにM.Grammontは異議を唱えている(16)。彼は、言語変化の原因は知られておらず神秘的であるとする考え方を正当に排除している、そしてこのような観念は、変化はただ1つの原因を有しているはずであるとする信念によっていると見ている。しかしまず最初に彼自身が挙げている原因(人種、環境、土地、気候、最小努力、訂正されなかった幼児の間違い、社会的政治的状況の影響、流行)は、言語変化の決定的原因ではないばかりではなく、同一の序列の要因でも条件でもない(17)。第2に、Grammontは原因の単一性という観念が基づいている幻想を排除しない、こういう幻想は、原因を単に多く集めても排除されえないからである。さてさらにそうすることによって得られるのは、ただ別の同じような重大な間違いに陥ることである。発生的レベルにおいて変化の条件は多種であり、普遍的レベルでは、 その原因は実際にただ1つであり、変化の発生的条 件に還元することができないないのは確かである。言語の変化の原因の単一性を支持する人は、変化の発生的レベルを普遍的なものと解釈する(2.2.1参照)。Grammontは、逆に普遍的なものを発生的なものへ還元しようとする、しかしそうしても別の意味でではあるが、混同はなくならない。実際にもし普遍的レベルと発生的レベル、合理的因果律と経験的条件、内的因果律と外的因果律を混同し続け、変化の所謂《原因》と称されるものをふやすだけでは、何ものをもえることはない。加うるにGrammontは、音声法則は《自然的原因》を有しているであろうし、これは言語の所与の状態の不可避的結果であろうと信じている(18)。

 

2.3. 言語変化の原因の特性に関してはこれまで明らかにしたように、因果主義は、原因が自然的で物理的で なくてはならないだろうと仮定する不断の危険性の内にある。事実、因果主義は、容易に物理主義と混同される、言い換えれば、物理性のみを客観的と考え、物理的説明のみを本来的に《科学的》なものと考える姿勢と混同されている。しかし真実は、科学的説明は自然や研究対象の現実に対応している説明である。それゆえ文化的事実の物質的説明は、 科学的ではなく神秘的なものとなる。物理的諸科学は、成熟の時期に達している、そしてあらゆるアミニズム的迷信から自由となり、物理的事実を物理学的に説明、つまり説明されるべく説明し、膨大な情報を獲得している。一方、文化的事実を物理学的に説明しようとする逆の迷信は、文化的諸科学から放逐されていないばかりではなく、しばしば科学的であることの指標または規準と考えられている(19)。文化科学(言語学はこの中にはいる)を、物理科学を意味する《厳密科学》にしようという溜息がしばしば聞かれる。しかし科学は、物理的であるがゆえに 厳密であると云うことはなく、その対象の真相に 対応することによって厳密であるということは確かである。そしてこの原則は、物理科学より学ばなければならないことである。文化科学はこの科学に特有のタイプの厳密性を有している、そして(別のタイプの厳密性を有している)物理科学に文化科学を同化するということは、文化科学を《厳密》にするということを意味せず、逆に文化科学を非厳密科学つまり偽りの科学に変えるということになる。

 

2.4.1.最後に言語変化の原因を見出す可能性に関して、《勇敢派》、《慎重派》、《妥協派》の3つの典型的な因果律的態度を区別することができる。

 

2.4.2.勇敢派とは、言語変化の外的原因またはその原則的で唯一の原因をすでに見出したとする学者の態度である。この派の脆弱性はよく知られており、その理論的欠陥についてこだわるのは、あまり意味がない。というのは既に経験的観察は、変化の原因として示されているあらゆる状況において、変化がそういう状況にないのに起こっていたり、また逆にそういう状況があるにもかかわらずその状況が作用しないままであった例などを示しているからである(20)。一方このことはたいへん自然なことである、というのは、―この状況がなんらかの合理的意味をもっていたとすると―、(直接的または間接的)変化の発生的条件にかかわることになるからである、そしてすでに見たように、その条件は多種であり、それ自身では効力のあるものではない。

 

2.4.3 .慎重派は、言語変化の原因は知られていない、または《いままでのところ》知られていないということを認める態度をとる。こういう態度は合理的なもののように見える、そしてこれを受け入れる学者は、少なくとも原因でない原因を示すという間違いより救われる。しかしながら基本的には、これは前者の態度より間違いが少ないというわけではない、というのは多少とも神秘的な原因は存在するはずであり、発見することができるという信念を暗に意味しているからである。つまりまだそれを発見していないのは、ただ言語学の情況的欠陥であるとする。一面この態度は、普遍的なものと、単なる発生的なものを混同して、所謂《統合》は《分析》の向こう側になければならない、言い換えれば、理論は特定の諸論証の単なる一般化として事実の経験的研究の後からこなければならないとする最も一般的態度のうちの1つである。しかし真実は、本質的知識は具体的なものの中では、特定的または事実にかかわる知識とは同時存在的なものである、そして観念的にはそれらに先立っているものである。というのは、 特定的なのは、ただ普遍的なものへ統合することによって効果的に認識されるからであり、それゆえ明確なものであれ暗黙のものであれ、あらかじめ理論なくして事実の研究というものはあり得ないからである。そして文化的対象に関しては、直観的知識はそのようなものとしての対象の構成素であるので、必然的に(経験的研究に先立つ)第一義的なものである。事実、言語活動を経験的に研究する前に、そのようなものとしての言語活動を認識し、そして言語活動ではないものから区別するために(とは言ってもこれらは同じ物質的特性をもって提示しうるが)、言語活動とは一体何かを知る必要がある(21)。ある意味で普遍的なものは、たしかに物理科学において無視されている。しかしそれゆえに普遍的なものを仮定する必要があり、仮説の入る余地はない。物理科学において仮説に対応する場所は、人間科学においては人間が自己の活動や彼自身の創造した対象について所有する自然的知識によって占められる(22)。

 

2.4.4 .第3の妥協的態度は、言語変化の原因のいくつかは既に知られており、他の原因は今の所まだ知られていないが今後の研究によって発見されるであろうとする学者の態度である。こういう態度は、変化の条件や発生的様態に関しては確実なものである。そして用語上の訂正を加えて、もし変化の発生的レベルと普遍的レベルを混同しなければ、受け入れ難いものではないであろう。しかし実際には、変化の諸タイプの経験的問題と言語の変動性の合理性の問題を暗に同一視しているので、発生的レベルと普遍的レベルを混同している。事実、変化の条件を、変動性の《原因》と考え、そして部分的説明を集めることにより、別のレベルの問題でありまったく異なった性質の問題である変化の普遍的問題の解決に接近しうると考えている。これは根本的に、現象の各序列の普遍的問題とそれに対応する経験的問題の全体性とを同一視しようとする旧い実証主義的態度にかかわっており、《事実》の積み重ねや部分的な経験的論証によって、合理的問題の解決に達しようとしている。この態度はまた実証主義が、理論的問題を実証的に解決できない時や、それに関する仮説が崩れた時に申し添える習慣的で素直な弁解と関係している。つまり既知の諸事実はまだ不十分であり、探し求めている解答は、より多くの事実の知識によって得られるとする弁解である。もしそうすることによって実際に理論的問題の解決に導くことができるとすると、事実や経験的論証を積み重ねるには、なんの不利なものはないことになる。しかしこのような信念は、間違っておりまた矛盾している。例えば実詞とは何かということを設定するために、できるだけ多くの実詞を集めなければならないという信念(実詞とはどのようなものかを設定するためには、このようなことを行わなければならないことは確かである)は、間違っており矛盾している、というのは、というのはこういう操作を行い、その中に動詞や形容詞や他の異質の対象を含めないためには、まず事前に実詞とは何であるのかを知る必要がある。理論的問題を解決するために、事実を集めるという考え方は、暗に研究を押しとどめようとする反動的考えであり、彼らがそうしていると見せかけてるような理論をより強固なものにしようとすることとはつながらない。これは極端な場合には、科学的慎重さとしてそれをみせたがる理屈嫌いの人に典型的な態度である。一方この妥協的態度は、もし単なる論証以上の説明を提示しようとするなら、一貫性をもってそれを堅持しえない、なぜならは、あらゆる部分的説明は暗に説明の原理を含んであおり、それゆえ普遍的説明を前提としているからである(23)。

 

3.1.1.あらゆる因果律的態度やレベルの混同に対して、Kantによって明確に設定された《必然的世界》と《自由な世界》との区別を対立させなければならない。同様にあらゆる科学を物理科学に還元しようする新旧の実証主義者の公言された、または公言されていない意図に対して、自然的事象と文化的事象、または物理的科学と人間科学の間の根本的差異を対立させなければならない。このことは無論その対象にとってのみ適切なものである物理的諸科学に対する蔑げすみ、ということを意味するものではなく、その公理や方法(物理的記述に関することは除いて)は、文化的対象に適用できないということである。というのは文化的対象物にとって、厳密で実証的でまた実際に所与のものであり論証されるようなものは、ただ目的論的に動機づけられた自由や意図、発明、自由な創造や採用であるからである。自然の諸現象において外的必然性または因果律を探すということに対応するのは、文化的諸現象においては、内的必然性または合目的性を探すということである。それゆえ言語活動に関する(実証主義的ではない)実証的という本来の概念は、言語活動の自由や目的の領域に属しており、それゆえ言語的諸事象は、因果律的用語で解釈され説明されえないということを常に思い起こさねばならない。

 

3.1.2.それでその際問題となるのは、事象に関する2つの概念、―例えば《観念論》(または唯心論)と《実証主義》―、または同じように有意味な(または問題の多い)《2つの視点》を対立させることではなく(24)、根本的に異なった事象に2つの序列を対立させることが重要になってくる。それで形而上学的領域において自由に属する諸事象が、最終分析で必然性の序列に書き換えられうる(またはその逆)ということを支持したとしても、異なった視点、また説明の探求のために異なった方法を要求する異なった人間の存在様式や、その種々性を排除するものではないことを承知しておくべきである。

 

3.1.3.事象の2つの序列を区別せよという要求は、Ch.C.FriesのようなBloomfieldの流れをくむ人によって明確に提示されている。彼は、客観性ということを手に入れようとする努力は、その結果としてしばしば文化的なものと自然的なものの違いの議論に導いたとしている。「今日のわれわれの言語研究は、完全なものとなったと仮定することはできない、われわれの内のある人は、言語科学をまったく客観的にしようとする科学的努力を行う際に、われわれ言語学者は自分たちの科学を所謂自然科学との大きな違いを認識していないと感じている」(25)。Friesは、行動主義と機械論的概念に対する批判の中で、言語活動の物理的事実を研究するということは言語活動を研究するということを意味するものではないと強調している。「われわれは、多くの科学的方法によって発声音を研究できるし、またその音声が構成している振動を写真に撮ったり、音声がそれによって作られる筋肉運動を細かに分析できる。しかしこれらの音声に関するわれわれの研究が、ある言語共同体においてそれらの音声によって作られる結果としての反応(reaction)を含めないなら、われわれは言語活動の事実を研究してはいないのである。実際に表現している話し手を離れては、言語は存在していない」という要請である。「それゆえ、満足のゆく言語科学は、所謂客観的事実、つまり外的な物理的刺激にだけ注意を向けることはできない。最終的にはこれらの客観的事実は、言語の人間性の機能という視点から考察しなければならない」(27)。

 

3.2.1.もし自然の世界と文化の世界との根本的な違いを認識し、言語変化とは何かということを正当に理解するなら、―外的な必然的な能動的原因として解された― 変化の《原因》は、決して見つけ出されることはないし、さらにそういうものは存在しないゆえに、そういう意味でこれを見つけ出そうとするのは無益なことであり、不合理であることは明らかとなる。言語変化は確かに動機をもっている、しかしこの動機は必然性とか、客観的または自然的因果律の分野には属しておらず、目的性とか《主観的》または《自由》な因果律の分野に属している。発話とは、自由で目的のある行為であり、そのようなものとしての外的、自然的原因を有していない、それゆえ変化は原因を持つということはない。このことは単に、発話を介して言語それ自身を構成するということ以外のなにものでもない。言語に関していえば、それはただ言語知識として創造され継続している発話の様式として存在しているにすぎない。それゆえ、いかなる序列にある外的な因子も、話し手の自由や知性を介さずに《言語の上に》作用を及ぼすことはできない、また言語的伝統としての言語それ自身の中に変化の原因を見出すことはできない、というのは伝統は、自由に対して提示されている《物の状態》、言い換えれば自由が目的論的にその限界内で働いている歴史的な枠組みであり、継起的な各状態の原因となることはできない(または限定しない意味でなら原因となりうるであろう、例えば《物質的原因》として(3.2.4参照)。一般に、AとBという2つの《物の状態》の間に自由というものが挿入される時には、自然科学的意味で因果律的関係を設定することはできない。AはBの限定的《原因》ではなくして、状況とか自由が利用するまたは直面する条件といったものである、また一方BはAによって決定された《結果》ではなく、Aの再調整として自由それ自身によって創られた新しい条件である。言語の中においては、(唯一の能動的原因は話し手の自由であるので)変化の能動的諸原因も、またその《理由》(これは常に目的論的序列に属する)もなく、そこにあるのは話し手の言語的自由が働き、それを利用し同時に彼の表現的必要性によって変化する状況や道具的(技術的)条件があるにすぎない。体系の《弱い場所》というもの、―新しい表現的必要性に関する伝統的道具の技術的欠陥― は、変化の《原因》ではなく、言語的自由が直面し、そして《道具》そのものの創造的側面において解釈しなければならない問題である。我々にできる、そして行わなければならないことは、どんな方法であれ自由にとって外的または自然的《原因》を探求することではなく、あれやこれやの歴史的条件下で、自由によって実現されたものを目的論的に正当化することであり、また変化以前の言語の欠陥や可能性によって創造されたものが、どのようにして必然性または可能性として間接的に決定(限定)されているのかを論証することである。

 

3.2.2.プラーグ学派の音韻論の、―目的論的というよりむしろ― 《目的原因論的》確言以前に(4.1.2および5.1参照)、言語変化の目的論的序列の動機は、A. Martyや彼の弟子のO.Funkeによってすでに推測されていた。彼らは、このことについて、《手探りの選択》ということを云っている。

 H.Frei(28)は、この2人から同じ観念を採用している、そして彼は《無意識的》に活動している《盲目的目的性》というものの存在を信じている。「このような現象の内のある物は、一般に意識的体系的に操作されていないということは云うをまたない。われわれが設定する目的性は、どんな時にでも曖昧に、そしてメクラ滅法に働く無意識的で経験的な目的性以外のなにものでもない」(29)。しかしこういうやり方では《目的性》という概念は弱体化し、不明瞭なものとなる。このことは、個人間の言語つまり《平均的な言語》に目的性は反映されているべきであると考えると、よく理解できる、しかし本来的な意味で目的性とは、新しい言語事象の創造(採用)の各個人の行為に属していることとして理解しなければならない。個人間の言語においては、目的性はまったく判別しにくく、異質的なものである、というのはそういう状況下では同時にそしてまたいつでも、まだ交替していない旧い言語的様式や、種々の方向に向かう多くの目的論的行為の結果や、改新としての様々な動向の結果などがあるからである。しかしこれらは同じ意味で必然的に作用しているわけではない。また《無意識》としての目的性の性格づけは、受け入れがたい(第3章3.2.2参照)。この矛盾する性格付けが内に蔵しているなかで確実なことは、―特別な例、学術研究所の規範的仕事、文学・学術用語上の新しいことばの伝統的創造といったものを除外すれば―、目的性は表現的必要性に対して自然発生的、即時的に与えられるものであり、個人間の言語を変容すべく意図しているものとして与えられているものではないという事実である(30)。

 

3.2.3.Martinetは、音声変化の内存的条件の研究に新時代を開いた通時音韻論の重要な著作において、言語変化の動機の問題に関して、独自の立場をとっている(31)。彼は明らかに、それが果たしている目的性や因果律にかかわるのかどうかという問題の設定を無視し、次のように云う、「重要なことは、現象にある一定のラベルを貼ることではなく、過程を正しく解釈することである」(32)。しかし音声変化は目的性または因果律にかかわるかということを設定するのは、現象にレッテルを貼ることでなく、まさに正確または不正確な意味であれ、それを解釈することである。Martinetは、この問題を避けることによって、哲学に対する言語学の自律性を確信している、しかしこういう自律性は不可能であり、自律性があるとするのはそれ自身不当な解釈である。

 一方この不可知論の告白にもかかわらず、彼はレッテルを貼っている、そして彼は、まさに《原因》とか《内的因果律》ということについて論じている(これは不適当なレッテイルである、なぜならすべての機能的解釈としての彼の解釈は、現実には目的論的である)。まさに彼は、「意識が組織されるのは、因果的枠の中においてである」と確言している(33)、しかしこれは物理科学にとってのみ受け入れることのできるものである(3.1.1参照)。そして目的性の概念について次のような批評すらしている、「ここでKorzybskiの一般意味論から考えてみるのがよろしかろう、つまり民衆は明らかに、目的性とか目的原因論といった用語で意味内容を理解していない。これらの用語は、余りにも情意性がありすぎるので、これを科学的議論の場に持ち出すことに人は興味を示さないだろう」(34)。Korzybskiに言及したのは、Martinetの真摯でありかつ権威ある研究にとっては残念なことである。Korzybskiは、なんぴとにとっても研究の基盤とすることはできない、というのは、彼自身の理論はかなり脆弱であり、多くの補足を必要としている(36)。民衆が目的性という語の含意(connotacion)について一致していないという事実をもって、これを科学から追放すべきである、ということにはならない(AristotleやKantは、これをもっと抽象度の高い意味で使用している)。つまり真理は、《すべての人の同意》によって設定されるのではないということである。これに加えて、同じことが原因という概念についても言える。目的性という概念は、より多くの情意性を負っているとか、原因という概念よりも曖昧だと考える理由は何もない。逆に、目的性という概念は、より限定されているので、より厳密であると言える。

 

3.2.4.実際、目的性は動機付けの1つのタイプである。それによって作られ(作られるに至る)、または変容される、または破棄される(存在しなくなる)ものは、すべて《原因》であるので、この目的性というものは、《原因》という一般的概念のもとに入る。すでに知られているように、 アリストテレスは、4つの《原因》を区別している:
1)何ものかを為す、または作るもの(そのようなものとしての行為者、第一起動力または能動的原因[哲学では動力因])
2)それを使って何ものかが作られるもの(資料または物質的原因[質料因])
3)作られたものについての観念(本質または形式的原因[形相因])
4)これから何が作られるのかを考慮に入れるべきもの(目的的原因[目的因])

それで、目的性(目的的原因)は1つの原因である、もし《第一起動力》が、自由や意図が付与されている実体であるとすれば、目的性はまさに原因である。そしてこういう意味で、言語変化は《諸原因》を持っており、それゆえ実際にアリストテレス流の4つの動機を持っていると云っても、なんら矛盾はない。すなわち、新しい言語事象は、だれかによって(能動的原因)、何かをともない(物質的原因)、これから作られるものの観念をともなって(形式的原因)作られ、そして何かのために(目的的原因)作られる。言語変化は、《原因を有していない》と言うときには、われわれはただ自然科学的意味で原因を有していない、言い換えれば、―物質的なものを除いて― 言語変化は、客観的、自然的または自由にとって外的な《原因》を有していないと解するのである。われわれは、それ自身では正当である《原因》という用語の使用に反対するのではなく、この用語の与えている意味や、実際には原因ではない環境というものを決定的原因と考えようとする態度に反対しているのである。われわれは、言語におけるどんな事実も、継起的諸事実の存在の仕方を決定することはない、ということを見てきた、そして自由の範囲と必然性の範囲をはっきり区別すべきことを学んできた。現在の用語では、この区別はカント的なものである、しかしアリストテレスはすでに目的論的動機は、特別なタイプのものであることを何回も強調している。目的性がある時には、それは常に決定的なものであり、《第一起動力》がそれによって今作っているものを作る理由である。「目的があるどんなものの中においても、それ以前のまたはそれに続いて起きてくる諸状況は、この目的を考慮して作られる」(37)。そしてこれに次のことを加えている、「目的性のあるどんなものの中においても、物はある必然的条件なしに所与のものとなることはない」(38)。これについて、アリストテレスは家の例を挙げている、つまり物質やある外的条件がなければ、家は実現されないであろう、しかしながらこの物質や条件は家の理由(基盤)ではない。同様に、言語変化はある条件下で、所与のものとなるが、しかしその条件によって所与のものとなるのではない。言語的事象は、話し手が何かのためにそれを創造するがゆえに存在しているのである、そしてこれは話し手にとって外的な物理的必然性の《創造物》でもなく、また以前の言語状態の必然的不可避的結果でもない。新しい言語的事象の本来的に唯一の《因果的》説明は、自由が目的性をもってそれを創造した、ということである。他の説明は、その物質的起源や、改新し採用する個人の言語的自由を引き起こした条件についての説明である。

 

3.3.1.物質的序列の一般的原理を引き合いに出したり、また経験主義者のAvenariusや、G.K.Zipfによって変革され再び人間についての理論に導入された《最小努力》という旧い原因を引き合いに出すことはできない(39)。話し手は、つねに表現的、伝達的な目的を達成するために必要な努力をしており、聞き手は、必要な言語を創造(学習)している。確かにこの原理は、《道具的経済》(economia instrumental)(40)の原理、言い換えれば表現的手段の知的利用、および創造の原理として再解釈されるであろう。しかしこの時には、実際的知性の目的論的原理にかかわっているのであり(41)、伝統的手段の効果的利用における、より小さい《努力》を、または新しい手段の創造における、より大きい《努力》を暗に示している(42)。現実にこの視点より変化について言えることは、言語的自由は、効果的に言語を利用し、その有効性を保持するということである、 それゆえ言語的自由は:

A)体系によって許容されている範囲内で新しい様式を創造し(例、俗ラテン語の硬口蓋音)
B)機能的視点から実際的に無効になったものを廃棄し(スペイン語でのdz, z, の無声音化)
C)機能的に必要なものを強化したり (スペイン語の >xの変化)する。
最後の例において、伝達的目的性は、表現的必要性(これは無論また不必要性をも暗に意味する)と合致しているのではあるが、肯定的または否定的に作用しうるのである。

 

3.3.2.それで《道具的経済》の原理と解される《最小努力》の原理は、根本的に目的論的原理である、しかしながらこれには機械論的含意が付随しているので、技術的効果性の原理または表現的必要性の一般原理と取り替えるのが便利である。言語においては、弁別的なものは区別しなければならない、そして有意味なものは区別され、意味がなければならない。もし弁別的なもの(音素)が区別するのに役立たない(無用になる)とすれば、この区別は廃棄される、そしてもし有用であれが、しかし区別され得なくなると変容される。もしある能記(意味するもの)が、異なった所記(意味されるもの)をもった他の能記より区別されず、それを区別するのが必要であるなら、変容されるかまたは交替される。能記が何ものをも意味しないなら(たとえば意味される物の知識が無くなった時)、それは廃棄される。もし新しい所記が与えられれば、新しい能記が創造される。能記は色々なやり方で区別されうるのであり、その音素的構成によってのみ区別されているのではない、ということを忘れるべきではない(第4章、注15参照)(43)。そして伝統的規範は、機能的に余剰的なものをも長期に亘って保存することもある(44)。

 

3.4.1.それゆえ、言語変化は実際に、言語的自由であるところの唯一の能動的原因及び、話し手の表現的(および伝達的)目的性であるところの唯一の普遍的理由を有している。一方変化は、ある状況において、また表現的目的性のクラスやタイプに対応するような分類可能なモデルに従って、生起するのである。状況やモデルおよび目的性の一般的タイプを設定するということは、変化の《発生的レベル》に関する研究が行うべき仕事である。最後に申し添えておくべきは、本来的に歴史的側面において、これはある歴史的に限定されている状況下で活動しているあれやこれやの話し手の限定された目的性にかかわっているものである。

 

3.4.2.《主観的因果律》としての目的性は、内的経験によって主観的にしか知り(認識し)得ないというのは、これは外的に論証しうるようなものにはかかわらないからである。それゆえ、おのおの特定の例において設定すべき問題は、《なぜこのような変化が[どのような経験的・客観的状況において]起こったのか》ということではなく、《何のために[どういう目的で]ある一定の体系を使用し、あれやこれやの歴史的状況下にある自己が、AをBに変えたり、要素Cを放棄したり、要素Dを創造したりするのか》、ということである(45)。研究は、こういう風に行わなければならないというばかりではなく、現実に因果律的用語の影響によって、特定の変化の問題が巧みに、そして基本的に正しく設定されている各変化例において、そういう風に行われており、また行われてきた、と言える。客観的(体系的または体系外的であっても)状況は、変化を説明するところの存在理由ではないし、また存在理由でもありえない、としたとしてもこれは単なることばの置き換えということではない。客観的状況は、決定的要素ではないので、もし変化が起こらず目的論的原因が関与しないなら、それは《変化の条件》ではない。たとえばアリストテレスが引いた例のように(3.2.4参照)、家を建築するに必要な物質的条件は、目的性がそのようなものとしての条件を決定する前には、家の物質的原因ではあり得ない。それでMartinetがやっているように(46)、《能動的》と《受動的》要素の区別を排除する必要があり、一方情況的諸要素はすべて《能動的》であり、それ自身《中性的》であるということに固執しなければならない(第4章2.1.1参照)。

 具体的なものの中において、それらは表現的目的性のおかげで、《変化の要素》となるのであり、その逆ではない。客観的状況と新しい表現的要請の不一致は、確かに変化の必要性をはっきりさせる、しかし決定的原理、つまり変化の理由は常に目的性であり、言語が直面するものの状況ではない。それで体系の《弱い場所》というときでも、このような場所が体系内にあるから変化が起こるのではなく、その弱い場所を乗り越えるために変化が起こるのである。実現体において混同される2つの音素(しかしこの2つの音素の区別が必要であるとき)は、混同されるがゆえに変容されるのではなく、お互いに別なものとして保存するために変容されるのである。言語的自由は、ただ恣意的にまた気ままに作用することはない、言い換えれば、体系的または文化的状況にふさわしくない《偶然的》改新が普及する可能性はないので、これらの要素は、《自由が言語を改新する条件》として発生的側面では意味をもつのである(第3章4.3と5章2.4.4参照)。

 

3.4.3.勿論このことによって、どんな目的論的説明も正確であると確認したことにはならない。ある特定の目的論的説明(例えばわれわれの行ったロマンス語未来の説明)は、議論すべきことであり、また間違ってすらいるかもしれない、しかしだからと言って、この原理が間違いだということを意味するものではない。逆の本来的な因果律的、機械論的説明は、問題外である、というのはこれは正確ではないから、という理由によってではなく、その原則そのものが間違っており、意味を欠いているので特定の側面でそれを論ずることはできないからである(47)。

 

4.1.1.これまで述べてきたことによって、言語変化の問題設定と解決のための構造主義の貢献をかなり正確に評価しうる。しかしA.Pagliaroは、この問題の内存的複雑性を指摘し、「多分、構造言語学は、この問題を解決するための、またはそれに直面するための十分な資質を有していない」(48)としている。Pagliaro、―彼はわれわれの時代の最も鋭い、そして学識が深い言語学者の1人であり、普通よりずっと多くの哲学的知識や広範囲に亘る知的関心から得た価値についての正確な理解を自身の膨大な学識に統合している― は、構造主義が言語変化に向けた興味を無視していないということを前提とすれば、この彼の確言の包含範囲はどこまであるのか、ということを質問しなければならない。

 

4.1.2.構造主義が変化の問題を設定するには、まだ資質を欠いているということは、その歴史それ自身によって明らかにされる。事実、構造主義的音韻論は、1928年R.Jakobson, S. Karcevsky, N.Trubetzkoyらによってハーグの国際会議に提示された声明にその最初の萌芽がある(49)。その中で音声変化の構造主義的解釈は、新音韻論のプログラムの1つとされていた。そしてこの歴史的声明の後に、通時音韻論の花が開いたのである(50)。

 

4.1.3.たしかに、構造主義の広い分野は、この問題から切り離されたままであった(51)、そして構造主義の種々の貢献として、本来的な説明の原理を提示しえず、むしろ構造主義の用語で音声変化の単純な分類や再記述の原理を提示したにすぎない(52)。しかし、確かに構造主義の一部は、特にプラーグ学派の《フランス分派》とでも呼びうる人たちの仕事によって、音声変化の構造的説明や、少なくともこの側面での共時態と通時態というSaussureの二律背反を縮小しようという仕事に向かったのである。

 

4.2.1.通時的構造主義 ―これに先立つものとしては、まず最初にH.PaulやG.von der Gabelentzの行った他の学者とは飛び離れている観察や直観だけがそれに当たる(第4章4.5.3参照)(53)― は、諸事実の中に合理的必要性であったもの、言い換えれば言語の音声変化の間の相互依存性、または音韻体系のダイナミックな連帯性を経験的に設定、また記述、または明確化することに成功している。さらに音声変化は、言語の機能的体系によって条件づけられている、という意味で体系的正統性を有していることを明らかにした。そして言語的自由が、―表現的目的性に導かれ、そして体系の歴史・文化的(自然的に非ず)必要性によって誘導され、外的に決定されて― どのように伝統の中に組み込まれるのかについての様式を、部分的に明らかにし、そしてどのように伝統を改新したのかをも明らかにした、もっと厳密に言えば、どのようにして言語が形成されたのかを明らかにした。このようにして、エルゴンとしての言語の厳格な静態的概念より出発して、構造主義は言語を必然的に超越し不断に言語を再構成するエネルゲイアの歴史的ディナミス(潜在力)としての言語の現実的な理解に接近したのである(第2章2.2参照)(54)。そしてまた単なる共時的記述から出発して、構造主義は歴史に接近している。このことは、まさに対象たる《言語》それ自身の本質と独立しているわけではない(第1章3.1参照)。

 

4.2.2.しかし構造主義がこの問題を設定した様式には、その自然科学的伝道の重さを示す根本的な2つの誤りを暗に含んでいる、1つは、変化の一般的経験的問題と言語の不動性の合理的問題の混同、もう1つは、多くの部分的説明は、《何故言語は変化するのか》という問題を解決するのに貢献しうるという信念、しかしこれはすでに見たように、異なった序列または特性に関する問題にかかわることであるので、不可能である。第2に、変化の一般的条件やモデルの問題、つまり一般化され公式化された歴史の問題を設定しているのに、《原因》という実証的問題を設定し続けていると信じていることの誤り(55)。それゆえ、自由の側面にある問題が、必然性や外的因果律の側面へと移転されてしまっている。

 

4.2.3.さて、この最後の事柄は、単なる用語上のことから見るとしても、重大な危険性を含んでいる、つまりそれ自身によって、そして内的衝動によって発展する体系の決定論に陥るという危険性である(56)。極端な形の一種の《体系の神秘主義》は、《創造的民衆》の神秘主義よりも危険である。最初の創造的個人を見出すことができないときには、ある意味で文化的事実を、発生的に《民衆》に帰すことが正当化される(それで実際に、同じ事実を採用したあらゆる個人は、それをある程度創造したということになるということは、Saussureが言うように不合理なことである(第7章1.1.2および注10参照)。体系とは、変化がまず最初に表現的必要性によって、それゆえ内的にそして次に(または同時に)伝統的言語技術の可能性や限界や体系の欠陥によって、そして外的に決定されるようになるために、創造的自由があらかじめ考慮されなければならないところの何かである。

 

4.2.4.体系の決定論は、変化の瞬間の前にすでに言語に存在し、それゆえ正当づけを必要としない事実の物質性を、ある一定の時期の体系の内的必要性によって正当化しようという経験的には大変奇妙な幻想へと導いてしまうことすらある。こういう幻想の可能性については、レオン、カスティリア、アラゴン、カタラン方言の-ll-の口蓋化現象の問題を再検討するときに、R. Menendez Pidalが注意を喚起している(57)。A. Martinetは、イスパニア諸方言のlλの分布を、内的構造的視点から説明している(58)。さて、Menendez Pidalは、―彼の機能的な問題設定のしかたからして、こういう説明を否定しないが(この点についてはかれは非常に当を得た考えをしている、4.2.5参照)― イスパニアの子音(複数)と、南イタリアの現在の方言でこれに対応するものを関係づけた、そして問題の現象は、イスパニアのロマンス語の物質的事実として発現したものではなく、ラテン語方言のlambdacism【訳者注:r音をl音で発音する】に遡及するということを明らかにした(59)。

 

4.2.5.しかし方法論的議論では、Menendez Pidalはもう少し遠くの方を見つめており、現在の用語では留保をつけずには受け入れられない構造的説明と、歴史的説明との対立を設定している。実際彼は、あらゆる変化は(それが生起する体系の視点から)まず最初に《内的に》説明されなければならないとする《構造主義的公理》に対して、《言語の体系的構造にもとずく説明は、他の説明と同様仮説的であり、第一義的必然性または大いに真実性のある仮説と考えるべきではない》、という確かな考察を反論として申し立て、その公理を排除するばかりではなく、公理それ自身を逆にする必要があると考えている。そして次のように云う、「言語変化を前にして、まず歴史的説明の諸可能性を探るべきであり、それが説明的なものではあり得なくなった時に、言語の構造的有機体の中に見出しうる理由を求めるべきである」(60)。しかしこれは異論の多いところであろう。われわれの意見では、構造主義的公理は、逆にされるべきものではなく、単に排除されるべきものである、ということはこれは、ある意味で《伝統》と《体系》の許されざる対立ということを暗に含んでいるからである。言語はまず最初に体系であり、次に伝統なのではなく、またその逆でもなく、同時にそしてあらゆる瞬間に《体系的伝統》または《伝統的体系》なのである。それゆえ、問題となっている言語での現象の存在を知らないということは、《歴史的事実》としてそれを否認することでもないし、また《体系的事実》を否認するということを意味するものでもない。つまりその変容が説明されるべき歴史的な現実の体系からではなく、《仮説的体系》より出発するということを意味する。しかし一方、言語的事実の出所というものは、その有為転変を、またそれに関与してくる変化をも説明しない。また逆に事実の起源存在ではなく)について知らないということが、確実性のある構造的説明というものに決して影響するものではない。

 Menendez Pidalの方法論的議論より引き出される重要な教訓は、伝統的様式の単なる存続であるものを、体系の内的必然性によって決定された変化であると考える間違いを避けるべきであるということ、つまり構造的説明は、同一のことばにおいて連続性をなくすことなく保持された言語的様式が問題となる時には(言い換えればなんら変化が起きない時には)、余剰的であるということである(61)。しかしこの問題は、変化が実際に存在し、旧いまたは新しいにもかかわらず言語的様式の普及という問題に直面する時には違ってくる。もし普及するものが体系すべて(または方言)であるとすれば、歴史・文化的説明だけで十分である、しかし、もしあることばの特有の言語様式が、以前には知られていなかった別のことばに普及するということが問題となるなら、不十分である。この場合(この後者のことばの視点よりすると)、考察対象の様式の出所を指示するということは、その物質性においてのみそれを説明し、対応する最初の改新を《借用》として分類するということを意味する。つまりその出所を機能的様式として説明するためには、それが挿入される体系の構造への統合を正当化しなければならない、というのは統合というもの(これは最初の借用ということではない)は、本来的な変化であるからである(第5章3.1参照)。

それで例えば、俗ラテン語のある要素は、オスク・ウンブリア語を起源としているということを示すだけでは十分ではなく、それがラテン語の体系に挿入され機能するという可能性についても説明しなければならない。実際のと ころ、たまたまオスク・ウンブリア語起源であることが、 ラテン語としてのラテン的様式を説明することはないのである。このことはつまり、言語的普及とは、物理的拡張であるのではなく、また、その言語的事実の同定は、その物理性によってのみ設定されうるのではない、ということである、つまり逆に、異なった体系において機能している物理的に同一の言語的事実の間の非同定を確認できるだけである(このことは、同一の歴史的言語の諸方言においても同じことが言える)。それで《歴史的》(もっと的確に言えば文献的)説明と構造的説明は、排他的なものではなく相補的なものである。前者は、言語的事実の偶然的外的起源をしめし、後者は、考察対象の体系への当該の事実の構造的統合を正当化する。しかしながら上記のどちらも、変化を本来の意味で説明するものではない、というのは物質と体系の間には、一定の体系的条件下で一定の表現的目的性の実現のために、その物質を採用する話し手の自由が存在するからである。 変化の動機それ自身は、確かに文化的なものである、しかしその場合でも、体系への統合をも正当化しなければならない(62)。そして本来の文化的動機は、 《内的》つまり変化が起こることばの視点からは内的なものと解さなければならない。逆に、もし動機が《内存的》(厳密な意味で機能的、第3章注40参照)であるとしても、《外存的》説明は、暗に仮定されている言語様式の偶然的外的起源にかかわるという理由によって、必要なものであり続ける、それに加えて話し共同体におけるその普及の問題に関係してくるという理由で、それを暗黙のうちに了解しておかなければならない(第5章4.2.9参照)それゆえ、構造的および歴史・文化的説明は、いかなる意味においてもお互いにどちらが先行するものなのかというものではなく、特定の各変化にとっては必然的に相補的なものである。

 

4.2.6.このことを明らかにするために、言語史の問題と芸術史の問題との平行性を明確にするのは興味深い(63)。芸術の《発展》に関して(歴史的文化的形式を有するものの中で)歴史・文化的用語や《構造的》用語での説明が提案されてきた。それで、M.DvorakやK.Tietzeに代表される一派は、芸術の歴史を他の文化的諸形式と関連づけ、文化の一般史の機能の中で考察している。C.Fieler, A.Hildebrandや、H.Wolfflinに代表される一派は、内的必然性によって発展する自律的構造としての芸術的様態を考察している(64)。この一派は、―抽象的にはより高い位置におかれるであろうが―、いわゆる文学的ジャンルの歴史を《自律的有機体》であるとするBrunetiereの不穏当な意図を明らかに接触し合っている場合がある、また芸術家なしの芸術の歴史というものを提案するG.Lomazzoのようなルネッサンス研究の先駆者さえいる。また芸術を物質によって説明するということは、すでに前世紀にG.Semperによって企てられた。この3つの意図は、―本来的な意味で事実を説明しているものではないが― 明らかに危険性と誤謬を示している。芸術の文化的歴史は、あたかも文化的諸形式が決定的なものであるかのように、芸術(これは文化の1つの重要な形式であるにすぎない)を他の文化的諸形式の単なる反映と考える間違いに陥ってしまう。《構造的》歴史は、芸術の諸形式がそれ自身で発達することはない、ということを忘れ、発展の《必然的》方向は、それが効果的に実現された時にだけ認知される(存在する)ということに気づいていない。Semper流の自然主義は、目的性によってそのようなものとして決定される以前の芸術の《物質的原因》ではない外的な、また中立的状況を決定的なものと考える(3.2.4参照)。また同じことが言語学においても行われる。歴史・文化的言語学は、言語がすべての非言語的文化を反映しているということのほかに、伝統、構造、規範をともなう文化の本質的部分であることを忘れて、言語を言語外的文化によって決定されているものと考える間違いにしばしば陥いるのである(64-bis)。構造言語学は、因果主義や体系の決定論に陥る時には、体系的《必然性》は必然性であり、また変化が言語活動によって気付かれ超越さえる限りにおいてのみ、その必然性が変化の能動的条件であるということを忘れてしまって、《話し手のいない》言語の歴史を作ろうとしているということになる。そして実証的歴史主義は、説明と経験的研究を同一視し、変化の問題は、暗に仮定されている言語的様式の物質的起源を見出すことによってのみ解決されると考えている。

 

4.3.1.あれやこれやの構造主義者が、個人的におかす原理や見通しの間違い、また言語変化をもっぱら構造主義的に見る際にあらわれる危険性というものとは別に、通時構造主義は、すべての構造的研究が基づいている不可避的(そして必然的)簡素化のゆえに、内存的限界を示している(65)。

 

4.3.2.実際、言語変化の発生的または特定的意味において設定されている合理的なものに関する質問(体系のどこでどのようにいつ何のためにおきるのか)のうちで、構造主義は、特にどこでということに答えを与える。つまり《機能負担量》の少ない場所、体系が実現体の大きい幅を許している場所、体系の《不均斉》な場所(たとえば利用されていない弁別的特徴、または不完全な相関関係などにより)というようなものを探り出す。そして2つの継起的体系間の比較によって引き出された内存的機能的目的性にかかわる限りにおいて、何のためにということに部分的に解答を与える。そしてこの意味で、特定の変化のあらゆる効果的な構造的説明は、必然的に目的論的である(注47参照)、しかし厳密な構造主義は、体系外的な文化的条件とか、話し手のイニシアティブに依存しているところの文化的な理由、また変化の起こった時期に答えを与えることはできない。同様に、どのようにして起きたのかということに部分的に解答をあたえることもない。事実、構造主義はその前提条件上、歴史的言語の多様性を無視するのである。それゆえ通時的眺望において、変化を2つの限定された体系間でただ図式的にとらえようとするのである、言い換えれば、変化(改新の伝播)と変質(ある構造の他のものとの交換)を同一視し、新旧2つの構造が共存している時期の中間段階を無視する(66)。この結果、構造主義は、言語的自由の体系中への統合を教示するだけであり、多くの選択を介して(第3章4.4.6参照)、言語の《規範》において(第2章3.1.3参照)発展する統合の過程そのものを無視している(67)。

 

4.3.3.構造主義は、変化の具体的過程にかかわることができないので本来的意味で歴史的ではない。これについてOrtegaは、次のように云う、「歴史的理性は、事実を単なる事実としてとらえるのではなく、どのように作られたのか、またその生成中における事実を観察する」(68)。確かに構造的説明(動機)は歴史的であるが、しかし変化の具体的説明は、その動機によっては言い尽くせない。出発点(改新)と到達点(変質)の間には、《伝播》、言い換えればまったく複雑な歴史的過程である改新の個人的採用としての変化それ自身が存在している。このことは特に、スペインの言語学派によって明らかにされている(69)。加うるに、《一部方法論的要請、また一部自然主義的伝統によって》通時的構造主義は、その出発点を運動中の体系に置く代わりに、《すでに作られ》そして《平衡している》と仮定された体系に置く(第1章1.1参照)。それゆえ、多くの構造主義者は、運動それ自身を引き起こす機械仕掛けの神《(deus ex machina)《外的原因》を必要とする(70)。

 

4.3.4.こういう理由で通時的構造主義は、根本的にはSaussureの通時態と共時態の二律背反を超越することはできない。通時的構造主義がやっていることは、変化が体系によって条件付けられているということを示し、そして単なる物質的連続性によってではなく、その機能的諸構造間の対応によって一連の共時的諸体系を通時的序列に並べる、ということである。これによってSaussureの通時態の異質性と《原子論》は訂正され、通時態もまた体系的であることが示されたとする。しかし ―現実に対立していると見なされている― この二律背反そのものは、手つかずのままである。実際Saussureは、通時的側面において、共時的諸体系を無限の系列に切り刻むことができるということを否定していない。しかし、もしなんらかの意味で、言語の静態的観念を保持していたり、また歴史的言語を時間的に並べた《言語の諸状態》の総体と考え続けるなら、Saussureの二律背反は実際に超越できない。というのは、言語のありよう(つまり歴史的であり連続しているということ)と、言語の状態(71)、または一連の言語状態(これは根本的には同じであるが)との同一視を排除しなければ、二律背反は超越できない。

 

5.1.言語の現実についての見方において、Saussureの二律背反を超越しようという明らかに最も根本的な(しかし問題の多い)意志は、言語変化を《目的論的》概念によって考えようとするもののうちに見られる。この概念は、ハーグの国際会議へ提示した音韻論の提案者達の論文においてうかがえる(4.1.2参照)。その論文において彼らは、原因という伝統的な問題の代わりに、音的変化の目的性の問題を設定すべきであり、Saussureの、「言語はあらかじめ予定することはない」という命題に対して、言語変化はすくなくとも《体系に対して行為を行う意図》を有していると確言している。加うるに、青年文法家の立場を乗り越えるために、《音声法則》という概念を《目的論的》に解釈し、機械論を捨てることが必要であるとしている(72)。そしてこのことは、ほとんど同じことばで、JakobsonやTrubetzkoyによって繰り返し言明されている。後者の次の確言はこのことを、明らかにするのに役立つ、「音韻体系の発展は、いかなる時もある目的へ向かう傾向によって支配されている。そしてこのような目的論的な要素の存在を認めないと、音韻的発達を説明するのは不可能になる」(73)。

 

5.2.1.ごく最近、通時構造主義の中で、特にMartinetによって、この仮定された《目的論的要素》についての疑問が表明されている(74)、しかし彼は残念なことに、《目的論》を否定するとは、変化の目的論的解釈を否定し、これを疑問にふすことだと解している(3.2.3参照)(75)。しかしこれは正しくない、というのは本来的な意味で、―言い換えれば、主観的または自由な因果律としての― 《目的性》は、しばしば《目的論》ということばによって理解されているものとはまったく違ったものであるからである。実際、言語変化は、自由な活動による結果である限り、目的論的動機だけを有することができるのである。とは言っても、言語がなにものをも前もって考えず、また考えることができないというのは絶対的に確かなことである、というのは言語は主体ではないからである。

 

5.2.2.目的論的概念について、受け入れることと受け入れられないことを明らかにするために、まずその公式化の曖昧さから出発して、それに付与しうる意味を設定するのが大切である。事実TrubetzkoyとJakobsonは、《目的性》、《意図》、《目的論》、《傾向》という用語を無差別に使用している。そして彼らの言明を詳しく調べてみれば、この曖昧さはただ用語上のことではないことが解る。彼らは、《目的論》という語によって、《変化の目的性》というものを意味させており、さらに《目的性》は、青年文法家の《原因》というものとは明らかに対立し、《目的論》という用語で《機械主義》を乗り越えようとしているので、目的性は、目的論的な概念が基づいているところの確実な直観といったものでなければならない。この場合、目的性は言語的様式の採用のあらゆる個人的行為に固有なものと解さなければならない(3.2.2参照)、そしてだたこういう意味において、所謂《目的論》という概念は受け入れられるのである。しかしこれは、この概念の支持者が与えている解釈ではないようである。もしこれが目的論の本源的直観であったとすれば、逆に彼らの公式化においては、まったく方向が逸れた、不明確なものとなってしまう。そしてこの公式化は、混乱以上のものへと向かうことになる。

 

5.2.3.変化は、《体系に対して圧力をかける意図を有している》というのは、一見してたいした意味を持っていないようである。しかしこれは具体的に何を意味するのであろうか。変化は主体でも力でもない、そして体系は圧力がかけられるようななにかではない。これは明らかに1つの例である、言い換えれば話し手は変化に対して意図を持っていようが、彼らが創造する事実は意図を持たない。それゆえこの言明は、受け入れがたい。《体系に圧力をかける意図》とうものは、話し手によって経験されることはなく、また主観的に繰り返しのきかない意図というものは《客観的》に論証することはできず、また事実から帰納させることもできない(3.4.2参照)。それで神秘的で無意識的な意図というものを、話し手に帰すことはできない。こういう意味で言語は、《内的》体系(各話し手が自由にしうる技術的様式の言語的諸可能性の総体)、または《外的》体系、または《他者達の言語》と解することが可能である。しかし話し手は、彼の固有の言語的知識に圧力をかけることはなく、彼は単に自己の表現的必要性によって言語的知識を変容させるのである。一方話し手としての話者は、外的体系やほかの人たちの言語を変容させようという意図を有するものではない。《自然的》変化は、同じように実現され採用された多くの行為の結果であり、言語に対して作用しようという意図の結果ではない(3.2.2参照)(76)。この混同は、《超個人的》言語と、変化が起こる場所である個人的言語知識を明確に区別できないという事実に根ざしている。

 事実、言語を1つの体系に還元しようとするときには、《つまり多くの個人的知識を、これらすべてを代表する唯一の知識に還元しようとする時には(77)》変化は、必然的に採用の次元へと還元されてします。それで新しい言語的様式を、種々の個人的知識へ挿入するということは、超個人的という視点からは、《圧力》と見られるようになる、そしてこの体系の均斉は間接的に変容せられるという結果となる。しかしこれは、単なる事実にかかわることであり、意図的な圧力にかかわるものではない、というのは、意図というものは、超個人的体系という抽象的な面で所与のものとなるのではなく、具体的な採用の面において所与のものとなるからである。そして根本的に、そして言語の具体的現実という視点からすると、この言明はただ、採用が意図的行為であるということを意味しているにすぎない。そしてこのことは、実際機械論的ではない方法で言語変化を理解するためには、基本的なことであり、また現実的なことでもある(第3章3.2.2参照)。しかしながら、仮定されている外的《目的論》というものでもって、これを考えるべきではない。

 

5.2.4.しかし体系の調和への傾向として解された目的論において、何か肯定的なものを見出すのは難しい(78)。この目的論という観念は、《秩序それ自身であるところの目的に向かうように秩序づけられている》という意味で、目的論的体系という意に解釈できるであろう。さて、体系は調和がとれていると評価する純粋に客観的価値や、《傾向》という概念についての疑問は別として、《調和への傾向》という観念は、それ自身矛盾している。事実この仮定された傾向が、もし恒常的なものであるなら、なぜ体系を決定的に秩序付けてしまわないのかということが理解できない。または、機能的に動機付けられたある変化が、《調和》に反するように進み、実現される体系はあらゆる時期にわたって内的矛盾を示している、と認めなければならない(第4章4.5.4参照)。もしそうしないとすると、体系の自然的静寂を乱す《外的要素》という観念に再び陥ってします(第1章1.1参照)。この場合、体系を内存的に《静的》なものと認識することになり、共時態と通時態の二律背反は超越することができず、逆のそれを確認してしまうことになる。

 

5.3.1.しかし目的論的概念の原則的意味は、別のもののようである。それは、言語があらゆる時に一種の内的必要性に促されて向かうところの客観的、外的また事前に決定されている目的性ということである。Trubetzkoyは、《音韻論者の目的論》と、MeilletやGrammontによって採用されている《言語の傾向》という概念との間には親近性があると強調している。さらに彼は、《傾向》という概念は、《本質的には目的論的》なものであると言明している。そして同じ文脈で《あたかも内的論理によって導かれているかのごとく》英語の母音体系の発展を研究したK.Luickに言及している(79)。

 

5.3.2.もし客観的目的性が、現実的な事実であるなら、これは共時態・通時態という二律背反の(将来に向かっての)超越ということを意味する。それであらゆる時期に言語は、《現在あるものとは別のものに》なろうとする傾向があるということになる。しかし真実は、このような《目的性》は存在せず、これを仮定することはできない。客観的事実としての言語、話すということの歴史的技術としての言語は、何ものにも向かう傾向はない。一般に目的論的言明は、認識的価値を欠いている、それゆえ《客観的目的性》のような何かを確証できるものではない。すでにKantによって明らかにされたように(80)、―自然について言及する際に正当な形式を踏まえて― 目的論的判断は、客観的価値を有していない、というのは実際に対象そのものについて何もつげるものではなく、ただ対象に関する主体の態度を明らかにしているにすぎないからである、それで客観的目的性とは、対象の構成素たる断定的判断ではなく、反省的判断である。この反省、認識的態度の規範は、人間の必要性に対応する経験の秩序づけの原理である。実際人間は、合理的に自然界を理解するために、その自然界の中に《秩序》や《目的性》を仮定する必要がある。しかしもし自然界に関して目的論的判断が、たとえ認識的価値を欠いてはいても、《必然的信念》を表明するなら、文化界における目的論、―これも認識的価値を欠くが― は、必然性のない、そして正当化されえない信念となる、というのは人間は、自分が自由に振る舞っている場所に外的で神秘的で明示しえない《客観的目的性》を仮定する理由がないからである。実際、客観的目的性は、未来への投影された必然性以外の何ものでもない。そして‘言語の傾向’という概念は、疑いもなく《本質的に目的論的》である、それゆえこれは本質的に因果律的で、反合目的なものである。確かに目的論は、因果律的機械主義を超越しようとしている、しかしもし外的因果律が外的目的性と取って代わられ、言語に《傾向》というものを帰すならば、機械主義は超越されることはなく、かえって再確認されるということになる(81)。実際、言語の目的論は、単に因果主義の特定の一形式であるにすぎず、まさに《体系の決定論》を仮定する形式である(4.2.3参照)、言い換えれば、これは言語がそれ自身の内にその変化の《原因》を持っている(これは既に見たように理性的には不可能である)という観念である。そしてこれは、基本的には新しく改革された術語を用いているが、言語を自然有機体と見る旧い観念の新しい表現形式である。もし、傾向は体系にではなく話し手にかかわると正確に言ったとしても、本質的にはこのことは変わらない。それで体系の発展は、あらかじめ決定されているとか、《不可避的》なものであるとひとたび解してしまうと(2.2.3参照)、用語の間違った使い方は訂正されず、また話し手の自由というものは言語の内的必然性の単なる道具として見られるようになる。こういう意味で、目的論的概念は、エネルゲイアとしての言語活動の現実の否定であり、言語的自由の否定ということになる。というのは外的で事前に決定されている目的が、話し手に提示されていればその自由は、無用のものとなるからである。

 

5.3.3.上記のことより、言語には外的客観的目的性に向かう傾向があるということを意味する目的論は、否定せねばならない、ということになりその真性の目的性と区別しなければならない(3.2.1参照)。つまりこの2つのものは同じものであるどころか、正反対のものである。確かに目的論は、積極的な意味で話し手とは離れ、抽象的体系に移しかえられた言語的採用の目的性に言及しようとしている、しかしこのような転移はまったく正当なものではない、というのは目的性は、主体やその意図から離れている《事実》ではないからである。変化の《内的論理》に関して言えば、これは変化の過程(いかに変化するか)という《論理》にかかわるのであり、変化の理由(なぜ変化するか)という論理にはかかわるものではない、つまり変化の過程(その体系性)と変化の理由とを混同すべきではないということである(82)。

 

5.3.4.勿論、目的論的なものとしてここに示されている種々の確言は、客観的な効果を有することがある、しかしこれは正確な意味での《目的論的》なものではない。それが対象に関する普遍的なことや発生的なことを表明し、その対象そのものについて有している特有の経験を秩序つける限りにおいて有効なものである。それで例えばスペイン語は、話し続けられるのであれば《必然的に変化するだろう》と、われわれ言うときには、変化は言語一般の存在に必然的に属していると言っているにすぎない。同様に「言語においては、弁別的対立を保持しようとする傾向がある」、と言うとき、これは客観的《傾向》について言及しているのではなく、言語の本質的特性および構成特性つまり言語には、弁別的対立を示す傾向があるということを確認しているにすぎない。つまり逆に考えてみて、言語には弁別的対立をなくす《傾向》があると言うとすると、これは奇妙で不合理であることになってしまう、というのは弁別的特徴をなくすとは、言語であることをやめる、ということだからである。または《目的論的》確言は、一般的なことを表明していることがある、しかしこれは自由という範囲内での諸可能性に言及しているにすぎない(2.2.2参照)。本来的意味での特定的側面で《傾向》を確認するというときには、われわれはただそれと同じ側面ですでにわれわれが有している経緯を秩序つけているにすぎない。それでたとえば、「アメリカのスペイン語は統一に向かう傾向がある」とわれわれが確言するということは、ただ50年前よりも現在はより統一的であると言っているに等しいのであり、スペイン語はわれわれの論証できない外的目的に向かっているということ言っているのではない。同様に語尾変化を失う傾向にある言語について言及するということは、ただその言語についてわれわれが所有しているデータを、《目的論的に》秩序づけているにすぎない。そして客観性のあるものについてのこういった判断は、当該の言語において語尾変化の復活がまたすぐに確認されたとしても、否定されることはない。事実、特定なものに関するこの目的論的判断は、われわれが既に有しているデータを秩序つけるだけであり、まだ現示されていないものを秩序つけることはない。つまり客観的には、これは論証しているという価値があるのであって、先見性についての価値を有するものではない、即ち本来的な未来に言及しているのではないからである。

 

5.3.5.それゆえ、言語の特定の歴史に言及している目的論的確言は、単なる議論であるにすぎない。そしてこれを説明的なものとしようとすれば、同語反復であり、また意味を欠いたものとなってしまう。それで例えば、俗ラテン語では(迂説的形式への傾向)があるという確言は、古典ラテン語と比較してのこういう形式の大きな頻度の単なる論証であるにすぎない。もしこの確言が、《説明》として提示されるのであれば、これは同語反復であり、単に論証を繰り返しているにすぎない。そしてもしラテン語の言語体系によって追求されている外的目的に言及しようとしているのであれば、これは意味を欠いている。より広い意味で、Meilletの言っている《独立平行的発展》(83)は、疑いもなく理論的に可能である(84)。しかしその可能性は、同じグループの諸言語の傾向によって(また少なからず神秘的な《獲得遺伝的傾向》によって)正当化されず、類似の諸体系を考慮に入れ、類推的表現の問題に直面しながら、言語的自由は類推的解決策を見出しうる(一方まったく違った解決策を選択することもできる)という事実によって正当化される。平行的発展、《類推的傾向》によるという言明は、現実には説明ではなく、客観的にみれば、対応している事実の論証そのもの以上の価値を有するものではない。

 

5.3.6.同じ理由によって、言語変化を予測しうるという観念は、根拠を欠いている。一般に、未来は認識の材料ではなく、また先見性も科学の問題ではない。しかし言語活動の場合、上記の観念は、非合理的な望み、つまり話し手の表現は今後どのように組織化されるかを予め設定しうるという望みを暗に意味している。現実に、あらゆる先見性は、発生的確言である、つまりどの変化がある一定の条件下で起こるのかということをいうことである。歴史においては、一般化は形式的なものであり、特質的なものではないので(2.2.2参照)、既知のどのような条件下でどのようなタイプの変化生起しうるのか、を言明することが可能なだけであり、変化の実際の特有性は何であるとか、現実に変化が起こるとか、起こらないのかについては言明しえない。同様に継起的な2つの《言語状態》を比較することにより、どういう変化が現在起きているのかを論証できる。しかしこの変化が、将来も同じ方向に向かって行くということをわれわれに保証するものは何もない。

 

5.4.1.目的論(つまり言語の仮定された内的必然性)の問題は、言語変化の一般的法則の問題と密接に関係している。多くの学者は、そのような法則を設定しようという研究に向かっており、また他の多くの学者は、現在までに公式化しえた法則の不十分さについて不満を述べている。このことに関しては、次のMeilletの態度を典型的なものと考えることができる。「歴史的発展は、一般法則に従っている。言語の歴史それ自身は観察される法則性によってそれを明らかにしうる...形態的および音声的な一般法則の探求は、今後も言語学の主要な対象の1つでなければならない」(85)。法則は存在し、その探求は今後も継続して行かなければならない、しかしその法則は、必然性の法則ではないという《欠陥》がある。「これまでに設定されたあらゆる一般法則、およびまだ始まったばかりであるがすでに発見した研究成果として言えるのは、それには一つの《欠陥》があるということ、つまりそれらは必然性ではなく、可能性を示しているということである」(86)。これは欠陥ということであろうか。Meilletがほのめかしている法則の性格は、偶然的なものではなく、内存的で必然的であるとしている(実際今後発見され続けるであろう法則は、同じタイプのものであると彼は解している)。

 しかし彼は、《言語の将来の発展》を予見せしめるような別のタイプの法則をも求めている。「一般的な歴史的音声学や形態論の法則は、それゆえどんな事実をも説明するに足らない。これらの諸法則は、言語的事実の発展を支配している恒常的条件を記述している。しかしそれを完全にそしてあらゆる点におけるまで、正確に決定するのに成功したとしても、それによって将来の発展を予見することはできない。このことは、知識が不完全であることを示している。というのは、認知された色々な可能性の実現体を許容し、かつ誘引するような可変的な諸条件を発見するという仕事が残っているからである。しかし一般言語学の構築による進歩がどんなに決定的であっても、それで満足することはできない」(87)。

 

5.4.2.さてそれでは問題にぶつかってみよう。まず理論言語学とは交替できない《一般言語学》(第2章4.2参照)や、すでに発見した一般的法則というものにではなく、一般的法則の本質という問題に直面することなる。これは超越しうる欠陥というものではなく、本質にかかわる問題なのである。言語変化の一般的法則は、必然的に諸可能性の法則である、つまり言い換えれば変化それ自身は、その必然性の1つの側面である。それゆえ、これはまったく必然的法則、つまり言語活動の自由の法則に依存しているような何かである。確かに、問題の法則は変化を説明しない、しかしこれは変化の過程の法則であり、その理由についての法則ではないので、変化を説明しないということである。他のタイプの法則 ―本来的意味での因果律的法則― を、発見するのは不可能である、なぜなら言語変化は、自然科学的な意味で《原因》を有していないからである(88)。事実、言語活動において唯一の必然的な法則は、合理的必然性を明らかにする法則である、例えば、話されているあらゆる言語は変化する;あらゆる言語は対応する文化的世界に関しては《十分》なものである;あらゆる変化は改新の伝播である;あらゆる言語的採用は目的論的行為である;どんな言語的事実も自然的動機を有していない;とのような外的序列に属する要素も言語に直接作用しえない;等々ということである。これらの法則それ自身は、《言語的発展》は自然的対象の《進展》ではなく、文化的対象の構築物であり、それゆえ話し手の目的によってのみ動機づけられるのであり、外的または内的条件によって動機づけられるのではないことを教えている。これによって、変化の《条件》の経験的重要性は決して縮小されるものではない。つまり経験的側面で研究すべきことは、―この面では非常に多くのなすべきことが残っている― どのようにして一定の条件下で言語的自由が作用するのか、また言語活動であるところの人間行為の様態規範はどのようなものか、ということである。だれも言語は、どのように変化するのかを正確に知らない、そしてこれは大部分、注意がしばしば変化の原因という間違った問題に集中されているからである。

 

5.4.3.《未来の進展の予見》については、これは危険な幻影に陥っていると言える。《予見するために知る》(特に知ること予見することの同一視)というのは、Comteの実証主義の迷惑な遺産である。実際どんな科学も予見しない。物理的諸科学は、特定的なものを予見することはなく、経験的必然性の一般法則を設定するにすぎない。化学は、砂糖の塊は水に溶けるであろう、ということを予見するのではなく、《砂糖は水の中で溶解しうる》ということを設定するのである。つまり一般的に、ある条件下で生起することを示すのである。物理的法則の必然性の性質は、《予見》することの実際的仕事、言い換えれば一般的なものを特定的なものに適用するのを許容する。しかしいかなる科学も個別的なものの内の固有なものを、一般的なものから引き出すことを許さない。さらに人間科学においては、ある条件下で何が起こりうるかについて言うのが可能なだけであり、それが起こるか、起こらないかについて言うことはできなる、というのは、その生起ということは、外的必然性ではなく、自由に依存しているからである。われわれは、言語はどのようなものでなければならないかとか、言語であるためには、その言語に何が起こるのかを言うことはできるが、しかし限定された歴史的言語となるためには、何が起こるのかを言うことはできない、つまりこれは一般的なものから引き出すことのできないことだからである。しかしこのことは科学をおとしめることではない、というのは科学の発展段階は、研究対象の適合性や、発見した真理の数によって計られるのであり、その予言的能力によって計られるのではないからである。言語活動の場合に、このことについて、まだ不完全で不適当な認識しかしていないことを示しているは、予見することの不可能性ではなく、その不可能性を乗り越えんとするような願望である。実際この不可能性は経験的なものでも、偶然的なものでもなく、合理的はものであり、それゆえ乗り越えることのできないものである。つまりこのことは言語学の《不完全さ》によるものではなく、研究対象の本性それ自身によることである(89)。

 

5.4.4.言語学は、ある意味で法則の科学になるべき ではない、 また別の意味でその対象の本性は、そうなることを禁止しているので、法則の科学にはなり得ない。 言語学は、自由の領域で因果律的法則を設定するという不合理な意図を放棄すべきである。 それによって言語学は、厳密であることを放棄するのではなく、逆に人間科学として十全の厳密性を 獲得するのである。 人間科学はすでに《厳密》である(2.3参照)― 自然科学や数理科学が望み得ないある種の厳密性すら所有している (後者の科学においてのみG.B.Vicoの言う意味で、verum( 真なること)とcertum(確たること)が一致している)―  そして人間科学を物理的科学として取り扱うことによって人間科学を厳密にすることはできない。 加うるに、歴史的対象物の研究である限り、言語学は予言的科学を目ざすべきではない。

 


第6章の注

(1)[Essai],p.4-5

(2)ibid.p.8 こういう風に事柄を提示する際に、旧いそしてよく知られている単純な連続性と因果性の関係(post hoc, ergo propter hoc)の混同や、この二人の学者の《能動的》と《目的論的》という用語の混同を排除することによって、《音韻的》なるものとは違うと考えられるこの《音声変化》とは、一体何かについて質問しうる。実際もし《音声変化》が《生理的変化》と考えられ、または《自然的に》動機づけられた変化であるとすれば、《音声的》変化というものは存在せずまたは存在しえない。あらゆる音的変化は《音韻的》である、それゆえ、《体系》(弁別的対立)を変容させない変化は体系的正統性を有しているが、生理的正当性はない。

(3)[Folonogia espanola], p.100以下

(4)Ibid. p.220

(5)"Function, Structure and Sound Change", p.1-2, およびHaudricourt&Juillandの著書に対する Martinetの序文 p.IXを参照、「Saussureの教えを乗り越えようとする時には、言語構造は自身の内に固有の更新が貢献するのであろう原因の一部を有しているということを、明らかにするのがよいであろう」。これと同じ確信は、通時的構造主義に接近している学者の間で流布している。たとえばG.L.Guitarteの"El ensordecimiento de ?eismo porteno", RFE, XXXIX,p.271で、彼は「通時的音韻論によって、言語構造はその変革に貢献する大部分の原因を内に有していることを明らかにしている」、ときっぱりと断言している。

(6)一方、言語自然主義はSchleicherや哲学的実証主義の普及よりも以前に、その起源を有している。F.Bopp, [Vergleichende Grammatik des Sanskrit, Send, Armenischen, Griechischen...],3ed. I. vol.Berlin, 1868, p.III. (これは1833年の初版への序文)、 彼はそこで印欧「諸言語の物理的、機械的法則」を研究せんとしている。 またLautgesetzという用語については、Boppの[Vergleichende Grammatik] 1 vol. p.130を参照。

(7)例えば、人間についての諸科学は、煩わしくまた不適切な進化という用語と交替しうる適当な用語をまだ使うことができずにいる。文化的対象には歴史的発展ということはあるが、自然的対象としての《進化》ということはない。

(8)例えばBloomfieldは、音素を典型的な音の《恒常的特長》として定義し、そのようなものとしての特徴はあらゆる場合に論証されるわけではないということことに気付いているが、定義をあきらめたわけではない。そして彼は各音素に対応すべき特徴は、器具を使用して実験室で見出されるようになるであろうと期待している、 (W.Freeman Twadellの"On defining the phoneme", Ed. M.Joos,[Readings in Linguistics], Washington,1957に再録p.63)。しかしもし論証されないとするなら、問題とされているものが恒常的特徴であるかどうかをどのようにして知るのであろうか。こういう意味で、理性的問題を解釈することはない実験室からは、われわれは何も期待できないと言うのが正しい。音素の同定は明らかになんらかの別の根拠によって所与のものとなり、設定されるのであり、その代表物の間の物質的同定によるものではない。そしてこのゆえに、1音素の諸異形が共通であると同時に排他的な物質的特徴を示していない例があるのを指摘できる、つまりこれらの例は物質的同定以外の、なんらかの別のやり方を用いなければ論証できないということである。唯一の確実な解決法は、音素を物質的単位として定義するのではなく、価値ま たは機能の単位、 即ち《形式的》単位として定義することである(音素は常に物質化しうるけれども、 それぞれ 特定の場合に明確に決定しうる物質化の可能な形式的単位として)。 物質的な視点よりすれば、音素は価値の単位によって区切られた音的実体の音域である、 言い換えれば無限の音の連鎖がその中で機能的に同定される実体の区分けである。それでその物質性において 音素を考えるとすれば、それは《諸音声のタイプ》であるということになる、しかしこれはその機能によって決定せられたタイプであり、 単なる物質的な特徴によって決定せられたタイプではない。あらゆる言語活動におけると同様に諸音素において、《実体》ではなく《形式》は決定的要素である。経験的に言えばたしかに、1音素の諸代表物が恒常的特徴を示していることがある、しかしこれは音素が音素であるための不可欠なものではない。 一方実体的視点より見れば、音素は純粋な《否定的》単位である、 とかまたは言語の音素はその種々の実現体において、恒常的特徴を示していないとい うことを意味するものではなく、ただある音素は その恒常的特徴を示していないことがあるということであるにすぎない。そして別の音素がある恒常的特徴を示し ており、それでそれを示していない音素を間接的に限定するかぎりにおいて、上に述べたような可能性が存在する。 これについて、C.L.Ebelingの重要な著書、[Linguistic Units], The Hague 1960,p.29以下(および図3,4)を参照のこと。彼はこの著書で支持している考えと本質的に同じ音素についての学説を弁護している。またW. Haas, "Relevance in Phonetic Analysis", 《Word》,XV.1959, p.13をも参照。このことは、実体は《非示差的》であるとか(第7章2.3参照)、 ある言語の音素体系の記述において、 実体は無視しうるということを意味するものではない。それで音素の定義と、 その実体化に必要な(実際的な)条件を混同してはならない。

(9)Art.cit. p.120

(10)Ibid. p.122.これと同じことがSaussureによって明らかにされている(「Cours」、p.169:p.133)。彼は自然主義にたいへん近い考えかたをしていたけれども、言語的諸事実の歴史性を観察しなかったわけではない(第7章。1.1.2参照)

(11)無論、物質的一般化は、言語活動の生理的側面に関するものの中においては正当なものである。それで例えば、sr, mr, nrという音連合において、その間に子音の挿入現象(t, b, d)が現れるのは、ノーマルであると見るのは正当である。しかしこの場合、申し述べられているのは、諸可能性である、しかし一般化は、《改新》(交替)にかかわるのであり、《変化》にかかわるものではない、というのはこれらの例はその本性上、生理的限定を受けることはないからである(第3章2.2.3参照)。同じことがGrammontの《一般的音声法則》についても言える。それで他の例も考えに入れれば、生理的《説明》は、歴史的説明と交替することはできないし、またそれと対立させることもできない。

(12)この原理は明確にそして簡潔にMenendez Pidalの[Origenes del espanol],Madrid, 1950 p.20の述べられている、「あらゆる音声変化は自然的であり、種々の言語で生起しうる、しかしながら各言語においては常に歴史的に厳格に限定された原因によって生起している。それで類似した言語変化は、それぞれの国で歴史的に異なった原因を持っているはずである」。またSaussureの「Cours」,

pp.168-169,244-245:pp.132-133,210-211を参照。

(13)Art.cit. p.21

(14)それで、文語的なフランス語において、 λjと発音するのはある時期には《俗的》事実であったろう。 しかし今日パリのことばでは、この発音は一般化しているので、これと逆のことが起っている、つまり λ と発音するのはある限定された状況では《田舎じみた》または《粗野な》発音となっている。

(15)物質的類推は、結局あれやこれやの変化は、《自然的》なものであることを示すに役立っている。しかしこの場合《自然的》というのは、ただ《しばしば生起する》ということを意味しているにすぎない。こういう意味であらゆる変化は、もし実際に生起したのなら《自然的》であるといえる(注12参照)。それで歴史的に論証された変化について問題にするとすれば、類推は役に立たなくなってしまう。逆に類推は再構成の技術や歴史前の変化に関する(しばしば生起もせず、また決して論証もされたこともない《交替》を理由もなく設定してしまわないための)方法論的に有用な規準を作ることになる。

(16)[Traite],p.175以下。またA.Martinetの"Function, Structure and Sound Change",p.1を参照。

(17)あるものは言語活動を直接に限定しえない要因であり、またあるものは変化の能動的条件に関しては《二次的段階》の要因である(第3章2.2.3および4章2.1.2参照)、そしてその他のものは、どんな意味においても《原因》ではない。改新の普及という事実それ自身であるところの《流行》の場合がそれに当たる、しかしそれは普及の《原因》ではない。同じことが《訂正されなかった間違い》について言うことができる、この間違いは、改新の1つのタイプであり、変化や改新の理由ではない。所謂《最小努力》とは、まさに1つの限定的原因であるにすぎない、しかしこれはたいへん問題の多いものである(3.3.1参照)

(18)[Traite],p.167

(19)このような迷信は、しばしば合理性のあらゆる限界を超えてしまう。それで最近でも《言語哲学者》ということが言われている、C.Schmitは、"The Philosophy of Language", 《Orbis》 V.p.169で母音のaを広い平原や広大な国の特性と考え、母音のoを小国や島国に特有まもの(多分ある島は丸いからという理由で)と考えている。

(20)O. Jespersen,[Language], p.255以下を参照。

(21)[Forma y sustancia], p.18-19を参照。

(22)言理学(glossematics) の原理の間違いの1つは、言語についての伝統的な概念を論証する必要のある《仮説》として提出しようとしたことである(第1章注2参照)。言語の存在は、必然的に科学的側面における明確化と正当化を必要としている、しかし仮説として仮定したり、また措定したりする必要はない、なぜなら人間が知らないあるものにかかわるものではないからである。

(23)それで有名な言語学者が述べている意見を受け入れることはできない(彼は一方では立派な理論家であるが)、つまり彼は、事実についての見事な説明は何巻にもわたる理論よりも価値がある、と言う。説明と理論の間には対立はない、というのは事実の見事な説明は、まさに立派な理論にもとづいている説明だからである。しかし見事な説明というのは、たしかに恣意的または間違った数巻にもわたる理論よりもずっと価値がある。事実と理論については、H.Freiの考察を参照。《Acta Linguistica》 V.pp.61-62.

(24)言語学において次のようなことが行われることがある、つまりあることについて発音した人間のものの捉え方と関係づけて、彼の言うあらゆる《概念》はあたかもすべて立派であり、真理はたんに見解であるにすぎないかのごとく考え、最もばかばかしい断定をも正当化してしまうことがしばしばあることである。しかしこれは最悪の方法である。断定の有効性は諸事実との関係で考察されるべきであり、単に間違い、 または不合理であり得るかもしれない諸前提と関連させて考えるべきではない。 人間の現実についての理論に対して、《それは信じられる》とか、《それは信じられない》ということを対立させることはできず、《そうである》または、《そうではない》ということを対立させうるだけである。

(25)[The Teaching of English], p.106.

(26)Ibid. p.107を参照。H.Paul,[Prinzipien]のp.36を参照、「常に個人の精神活動との関係を無視し、文法的形式のみを切り離して観察するものは、けっして言語の発達を理解するにはいたらないでのである」。 これは、もし《精神活動》を《意識の活動》と解し、あたゆる心理主義から自由になるとすれば、これが書かれた時また今日においてすら有効な確言である。

(27)[The Teaching],p.108. これまでこの書をおおいに引用した。しかし引用してのは、機械的教条主義が開花し、有力な学者(J.Whatmough,《Word》,XII,p.293)が、 ヒューマニズムの言語学(または人間科学)への浸透を危険な《感染》と考えるにいたるような科学的環境から 脱出せしめようとするこの書の全体的な内存的価値によって引用するに値するところだけである。 [Teaching],p.112で、Freiは言語のダイナミックスを、 経験を分析しようとする知的努力に帰しているが、これは興味ある見方である、 「新しい関係、新しい類似や新しい相違について認識するということは、言語的慣用の偏差の中に、 それを連続的に登録するということでる」。 またBrealの言をも参照(第3章注67参照)。 言語学のメカニズムの批判として、[Forma y sustancia],pp.14-21を参照。 ここで、われわれは以下のことを明示しなければならない、 つまりただ知覚されたものだけを《客観的》(間主観的)と考える理由はない、 なぜならば知覚は純粋に主観的なものである。知覚されているのは、 誰かによって知覚されたものとして所与のものとしてあるのであり、これは考えれれたこととは、 誰かによって考えられることによって所与のものになるのと、同じである。 《伝達可能度》ということに関して言えば、 考えられたことは知覚されたことと同様に伝達可能である。そしてさらに知覚されたことを伝達するために、 われわれはそれについて考えなくてはならない。行動主義についての根本的批判は、W.Kohlerの[Gestalt Psychology], スペイン語訳[Psicologia de la forma], Buenos Aires, 1948,p.25以下に見られる。 またH.J.Posの先に引用した論文"Phenomenologie et linguistique"をも参照。

(28)[La Grammaire de fautes],p.20以下を参照。

(29)Ibid. p.23

(30)A. Martinetは、[Economie des changements phonetiques],p.45で、目的論的な問題設定は、Freiの著作にとって有害なものであった、としている。われわれの意見によれば、有害なのはただこの問題設定に明確さが欠けていたということ、また不十分なものであったということである。

(31)[Economie],pp.17-18

(32)Ibid. p.18

(33)Ibid. p.19

(34)Ibid. p.18

(35)Korzybskiの大胆な《学説》と彼の《新意味論》派の不適格さと根本的脆弱さについては、"Logicismo y antilogicismo", p.6-7: Black,[Language and Philosophy],イタリア語訳[Linguaggio e filosofia],Milano, 1953,pp.279-309,およびM.Schauch,[The Gift of Tongue],3ed. London, 1949, p.130以下を参照。

(36)[Physica],II,3およびII,7

(37)Ibid.II,8

(38)Ibid.II,9

(39)[Human Behavior and the Principle of Least Effort],Cambridge Mass.1949.

(40)A.Martinetは"Function",p.28でそういう風に理解している。また[Economie],p.94以下および"Role de la correlation dans la phonologie diachronique", TCP,VIII,1939,p.276を参照。「音韻体系の調和と呼ばれるものは関与的な調音のタイプを最も経済的に利用するということより得られる安定性以外のなにものでもない」。また彼は"Old Sibilants",p.138で、「実際の所、調和のとれた音素的パターンは経済的パターン以外の何ものでもない」と言う。Saussureは、逆に、本来的な調音的努力の存在を考えている、そして所謂《最小努力の法則》はある程度変化の原因を解明しうる、としている(「Cours」p.242:p.208).

(41)こういう意味で《経済》という語を解釈した最初の人は、イタリアの文献学者F.Scerboである、彼はまったく正確にそれをとらえている。その小著、[Spiritualita del linguaggio],Firence,1902で、《怠惰または快適さ》と《経済》をはっきり区別している。またB. Croce,[Problemi di estetica],p.183を参照。言語活動の考察に実用的な原則を導入するということは、言語活動に実用的目的性を付与するということを意味するものではない。言語活動それ自身は、実用的目的性を有しておらず、アリストテレス風に定義すれば、意味的ロゴスであるところの認識的目的を有している。そしてまた、ことばは必然的に実用的目的性を有しているものではない、しかし場合によって、ことばは反語的、空想的または実利的ロゴスであることがあるので、実用的目的性を持つことがある:"Logicismo y antilogicismo",pp.7,13を参照。しかし《言語》(言語的知識)は、他の技術の利用と同様に、本質的に実用的な行為である。そして将来の表現的行為を考察に入れての言語様式の《創造》、言い換えれば本来的意味での創造の採用は実用的性格を有している。

(42)それゆえ、A. Martinetの"Function",p.26で言っている、言語の進展は「人間の表現的必要性と、その精神的および物理的活動を最小に縮小しようとする傾向の永続的二律背反によって規制されている」(または[Economie],p.94を参照)ものとして認識しうるという断定を受け入れることはできない。というのは創造的知的活動においては、そのような傾向は論証されていないからである。それでこういった場合に、《経済的にする》とは《最小へ縮小する》ということを意味するものではない。

(43)A. Martinetは[Economie],p.183で、現代フランス語のこのような特有な例に関して、実際の同音異義の衝突は理論的な衝突よりもずっとまれである、と言っている。

(44)たとえば、[Forma y sustancia],p.52で述べられているように、またG. Guitarte "El ensordecimiento", p.275で示されていることとは逆に、 ラプラタ河流域のスペイン語では有声性は音素 では機能的ではない。しかしながら大多数の話し手は、この音素を と実現する。そしてこれは弁別的必要性によるものではなく、伝統に対する連帯性のゆえである。 Guitarteは、 の有声性は体系の他の部分に対する(例えば、p-b-fの対立に対する)均斉によって関与的なものと考えるべきである、としている。しかしながらこれは一種の悪循環である、つまり均斉のとれた組織体がp-b-fのような対立にとっての実際の機能性によって設定され、次いで均斉という基盤にもとづいて存在していない機能性を設定しようとする。特徴の関与性は、体系の均斉からは演繹しえない第一義的事実である、そして特徴の関与性は現実の弁別的対立において論証すべきものである。 それでラプラタ河流域の は音素 // と対立するものではない。それで体系におけるその位置は《非均斉的》、言うなれば は // に対して、 または * // の位置を占めている。このことは一方では、有声性(弁別的有声性ではなく)がしばしば相互理解にとって障害となることなく、破棄されるという事実を説明する。 また以下のことに注意すること、 - // の対立は存在しない、そして一方ラプラタ河流域の音韻体系には、《構造の穴》である // がある、または有声性の音素 において機能的ではないと申し述べるのは、言語の現実という視点からはまったく同じことである。

(45)ここから目的論的説明の形式的循環性(第5章4.2.2)や、超言語的な他の論拠との関連でそれを支持する必要性がでてくる。同じ理由から、厳格な言語的客観主義は実際に変化の問題を設定することはできない、なぜならば変化というようなものの理由は、外的事実として論証することはできないからである。これに関連して目的論的説明は危険を内包しているということを考慮すべきである(3.4.3参照)。しかしこのことはわれわれに、これに関して何も明らかにしえない機能的、外的説明にたよるのを正当化するものではない。一方このことは変化ばかりではなく、あらゆる言語的事実にとってもそうである。変化や言語的事実は、内的再解釈によってのみそのようなものとして認識されるのである。そして一般にある適切な方法が内包している危険は、定義上、不適切な方法とそれを交替せしめるのを正当化するものではない。美学的な方法はまったく過誤がないという口実を、その価値を決定するために虚構を秤にかけようとするのと同じことになってしまう。

(46)[Economie],p.19-20

(47)しかしながら、機能的説明を提案する学者自身が、しばしばそれに《因果的》というレッテルを貼ろうとする時ですら、このことは実際に目的論的な機能的説明に影響を与えるものではない。たとえば実際には何も説明しない所謂《生理的説明》は、もっぱら機能論的なものである(第5章1.3.1参照)

(48)[Il segno vivente], p.120

(49)[Actes du premier Congres], pp.33-36,およびN.S.Trubetzkoy, "Les systemes phonologiques envisages en eux-memes et dans leurs rapports avec la structure generale de la langue", [Actes du deuxieme Congres International de linguistes],Paris 1933,pp.120-125(特にp.124を参照)。

(50)A. Juilland, "A Bibliography of Diachronic Phonemics", 《Word》, IX, 1953, pp.198-208を参照。

(51)A. Martinet, [Economie], pp.13-15を参照。

このことは、そこで言及されている方向づけの理論的、方法論的基盤によるものである。事実、厳格なBloomfield学派はその機械的な基盤へ密着するのを放棄せずに、言語変化の説明を提示することはできない、なぜなら変化の理由を外的に論証することはできないからである(注45参照)。そしてまた言語を数学的(言い換えれば非時間的)対象として解釈すると、言理学より、変化の理解ばかりではなく言語活動の歴史性の理解にとっての見通しというものを奪ってしまう(第7章2.3参照)。

(52)北アメリカの2つの主要な貢献、つまりA.Hillの"Phonetic and Phonemic change", 《Language》XII, 1936,pp.15-22とH.M. Hoenigswaldの"Sound Change and Linguistic Structure", 《Language》,XXII, 1946,pp.138-143. 同じことがR.Jakobsonの[Prinzipien]のさきに引用した文についても言える。またA.Martinet,[Economie],p.46を参照。H.M.Hoenigswaldの[Linguistic Change and Linguistic Reconstruction],Chicago,1960は、単なる分類または枠組への還元というもの以上に出ていない。この本は言語変化の不毛な類型学以外の何ものでもない。この本はBloomfield流の言語学の乗り越えがたい限界を示しているようである。

(53)O.Jespersen,[Language],p.298を参照:「各音声変化は、できるだけ同一時期および同一言語で進行している他の音声変化と関連させて観察するだけではなく、全体としてのことばの資料に及ぼす影響を、それぞれの例において探求してゆくべきである」。通時的構造主義の先駆者のリストに、《音声体系の隙間》(case vide du systeme phonetique)[La methode comparative],p.99)という表現を1925年に使ったA. MeilletやA.Martinet,[Economie],pp.42-44で引用されているP.Passyを付け加えるべきである。これに加えて、十分予期しうることはあるが観念主義の分野にも構造主義的説明の先駆者がいる。K.Vossler, [Sprache als Schopfung und Entwicklung],1905,同書のスペイン語訳、[Positivismo e idealismo],Madrid,1926,p.136で、フランス語の歯茎振動音のrが口蓋垂振動音に 変化するのを次のように説明している:彼は首尾一貫することなく、《調音的基盤への音声的同化のまった く機械的または本能的過程》について語っているが、この変化は《調音的体系》の牽引力によっておこった、としている。

(54)あらゆる構造的研究は、言語をエルゴンとする考えに基づくべきであり、 言語活動をエネルゲイアと考えるのは必然的に《通時態》、《原子論》を暗に含むものである、としばしば考えられている。しかしこれは間違い以外の何ものでもない、 それで言語学的構造をダイナミックな構造と解するのである。 一方エネルゲイアは単に運動とか変化を意味しているのではない。 多くの物事は、エネルゲイアの本来の意味でもって考察しなくとも、運動し、 また変化しているのである(第2章2.2参照)。音韻論の本来的な意味での 反自然主義(つまり、反物理主義や反心理主義)については、 D.Cyzevskyjの重要な 論文、Phonologie und Psychologie, TCLP, VIII,pp.3-32を参照。

(55)構造的条件を《原因》と考える解釈に対して、すでに明確な用語を使って反論が企てられている:E. Hermann, [Actes du deuxieme Congres],p.129,「多くの音声変化は必然的に起こる、と仮定すると音韻論は方法論的欠陥に陥ることになる。音声変化は言語変化に対する制約のもとで作用する、一方言語における変化は、ある一定のことばまたは環境の制約下で、思考、感覚また意欲の精神力が活動する時に、起こりうるのである」。

(56)A.Burgerは、[Phonematique],p.19で、青年文法家の考えていたこととは逆に通時音韻論について確信をもって言う:「進展が体系を説明するのではなく、体系が進展を説明するのである」。

(57)"A proposito de l y ll latinas, Colonizacion suditalica en Espana", 《Boletin de la Real Academia Espanola》, XXXIV, 1954, pp.165-216.

(58)"Celtic Lenition and Western Romance Consonants", 《Language》, XXVIII,1952.p.192-217, これは[Economie],pp.257j-296(特にp.275以下を参照)にフランス語訳で再録。

(59)Art.cit. p.187以下

(60)Ibid.pp.186-187

(61)このことは、歴史的説明は構造的説明に先立つものであるということを意味するのではなく、 ただその正確な歴史が知られていない《言語状態》に対して、変化というものを考える前に保存の可能性というものを考慮しなければならない、そして一般に情報は説明に先立つべきである、ということである。

(62)言語地理学的な論拠のない言語的限界は、接触している2つの体系の内の1つの体系の対応する諸事実が、隣接する体系において構造的に許容され得ないものであるという事実によって決められるのである。このことは根本的に異なった構造の言語の間では当たり前のことである(例えば、スペイン語とバスク語)。しかしこのことはある程度同一の歴史言語の《諸方言》の間においても論証されうることである。言語的体系はまったく《開いた》体系である、 しかしながらまた、言語の歴史の各瞬間において、 ある《不可侵》の領域を示すこともある。Ch.F.Hockett, 《Language》 XXXII,p.467を参照。「言語は新しい意味伝達要素が添加されえない閉じた体系ではなく、 他の言語(または準言語的体系)からの要素が絶対的に自由に導入されうる完全に開いた体系でもない」。

(63)言語学においてしばしば(本質においてまったく異なった科学であるところの)自然科学や数学における《原理》を探求せんとする傾向がある。また議論の余地のある基盤にもとづいた科学、例えば社会学や心理学においてもそうである。まったく機械的なテクニックは、 サイバネティクスや統計学と同様にある理論的または合理的問題に解決を与えるであろうと考える学者すらいる。逆に言語学の問題と他の人間科学の問題との間に存在する密接な類似性をしばしば無視している。言語学の自律性について熱心な多くの言語学者は、哲学に不信の目を向け言語学は諸原理の科学そのものであると考える。ある面でこの不幸な依存性、また一方で孤立性という状況のもとで、言語学はづっと以前にすでに哲学や他の人間科学によって解決された旧い問題を《アクチュアル》なものとして問題設定し続けていたり、またそれらの問題を首尾一貫していない問題として、排除し続けている。言語学がまだこういう《屁理屈》(misologismo)の過失に苦しんでいるのは残念なことである、プラトンの[Phaedo],89c-90によれば、これはたいへん重大な過失である。

(64)この傾向については、B.Croceの"La teoria dell'arte come visibilita",と同書の注を参照、これは[Nuovi saggi di estetica],3ed.Bari, 1948, p.235以下に所収。

(64-bis)言語と文化の弁証法的関係については、G.Devoto, [I fondamenti],pp.40-42,84を参照。

(65)これらの限界を《間違い》と考えるべきではない。構造的照準は有効でかつ必要性のある他の照準と相互補完的である、ということを意味している。われわれの意見では、ことばの構造は現実的であるので、言語学はすべて構造的であるはずである。しかし構造主義は言語学すべてではない。そして多くの構造主義者の間違いは、例えば構造的照準は定義の側面に対応するのではなく、記述の側面に対応しているということを忘れ、言語学的カテゴリーの《構造的定義》を与えようとして、構造主義は言語学すべてであるはずであるとするところにある。むろん、言語学的事実は、その機能によって決定されるので、言語学はすべて機能的であるべきである。

(66)変化の進展のH.Freiの定義については、[Grammaire des fautes],p.29-30を参照。

(67)H.Ludtke, [Die struktuelle Entwicklung des romanischen Vokalismus],Bonn, 1956, 彼はp.15-16を単なる通時態は、時間の中での言語形式を考えるだけであり、言語的生起のより完全なビジョンを獲得するためには通時態を言語地理学で補い、そして《通時的言語空間の記述》にまで高め、言語の空間的バラエティーを考慮しなければならない、としている。(文化的社会的な種々の階層間の)言語の《垂直的》バラエティーと(種々の表現的瞬間の間の)《文体論》を考慮に入れるのが必要である、と付け加えている。"La geografia linguistica",p.43を参照。

(68)[Historia como sistema],全集第6巻、Madrid,1947,p.50. また[El hombre y la gente],p.281を参照、Ortegaは言語の歴史について、それは「一連の継起している言語を示しはするが、言語の形成についてはなにも示さない」と言う。

(69)こういう意味で、Menendez Pidalの[Origenes del espanol]やA. Alonsoの[De la pronunciacion medieval a la moderna]といった研究は、その例としてあげられる。またD. Catalanの[La escuela linguistica espanola y su concepcion del lenguaje],Madrid, 1955,p.69以下を参照。しかしながらこのことは、言語についてのこの特有の考えかたをスペイン言語学派に帰してしまうのを正当化するものではない。これらの研究は言語の歴史についての方法論的側面について論じているのである。スペイン言語学派の特徴については、以下を参照。A.Rosenblat,RFH. II2,p.183,およびE. Coseriuの"Amado Alonso", Montevideo,1953,p.4.

(70)しかしながらMartinetは、[Economie],p.19で以下のように考えている:いわゆる《外的要素》の圧力がないとすれば、体系は不動のままであろうという概念を《安易主義的》とみなす、しかし音韻的体系の均衡は不安定なものと解すべきである。「事実、観察しうる大部分の音韻的体系は、不均衡の痕跡を示している」(p.25)、「あらゆる音韻的体系において、またその歴史のあらゆる瞬間において、変化が漂流中であるかまたはその過程のさなかにある時期がある」(p.34)。またp.88-90を参照。

(71)これについて、その観念主義的で反Saussure的という理由では非難しえない学者であるMeilletは、「Cours」の(BSLP,XX p.35)で、方法論的には有用であるけれどもSaussureの短絡は、言語の現実に対応していない、と正当に批判している。

(72)[Actes du premier Congres],p.33,35,36

(73)"La fonologie actual", スペイン語訳[Psicologia del lenguaje]所収p.159.
また同じくTrubetzkoyについては、 ジュネーブの言語学会での発言を参照、[Actes du deuxieme Congres],pp.110,124を参照。またR.Jakobsonの[Remarques sur l'evolution phonologique du russe], 特にp.17を参照。

(74)A. Haudricourt & A. Juillandの[Essai]への序文、p.XI,および[Economie],p.46,97を参照。

(75)この点について、Martinetは通時構造主義に反対しているA. Burgerと一致している。Burgerは、目的原因論に対立し、変化は目的を有していない(Art.cit.pp.32-33)という意味で、「言語は何事も前もって予測しない」、というSaussureの原理を再確認している。しかしこのMartinetの反論も用語上の問題にしかすぎないようである、というのは彼はしばしば、《傾向》という概念を使用しているからである。

(76)(アカデミー、言語純粋主義者、語学教師等による)外側よりの要請による《人為的》変化は、各話し手に彼が提供しているモデルに合致させて話し手に特有のことばを変容する限りにおいて、所与のものとなる。この場合はっきり区別しておかなければならないことは(しかしこれは目的原因論者が言及しようとするような場合とは異なり)、問題は常に個人の目的論的採用を介して生起する変化の技術それ自身ではなくして、仮定されている言語モデルの外的起源である、つまり変化を提供するのではなく、モデルを提供するということは、言語を変化させる意図を明らかにするということである。それで《自然的》変化と《人為的》変化との区別は言語的自由が発動される条件にかかわるものであり、変化の最小の単位である個人の採用という問題にかかわるものではない。

(77)問題となるのは、言語を1つの体系に還元するということではない。この還元ということは、構造主義の特有性ではなく(例えば構造主義を批判している人もこれを是認している)あらゆる言語学派に一般的なものであり、多くの研究にとって不可欠なものとなっている。しかしながら、この還元それ自身が暗に示している抽象性のレベルを忘れるべきではない。

(78)Martinet, [Economie]のp.67で、《体系の調和》を《欺瞞的なレッテイル》と正当に評価している。またpp.97-98,104を参照。

(79)"La fonologia actual", p.159を参照。

(80)[Kritik der Urteilskraft],特に§75。

(81)このことは最も厳格な経験的意味においても再確認されている、それで論証できる状況にある変化の仮定された《原因》は、経験的に簡単な観察によって反論できる(2.4.2参照)、一方経験的な議論でもって、定義上、論証できないものや、それ自身が基本的に同語反復であるその動機付けについてはそれを否定できない(5.3.5参照)。

(82)一方、《過程についての論証》としては、これは相対的または重層的論理であるにすぎない、つまり一元的な伝統的図式より出発するとすれば、変化はただ1つの方向に向かうことはない、ということである。継起的な各瞬間において論証されることは、話し手が同じ意図で言語を実現させている時の、その単一性であり、また言語に種々の衝動を与えている時の、その多様性である。例えばSaussureの図式を参照のこと、「Cours」,p.317:p.281。言語学における《傾向》という概念の批判については、K.Rogger, [Idealismus und Realismus in der Sprachwissenschaft],ZRPH, LXXV, 1959,pp.416-419を参照。

(83)[La methode comparative],p.98以下および、"Convergence des developments linguistique", [Linguistique historique et linguistique generale],第1巻、p.61-75に所収、等を参照。

(84)これは《論理的に》可能であると言える、なぜならばMeilletによって引用されている多くの例においては、問題になっている言語の文献に残っていない地域や区域で、ずっと以前に発生した変化について論じているからであり、また《分裂》した以後の言語の一方から他方の言語へ広がった変革について論じているからである。

(85)[Linguistique historique et linguistique generale],p.7,13.

(86)Ibid. p.15

(87)Ibid. pp.15-16

(88)B.Malmbergが[Systeme],pp.24-25,注7で言っているような《共時的な因果的法則》というものは存在しない。《共時的法則》は常に構造の1つの規範である、つまりこれは過程(どのように)にかかわるものであり、《理由》(どうして)にかかわるものではない。ハーグの会議議事録p.34に示されている音韻論の共時的諸法則やBrondalの形態論的対立の諸法則がそういった共時的法則にあたる。J.Perrotの[La linguistique], Paris, 1953,p.130での慎重な態度を参照。彼は《法則》というものと、一般に言うところの経験的論証というものの違いを正しく見抜いている。しかしながらそれらの諸法則はことばの組織体の規範的また典型的様式を示している、ということを論証することが重要である。しかしそれらの諸法則は汎時的で絶対的必然性があるという性格のものではない。それでもし開音節を欠いている言語はこれまで存在しなかった、また現在も存在していないと、かなり確実に論証したとしても、このことは単にそのことを合理的必然性として措定するにはあたらない。

(88)Ibid.pp.15-16

(89)歴史科学における自然主義者の理想に対して、B.Croce, [Teoria e storia della storiografia],7ed. Bari, 1954,p.170を参照。「事実、 自然科学の理想は、完全であらんとするよりも、歴史的思考を関与させてきたこと、また関与せんとすることにある。 歴史的思考は、発展についての弁証法であり、原因による決定論的説明ではない。 決定論的説明はなにも説明するものではない、というのはそれには発展するものは何も含まれていないからである」。

第6章 了

2001年8月13日