第7章

共時態・通時態・歴史

 

1.1.1.共時態と通時態の二律背反を、根本的に超越するために、―超越可能であるという意味で― Saussureのテキストにもう一度立ち返るのがよいであろう。すでによく知られているように、彼によると、《静態的事実》と《進化的事実》の二律背反は根本的なものである。「前者は同時的要素間の関係であり、後者は時間における要素と要素との置換、つまり事件である」(1)。共時的事項は、共存的であり体系を形成する、一方通時的事項は継起的で、ある事項と他の事項間に体系を形成することなくお互いに入れ替わる(2)。共時的事実は体系的であり、通時的事実は特定的、異質的で孤立している(3)、そして加うるに体系に対して《外的》である。「通時的眺望において、われわれは体系を条件付けてはいるが、その体系となんら関係を有していない現象を取り扱う」(4)。Saussureは、共時態(言語状態)は通時態に依存していることを認めてはいるが、どんな変化も体系全体に反響するものであり、共時的体系は、通時的事実によって条件付けられていることに注目している(5)。しかし逆の意味での依存性は認めていない。変化は、体系には無関係な現象であり、特に音声変化は、《記号体系の組織体と闘争している盲目的な力》を表しているからである。

 これまでわれわれは、ものごとは彼が言うのとは別の仕方で生起し、別のやり方で考察すべきであることをあきらかにするよう努力してきた。しかし今は、Saussureの二律背反を単純に受け入れたり、また否定したりするのではなく、別の視点を採用してSaussureがそれを設定するために、どのような理由をもっていたのかとか、それらの理由はどの点まで有効で支持しうるのかを論証しようとする、つまり《彼の根本から》二律背反を超越しようというのである。

 

1.1.2.まず最初に、Saussureは、言語事実の歴史性を明確に認めていたことに留意すべきである。それで例えば彼は、《所与の言語状態は常に歴史的要素の所産である》、そしてある語の発音を固定するのは、その歴史である、と言う(7)。そして彼は共時的言語学と通時的言語学の間の相補性を認め、《歴史的方法は、言語諸状態をよりよく理解せしめるものである》(8)、としている。さらにSaussureは、少なくともある面で(それをSaussureの言語学は無視して乗り越えようとしたのであるが)文化的対象としての言語の本質的歴史性を認めるにいたるのである。これは《言語学的法則》に関する彼の態度に関係している。Saussureは、言語学の仕事は、《あらゆる言語に永続的、普遍的に関与し来る力を探求し、歴史のあらゆる特定的現象が還元される一般法則を引き出すこと》であるとしている(9)。しかしこれらの《法則》は、ただ普遍的原則であるにすぎず、物理科学が設定しているような汎時的で因果律的法則ではない、と認めている。言語活動の汎時的法則とは、あらゆる言語は変化するということである。しかしSaussureは、「それらは具体的事実とは独立して存在する一般原理である;手を触れることのできない、そして特定の事実のことが問題となるとすれば、汎時的視点というものはない」。「言語において、汎時的説明を受け入れる「歴史的」具体的事実はない」(10)。

 同様にSaussureは、言語(ラング)と発話(パロール)の相互依存性の意味を明確に認知している(11)、そして少なくとも「Cours」の類推に関する章で、言語変化を言語の《自己形成》と解する見解に接近してゆく。Saussureは、類推について言及するに際し、われわれが体系と呼ぶもの(《本来的意味での言語学的技術、《何ごとかをなすための体系》)と、規範と呼ぶもの(《実現された体系》実現された言語)を暗に区別している(12)。そして彼にとっては、類推とは《変化》ではなく、すでに言語に存在している規準と合致して作られる創造であるので、文法的で共時的な現象である(13)。事実、類推は《規範》における変化であり、《体系》における変化ではない。それゆえこれは逆に、《体系的創造》、体系の可能性の実現である。こういう風にして、Saussureは、類推は常にその改新のために旧い物質を利用しているので、保存の要素であると言う、つまりこの場合《体系》の保存に関係するのである。さらに類推は、純粋に単純な保存の要因、つまり形式と連帯関係にある形式は、《たえず類推的に作りなおされるから》(14)、お互いに似たものとして保存される。

 

1.1.3.しかしSaussureは、類推が唯一の体系的創造ではない、とは見ておらず、また実際に、言語の《自己形成》 ―本来的意味での《変化》― と、その《再自己形成》つまり連続性の間には何らかの本質的な違いはない、とは見ていなかった。そしてさらに、音的変化をも含めて他の言語変化の場合に、変化は体系によって同意されている別の実現体へ向かう規範の移転であるとは見ていないし(15)、また新しい形式は、旧い形式と長期に亘って共存しているとも考えない(第3章4.4.6参照)。これとは逆に、音的変化に関して彼は、言語的行為の規範、つまり技術を《体系》とは考えず、実現さえた言語、つまり《規範》を体系と考えている。それで音的変化は、語に作用するのではなく、《音》にだけ作用するので体系的ではないとする(16)、そしてこの音的変化に言及してしている所で、Saussureは、ある一定時期の《置換》だけを認めており、ある言語状態における共存を認めていない(17)。同様にSaussureは、言語の体系性と個別性はその歴史性の当然の帰結である、また変化は、話し手の新しい表現的必要性による言語の採用ということであるので、言語の機能的共時性の必要条件であるとは考えていない(第2章1.1参照)。Saussureは、たしかに変化は事実上、一般的必然的現象であるということに気付いている、しかしそれは、体系および時間において限界を有していると言う(18)。しかし根本的には、彼は変化を合理的説明を欠く外的な運命の一種と考えている。変化の過程や原因について、―類推について言及していることを別として― 「Cours」において、なんら言及されていない。われわれはただ、時間は言語記号を多少急速に変更させる効果をゆうする、とか「時間において変更と結びついている時間における記号の連続性は、一般記号学の原理である」、「時間は万物を変更せしめる」、「連続性は、必然的に変更、つまり諸関係のかなりの移動を暗に含んでいる」(19)、と言っているのを見ることができる。これによって彼は、実際あらゆる説明や変化の理解そのものを放棄している。

 

1.2.1.このことは第一に、言語体系に対してSaussureが取った視点による、そしてすでに何回も明示してきたように、これは話し手の視点、つまり言語を利用する話者の視点である(20)。「言語事象を研究してまず驚くことは、話し手にとっては、時間におけるそれらの継起は存在しないということである」、言語学者は、過去を抹殺しなけれ話す主体の意識に入ってゆくことはできない、「パロール(発話)は、言語状態でしか作用せず、諸状態に干渉してくる変化は、それらの状態の中に存在する場所がない」(21)。たしかしこれは、共時言語学において採用しなければならない視点である。そしてこれがSaussureによると、体系を知覚しうる唯一の視点である。言語は、通時的眺望において、そのようなもののとして知覚されることはない(22)、そして一方、話し手にとって共時態のみが現実的である。「共時的側面は、他のものにまさっているのは、話す大衆にとっては、これだけが真実なものであり唯一の現実だからである」(23)。さて機能している言語、または言語を利用している話し手の視点(Saussureはこれを言語の視点と呼んでいる(24))からすると、変化は、明らかに変化として知覚されえない。さらに話者としての話し手にとって、変化は存在していない、というのは言語の連続性は、話し手の歴史的主体としての本来的連続性と合致するので、話し手は常に彼の言語と、《共時化》されており、《運動している》変化と知覚しえない。そしてこういう意味で、―これは重要なことであるが、― Saussureにとっては、変化とは話す主体によって知覚されないので《体系外的》である(25)。しかしSaussureは、《言語状態》と《言語の現実》を同一視することによって、こういう視点は、変化の理解にとって単に不適当なものとなることもあるとは考えず、他の議論をあわせて、変化は実際的に《非体系的》、つまり《体系外的》、《特有的》なものであることを示そうとしている(26)。

 

1.2.2.Saussureにとって変化とは、《体系外的》なものである、なぜなら第一にその理由または原因は、体系それ自身の中ではなく、発話の中に見いだせるとするからである、「発話(パロール)が言語を(ラング)進展させるものである」、「言語(ラング)において通時的なものは、すべて発話(パロール)によってのみそうなるのである」(27)。第二に、体系は、体系として直接(言い換えれば、内的関係において)変容されないからである、「体系は、決して直接的に変容されることはない、体系はそれ自身の中においては不変である。ただ諸要素を総体に結びつけている連続性に注意を向けることなく、ある要素が変更するのである」、「移転せられたのは、総体ではない、ある体系が別の体系を発生せしめたということではなく、最初の体系のある要素が変化したということである、そしてこれだけで別の体系を生ぜしめるには充分である」(28)。第三に、変化は意図的ではないからである、「通時的事実には、体系を変化させようという傾向はない、また諸関係のある体系から別の体系へ移るのを欲しているのでもない、つまり変容は、秩序づけということにかかわっているのではなく、秩序づけられた要素にかかわっているのである」、「変化は、あらゆる意図とは離れて作られる」、そしてチェスとの有名は比喩、「比較が成り立たない所が1つある。チェスの競技者は、動きをおこそうとする意図を有し、また体系を変容させようとする意図を有している、一方言語は、なにも前もって計画することはない。チェスの駒は、任意にそして不意に位置を変える、または変容する」(29)。

 それで体系は、それ自身によって動くことはないという意味で(しかし体系は運動を欠いているとか、今後も不動のままであろうという意味ではない)、《不動》である、そして《体系は別の体系を生み出すことはない》から不動である。このことは、まったく明白で確実なことであり、受け入れられるものである(30)、しかしこのことは、変化の外存性を暗に含むものではない。実際にSaussureのことばによると、「どの程度であっても、体系を変動せしめるものは、すべて内的である」としている(31)。それゆえ変化は、《外的》な動機付けを有してはいるが、内的なものと考えなければならなくなる、しかしここに、《外存性》というものの別の意味が関与してくる。Saussureは、変化が《体系を変化変動せしめる》ということを無視しない、しかしこれは間接的にしか生起しないと考えている、直接的には、孤立した事項だけが変容されるのであり、その諸関係は変容されない。さてすると、これは彼の言語に対する本来の概念と矛盾することになる。もし言語が、《対立の組み合わせ》であるとすれば、そして「言語状態においては、すべての関係にもとづいている」(32)とすれば、この関係そのものを表示している事項は、その関係によって決定されているのであり、その逆ではない。それで変化は、ただ諸関係の変容としてだけ意味を有することができる。そのようなものとしての事項だけが、変容された時は、構造的視点よりして《何も生起しなかった》と言われる。それでSaussureによって引用されている例、フランス語における主格の消失で(33)、放棄されるのは対立、つまり体系的関係であり、単なる《事項》ではないことは明らかである。それで変化は、まったく《秩序づけ》にかかわることであり、ただ《主格の特定の概念》にかかわるものではない、そしてその例だけを取り上げて論ずることはできず、他の例、例えば《非−主格》といったものとの対立において論ずべきである。これに関するSaussureのあとの議論は、残念なことに基本的誤謬を循環している(34)。Saussureは、体系の視点から変化を探求するのではなく、実際に2次的で間接的なものであるその《反響》のみを探求している(35)。非意図性というものに関して、《言語は何ものをもあらかじめ計画しない》し、また《客観的目的》をも有していないのは確かである(第6章5.3.1参照)、しかしこのことは、変化が意図的なものではない、ということを意味するものではない。実際、変化の生起する様式それ自身によって、変化は、意図的目的論的な行為によって作られる過程としてのみ理解することができる(第3章3.2.2と4.3.3参照)。加うるに、この場合Saussureの議論は、既に示した間違いにもとづいている、つまり彼は、そのようなものとしての(音的)変化の意図性の問題を設定せず、変化は変化の間接的結果である文法的組織化を獲得しようという意図で実現されるのではないと考えているにすぎない。これは彼にとって、音的変化は、定義上、《不意なもの》、《非意図的》、《盲目的なもの》であるということである(36)。

 それで変化の外存性というものを支援するために、Saussureは、彼の言語(ラング)についての固有の概念を放棄し、欠陥のあるそして矛盾した推論に頼らなくてはならなかったのである。そしてこの推論は、共時態と通時態の二律背反の設定にとって本質的なことであったことに注意すべきである(37)。

 

1.2.3.通時的事実(変化)の《非体系的》なもう1つの性格は、その《特有性》である(注26参照)(38)。Saussureによれば言語変化は以下の意味で《特有》なものである。

a)言語変化は、全体的ではない(つまりその全体性において体系に作用せず、 言語共同体において同時的に所与のものとはならない)(39)。

b)言語変化は、それ自身の間では体系を形成することはない(40)。

c)言語変化は、体系的関係とは独立して、ただ特有的また孤立的要素に作用するだけである(41)。

 最初の特性は、否定できない、そしてSaussureが《一般的改新》という不適格な観念を明確に排除しているという事実は、注目に値する(第3章3.2.3参照)。第二の特性は、ただ部分的に受け入れうる。《孤立的》変化は、疑いもなく所謂《散発的音声変化》とか種々の意味変化(これらは勿論特定の体系的正当性をもつことができる)として存在している。しかしこのことは、言語史における規範を代表するものではない(42)。しかし最も問題の多いには、第三の特性である。事実Saussureは、《特有性》という概念を、(音的)変化の体系的性格、つまり留保なしに認知されるその規則性と解している(43)。変化するものは、1つの音素であり、1つの音的特徴であるとSaussureは言う、それゆえそれはどんな場合でも《孤立した要素》である。この事実は確かに、変化は体系的様式、実現体の規準に作用する、ということを意味することになる(第3章4.4.4参照)、しかしSaussureは、そういう風に解釈せず、「音声法則を証明している例がいくつあろうとも、それが包含するあらゆる事実は、ただ1つの特定の事実の現れ以外のなにものでもない」(44)とする。一方音素は、他の音素との対立によって音素なのであり、弁別的特徴は、対立、言い換えれば体系的関係の《標識》である。それでSaussureの引いている例において、―ギリシャ語で無声気息音になった印欧語の有声気息音の場合(45)―、変容されるのは相関関係であり、音素的《系列》すべてであるのは明らかである。しかしながらSaussureによれば、この場合《体系的》事実にかかわるのではなく、ただ《音的特有性》の変容にかかわっているということである(46)。このことはSaussureにとって、体系的とはもっぱら文法的ということを、そして《言語変化》とは《音声変化》を意味していたと言うことである。《音声的》と《進展的》ということの同一視、また《文法的》と《共時的》ということの同一視は、「Cours」の基本的テーゼの1つである(47)。それで音声変化は、文法的ではなく、ただ語の物理的実体にかかわるだけであるという意味で、《非体系的》、《言語外的》である(48)。そしてこういう風に考えてくると、共時態と通時態との間に仮定されている二律背反は、最終的分析においては意味論的な習慣のゆえに現れるということになる。

 

1.2.4.しかしこの習慣は、音的であるものとしての音的変化の体系性を決して排除するものではない。このことに関して、通時音韻論の最も重要な貢献は、音的変化は言語の物質的側面における技術的様式、《実現体の規準》の体系としての音韻体系の(相対的ではあるが)自立性を明らかにしたことである。逆にSaussureは、確かに《音素》の体系性には気付いている(49)、しかし言語の共時的研究において、音素になんら場所を与えるに至っていない。彼の《音素論》は、言語のある状態の音声の記述を目指しているが、実際は、《時間とは切り離された》ものであり、発話の科学である(50)。Saussureにとって言語の科学とは、《音声学》である、しかしこれは《歴史的》なものであり(51)、そして彼によると、音声学は通時言語学と同一視されており(52)、共時言語学は文法と同一視されている(53)。

 

1.2.5.まさに、音的変化だけが所与のものであるとすれば、二律背反は、正当化されるであろう(54)。しかし音的変化が、文法的ではないということによって、また慣例によって《非体系的》であるという風に宣告されうるとしても、この慣例そのものは、文法的変化にも適用されない、文法的変化は実際に存在しているのである。確かに、文法的変化の多くは、(文法的変化の間接的帰結として)(55)、《音声変化に溶解される》、しかしながら、「ひとたび音声的要因を排除してしまうと、《文法の歴史》という概念を正当化してしまいそうな余地を残すことになる。ここにおいて、真の困難さがあるのである」(56)。

 Saussureは、明確にこの困難さを認識していた(これは根本的な矛盾である)、しかしこれを排除しようとはせず、説得力ある理由を示すことなく、単に「共時的なものと、通時的なものの区別は、常に保持すべきである」と言う、言い換えれば、彼の判断によれば、慣習は諸事実の現実に優っているということになる。

 

1.3.1.Saussureの中に、言語変化に関する一連の鋭い直観を見出すことができる、つまり変化の理由は、言語活動(言語)の《歴史的に客観的な瞬間》に見出されるのではなく、その《主観的瞬間(発話)》において見出される(57)のである。これは類推を《体系的創造》と解釈したり、《一般的改新》を拒否したりする考えなどである。これらの見解は、彼が採用している視点のゆえばかりではなく、彼の学説のいくつかの基本的側面によっている、つまり:

a)言語状態言語を単純に同一視すること(第1章3.3.1参照)

b)《作られた体系》つまりエルゴンとして体系をとらえる彼の見方。

c)言語をDulkheimのいう《大衆》というものの中に位置づけたこと(これは彼がプラトン的なものを欠いているということである(58)、そしてこのことは、言語と具体的言語活動との分離を暗に含んでいる。

 

1.3.2.実際に、Saussureは、共時態(言語状態)は《近似値》aproximacionまたは、《習慣の単純化》であるとしている(59)。しかし彼は一度ならず、共時態に恒常性というものを付与し、そして「それ自身の中で考えられている価値の体系と、時間が機能している所で考察されたその同じ価値」、および「言語はそのあらゆる部分が、その共時的連帯性において考察されうる、そして考察されなければならない体系である」(60)、というようなものとしての《その言語》とその恒常性を同定しようとする。同様に、彼は、《一般文法》と呼ばれるものは、すべて共時態に属していると考える(61)、そして既に見てきたように、彼は音声的および進展的なものと、文法的および恒常的なものを対立させている(注47参照)。Saussureにとって体系とは、基本的に1つの状態である、そしてこの状態は、ある程度安定的である。そしてもし恒常性が、共時態に帰せられ、言語《それ自身の中で》ということが、歴史上のある一瞬間と同一視されるなら、通時態は体系とはほど遠いものとなり、また理解しにくいものとなる。このことはつまり、使用されている言語体系は、常に2つの意味で共時的であるということである、1つは各瞬間に言語の諸要素は、それぞれ他の要素と関係し合っているという意味で、そしてもう1つは体系それ自身は、その体系の使用者と共時化しているという意味で(1.2.1参照)。しかし厳密に言って、この後者の理由によって、言語は静態的ではなく、言語は動的である。加えて、この《静態性》は、共時的事実ではなく、明らかに矛盾しているが通時的事実である。このことを論証するために、時間の軸に沿って考えてみなければならない(第1章3.3.1参照)。

 

1.3.3.Saussureにとって変化とは、《破壊的》、《攪乱》、《体系の組織化に対立する盲目的力の闘い》である、なぜなら、基本的に彼の言語についての概念は、一度に全体が作られた、また閉じた体系、つまり《具体化された抽象物》というところにあるからである。近いところではSchleicherに遡りうるこのような考えは、言語と惑星の体系の比較において見られる、「これは恰も太陽の周囲をめぐる惑星の1つが、容積と重量とを変じたようなものである。この孤立した事実は、一般的帰結をもたらし太陽系全体の均衡をずらすであろう」(62)。これは明らかにコペルニクスの言うところの太陽系全体は、「どのような部分をも、残りの部分または宇宙全体の混乱なしに置き換えることはできない」、というように関連し合い、存続している、との有名な立言と関係している。しかしこの類推は、たいへん不適当である。言語は、物の体系ではなくして、行為のモデル、様式としての技術的体系である(第2章3.1.3参照)、そして言語は、閉じた体系ではなく、開いた体系である(第4章4.1.1参照)。それゆえ、言語体系の中に、全宇宙の混乱なしに(sine totius universitatis confusione)新しいものを導入しうるのである。確かにあらゆる変化は、ある程度体系を変容させる、または少なくともその平衡性を変容させる、しかしそれを攪乱させることはない。つまり変化は、Saussureの言っているような《全体的》なものではない(1.2.3参照)。言語は、事実その中に多くの構造を持つ複合的体系である、それで例えば、範例における変化は、その当該の範例と同じ序列の他の範例との関係や、その内部関係に必然的におよび直接的に作用しない。また一方、あらゆる変化は、大変革を含むこともある、それで体系は、連続性を欠いたものとなるであろう。同様に変化は、Schleicherの考えたように、言語の不可避的退廃や崩壊に導くものではない、なぜなら変化は《破壊的》なものではなく、《再建》であるからである。

 

1.3.4.Saussureは、言語(ラング)は言(パロール)によって変化すると言う(1.2.2参照)。そして変化の基本的契機は《採用》であると見ている(63)。しかしながら変化は、《言語の諸状態》の間で、そして体系外で生起する、なぜなら ―社会的ではなく個人的事実である― パロール(発話)は、言語から解き放たれた現実だからである(64)。Saussureは、変化の体系的働きかけというものを無視していない、そして通時的事実は、線状的配列を有しておらず、異なった諸体系の中に連続的に再分布されると見ている(第6章注82参照)、しかしこの再分布それ自身は、1つの結果である、それでそれに対応する過程は、言語の外側で実現するのである、というのは‘言語諸状態の間で生起する変化は、それらの状態の中で存在する場所がない’からである(1.2.1参照)。これはSaussureが《完了した変化》を変質(mutacion)としての変化と考え、進行中の変化そのものを、変化しているものとしては無視している、ということである(65)。Saussureのいう変化は、ある要素を別のものによる置換ということである、即ち言語に新しい事実が存在するためには、旧い事実がそれにその位置を譲る必要があるということである(1.1.3参照)。そして彼は、それを各話し手の言語的技術と解された言語(このことは彼に受け入れられるであろう、第2章注53参照)の中にもとめるのではなく、《大衆の言語》の中に求めている。Saussureによれば、「あらゆる改新の歴史には、常に2つの分明な瞬間が見出されるからである、第一は、それが個人において発生した瞬間、第二は、それが外見上は同じでも集団によって採用されて言語事実となった瞬間である」(66)。すると変化は、この2つの瞬間のどこにみいだされるのかという質問がおこる。Saussureは、多分《パロールにおいて》と答えるであろう(67)。しかしこう考えると重大な論理的困難さに陥る、つまり《大衆》とか《集団性》というものを形成するためには、どれほどの個人を必要とするのであろうか、ということである。10人の個人よりなる最小の言語共同体というものを仮定すると、次のような質問が出てくる、改新が言語事実となるためには、何人の個人がその改新を受け入れなければならないのか、4人、5人、大部分の人、または全員か、そしてもし10人がその改新をうけいれなとすると、またはその最初の体系が2つの方言に分化してしまっているとするとどうなるのか。事実は、Saussureの第2の瞬間は、そのようなものとしては存在していない、ということである、つまりそれは、新しい言語事象をモデルまたは言語事実として採用する個人の行為に対応する一連の瞬間なのである(第3章3.2.2参照)。そして《改新》は、《伝播》し始める、言い換えれば、話し手によって表現的規準として採用され始めた瞬間から言語に属しているのである。そしてここでSausureのラングパロールの対立が紛糾するのである(68)、言い換えれば、《潜在的なもの》と《現実的なもの》の間の本質的で真性の対立や、《社会的なもの》の量的でまがいものの対立が紛糾するのである。Saussureは、「言語(ラング)においてはパロールにおいて試みられることなく言語(ラング)に存在するものは何もない」(69)、と言う。しかしすでに試みられているものは、《言語》であり、単なる《パロール(発話)》ではない、そして《かなりの数の個人にだけ排他的にではあるが、実際に使用されている》ものは(注39参照)、すでにその個人の言語に属しており、すでに《慣用》となっている(70)。共時態と通時態 ―体系と変化― の二律背反を理解するために、Saussureは歴史言語の多様性を犠牲にしている(71)、そして通時的なものを(別の二律背反によってラングから区別されている)パロールの領域へと押しやっている。しかしこれは用語の矛盾である、つまり《偶然的》で《瞬間的》なものである言は、連続性を欠いているのでそれはすぐれて《共時的》なものであるからである(注51参照)。そしてこれはまたSaussureの体系内における矛盾である、というのは彼の《通時言語学》は、まさに《言語の科学》である、言の科学ではないからである(72)。それゆえ変化するのは、言語である、しかし変化は言語において研究することはできない、なぜならそれは《体系外的》なものであるから。それで変化は、言において研究しなければならない、ということになる、しかしそれは不可能である、なんとなれば言は、《通時的》ではないから。Saussureのテーゼを受け入れるのであれば、この循環論より抜け出すことはできない。実際にSaussureは、本来的意味で変化の研究というものが存在するとは見ていない、それゆえ彼の《通時態》(歴史音声学)は、生起した変化の単なる記録簿ということになる(73)。

 

1.3.5 .結論として言えるのは、Saussureは、共時態を明確に設定すること、および共時的と通時的視点を区別するこ とに心を奪われ、この両者の違いは眺望による、ということに気付かず、この2つを和解させようとはしない、 ということである。逆に彼は、《通時的事実》は実際《共時的事実》 の所産であり、《変化》や《体系の再組織化》は、2つの異なった現象ではなく、ただ1つの現象であることに気付かず、眺望の違いを、現実の支持しえない二律背反としている(74)。しばしばSaussureの学説は、所謂青年文法家の《原子論》と対立する学説であると考えられている、これは部分的に正確なだけである、というのはSaussureは、青年文法家の本来の分野において彼らに対立していないからである。《原子論的》通時態に対してSaussureは、共時態の体系性を対立させる。しかし言語史においては、―つまり青年文法家の本来の分野において― 《原子論》と対立しないばかりではなく、それを根本的なものとしようとし、それを理論的に正当化しようとするのである。彼の通時態は、Paulの言語史(Sprachgeschichte)よりも《原子論的》である(75)。

 

2.1.共時態と通時態との二律背反は、根本的にSaussureが有意味的(精神的)なものと、言語活動の物質的なものを調和させようとする時に出会う超越しがたい困難さの表現のようであるし、また一方、彼の言語的現実についての鋭い見解と、彼の言語についての概念の不確実性とのSaussure自身における内的葛藤の表明のようでもある。実際にSaussureは、彼の学説の多くの疑う余地のない価値のゆえばかりではなく、彼の学説の中に危機の契機をも示していることによって、言語学史において抜きん出た位置を占めている。Saussureは、いまだ自然科学的言語学者であり、同時に彼によって自然主義は危機に陥った。

Saussureは、言語を 《自然的対象》つまり人間には外的な対象(つまり、これは真性の社会的対象なのではなく、 《大衆の言語》という意味なのである、第2章1.3.2参照)として認識し続けている、しかし一方、言語の根本的歴史性を直観している(1.1.2参照)。そして、《機能している言語》を考察するに際して、彼は機能している言語(ラング)は、本来的意味で発話(パロール)であるということに気付かずに、言語は話すことの具体的(歴史的)技術 ―即ち根本的に《文化的対象》― と解している(76)。加うるに、価値という概念によって(77) ―残念ながら彼はこれを文化的価値と解釈していない(この文化的価値という考え方は、彼に言語活動の物質性というものを取り戻させ得たであろうが)― 別の意味で自然主義より離れてゆくのである。しかしごく軽い意味で、彼は言語の文化的現実に関して、言語体系を《数学的対象》と解釈しようとしている。まさにこういう意味において、「言語は形式であり実体ではない」(78)とか、「言語においては、肯定的事項というものはなく、差異だけがある」(79)、という彼のテーゼが引き出されるのである。これらは言語についてのSaussureの多様な学説のうちのあれやこれやの本質的動機と常に合致しているが、こういうようにしてSaussureの言語学は、さまざまな意味においてとらえられるのである(80)。

 

2.2.ジュネーブ学派(Bally, Sechehaye, Frei)は、特に話すことの技術としての言語の内で、言語を機能させる様式に注意を集中している。そして《言語の機能性》は、本来発話(パロール)であると仮定すれば、ジュネーブ学派が、まさに《発話(パロール)の言語学》を発展せしめたのは不思議ではない。発話(パロール)の言語学に焦点を絞ることによって、発話(パロール)における言語変換のメカニズム、いろいろな表現のために言語が提供している物質の中よりの選択(言語の現実化、《言語の文体論》)、言語の利用としての発話(組織化されたパロールparole organisee)や、歴史的に淘汰されたものではないが、そのはじめのそして多様な形式の内から、ことばというものを仲介として規範を体系的に超越するという事実(誤用の文法grammaire des fautes)を、観察し研究しえたのでる。つまりこれは共時態、しかし活力があり脈打つそして変わりやすい共時態というものを研究したということになる。Saussure学派のうちでジュネーブ学派が、言語を《文化的対象》として解釈する考えに最も近く、そして意味上のニュアンスやその客観的価値にもっとも注目し、多くの《垂直的》多様性や言語の《文体的》多様性を記録しそれを評価することに最も早くから取りかかっていた。しかし、―言語活動の体系性における物質的なものの不十分な統合や《空間的》多様性に対する興味のなさなどと相俟って―、彼らの焦点がまったく実証的側面へ集中したので、ジュネーブ学派は、言語の日々の一般的自己形成という見方から抜け出せず、それによって言語の自己形成を歴史的過程として見るという眺望をとることができなかったのである(81)。

 

2.3.言理学(glosematics)は、逆に発話(パロール)ばかりではなく、その《実体》におけるどのような実現体とも離れ、抽象的な言語構造の研究に注意を集中することにより、言語を《数学的対象》として解釈するという方向に決定的にむかったのである(82)。実際、Hjelmslevの《言語》は、諸機能の網 ―数学的意味での《機能素》間の関係と解される― であり、いかなる《実体》に現れるもの(音声的、書記法的実体、等)とも独立している純粋に形式的対象である。言理学の主軸は、Saussureの《言語は形式であり実体ではない》というテーゼであり、その結果として、言語を純粋な形式的(関係的)構造へ還元するところにある。つまり言理学的見方からすると、《純粋な形式》でないようなものはすべて、本来の《言語(ラング)》(図式)ではなく、実現体、《発話(パロール)》(慣習)である(83)、 そして、純粋形式に関していえば、それ は《実体》である。それで、例えば音声言語は、それが表示している図式との関係で見れば、《実体》である。しかしこの主軸は堅固なものではない、第1に、言理学の学説において《内容》の実体(意味的実体)は、《表現》の実体に関して対称的(symmetric)位置を占めることはできない。実現体の種々の実体が存在しうる、そしてある意味で言語は、特定の実体から(しかしなんらかの実体からではない)《独立している》ものとして認識されうる(84)。しかし《内容》の実体は存在している、そしてこれに関して言えば、言語形式は、明らかに独立しているものと解することはできない。言理学の用語で言えば、言語形式は、《内容》の実体を伴って、《相互依存性》の関数(2つの常数間の関係)と結びついている、と言えるであろう(85)。つまり内容の実体なしには言語形式を認識し得ない、意味のない言語は存在しないということである。 第2に、《表現》の実体そのものは、決してどうでもいい(indiferente)ようなものではない。 Humboldt(86)によって言語学に導入された《形式》と《実体》という区別は、 (モルペー:形態) (フュレー:素材)という有名なアリストテレスの区別以外のなにものでもない。 さてこの区別とVicoによって設定された対象の基本的タイプの区別とを結びつけて  ―これはアリストテレスにおいて既に素描されている(87)【訳者注:モルペーとヒュレーについて、アリストテレスの著作より引用を追加】― 次のように言うことができる:

a)自然的対象物において、形式は実体によって限定される。その対象物は、形式を引き受けている実体である。例えばある特定の実体は、ある特定のやり方で具体化されている。

b)数学的対象物において、偶発的実体はまったくどんなものでもいいものである、つまりそれらは実体における偶発的実現体に決して依存しない純粋な形式である。

c)文化的対象物において、実体は形式によって限定(選択)されている、つまりそれは実体を引き受けている形式である。

 言語活動もその中にふくまれている文化的対象物において、実体はどちらでもよいものではなく、 また無視されうるものでもない(88)。つまりこれは、実体は《限定的》であるからなのではなく、 まさに形式によって限定されるからそうなるのである、また言い換えれば、形式は、選択された実体の可能性を あらかじめ考慮して、それに便利な実体を選択するからなのである(88-bis)。するとわれわれは、言語活動と芸術 の中で類似の状況に出会うことになる、即ち塑像は確かに形式である、しかしこれは最初からある限定された実体 に組織化された形式として知覚されている、つまりブロンズ、大理石、木材または石と知覚されるのであり、 なんらかの物質と知覚されることはない。ある形式を部分的に他の実体に移すということは、明らかに可能である、 例えば大理石の塑像からブロンズのコピーを作ることができる、しかしながら新しい物質においてその形式は、 《同じ形式》であることを止める。つまり違った実体で実現されたものは、実体ばかりではなく形式の偏差をも 暗に含むからである。Hjelmslevは、《フランス語とか英語のような言語でノーマルな場合》、音素的分析と、 書記素的分析は2つの異なった《記号的形式》を結果としてもたらす、としている。しかし《形式》の独立性を 明らかにするために、彼は発音やそれに対応する音韻的表記の場合のアブノーマル な例に頼っている(89)、しかし彼は、そういうアブノーマルな例は、習慣によるものであり、明示的な習慣によって副次的実体は、別の形式ではなく、ある形式そのものを表していると考えられる、ということに気がつかなかったのである。このような場合、書記法に転写されるものは、音的形式ではなく、転写されるべきであると決められ、また書記法上の手段で表示し得るものであるにすぎない(90)。このことはつまり、実体は、《どちらつかず》であるのが都合がよい時に(また、その時に限り)、問題とされることはない、ということを意味する。それゆえ実体を無視し、所謂《純粋な形式》だけを考察するということは(91)、言語を習慣的に《数学的対象》に還元するということを意味する。このことは、もし明白に習慣的なやり方で行うなら重大なことではない、というのは、文化的対象を含めてあらゆる対象は、 数学的対象として数学的に研究しうるからである。しかし、 もし言語をそういうように考えることが《最適》(または唯一の適切さ)であり、研究対象のまったき現実に対応している(92)、というように考えるなら重大なことになる。というのは、これは文化的対象をまさに数学的対象に還元する、言い換えれば、言語を本来の言語とは別のものに変換するということになるからである(93)。それで言語を数学的対象として、―つまり単に共時的な構造としてではなく、恒常的、静止的、非時間的な構造として― 見ることによって、言理学は、言語体系の歴史性、動力性についての考察を妨げ、変化の問題を設定し得ないのである。

 言理学は、体系はいかにして恒常的であるのか、つまり言語を言語たらしめているもの、また言語として機能せしめているものを論証しようという、まったく正当で本質的な仕事をめざしている。体系が恒常的であるとすると、その際体系に変化が起こるという視点から見て、言語と擬似言語体系を区別することはできない。「各[ディスコース]プロセスにとって、対応する1つの体系がある」(94)、ということは疑問のないところである、しかし各言語体系には、1つの歴史的過程、《発展》がある。それゆえ、体系は、理解可能であり発展と矛盾しないような特徴をそなえていなければならない。

 

2.4.プラーグ派音韻論は、Saussureの体系のうちの批判の的になる所(言語の音声的物質について論じている所)に注目し、物質的なものを体系性へ統合することにより、その結果としてSaussureの二律背反をうち破るという結論を引き出した、そして彼らは、最初から、共時態と通時態の必然的な相互依存性を確認するのである。しかし《外的対象物》としての言語の概念を保持しようとして、彼らはたやすく、体系の《因果律》とか、《客観的合目性》(目的論)という幻影に落ち込んでしまった。そして《話し手に課される》言語と、外的必然性によって話し手に課される変化というものを置き換えるという危険をおかすことになる。実際の音韻論の特定的なものにおいて、自然主義の克服ということは存在する(なぜなら体系の各要素は、その機能によって価値をゆうするから)、しかしこの克服は、歴史的レベルにおいて獲得することはできない、というのはその全体性における言語というものは、言語活動の内存的技術としてではなく、《所産》としてとらえられてきたからである。こういう理由から、ある音韻学者が、《内的》要素と《外的》要素との区別に帰そうとする意味がここにある、そしてまた、実際には許容されない、しかし音韻論によって認められた非機能的(音声的)変化という物理主義が出てくる。またこれに加えて、Saussureの《言語》と《言》という二律背反の保持、およびすべての構造的研究が暗に行う必然的還元によって(第6章4.3.3参照)、音韻論は変化を言語の諸状態の間で生起する現象として提示し続けているという事実がある。通時的構造主義は、Jakobsonによって与えられた最初の衝撃によって、特にMartinetの著作に見られるような(95)、言語のダイナミックな見解に到達したのである。しかしこれはまだ十全な理論的な正当化なしに、論証された事実上の動力性ということを問題にしているにすぎない。通時的構造主義は、歩を進めるべきである、そして言語は変化するがゆえに、―つまり変化は《事実》であるので― ダイナミックなのではなく、言語の本性がダイナミックであるから、または言語活動は、自由な創作活動であるので言語は変化するのである、ということに気付かなければならない。加うるに、あらゆる因果律から自由になり、言語は変化を引き起こすところの実現された体系としてとらえるのを完全に排除し、変化を体系の自己形成としてとらえるようにしなければならない。最後に、音韻論本来の発見したものと歩を同じくして、通時的構造主義は、単なる《通時的》であることを止め、構造的歴史に変換されなければならない。

 

3.1.理論的視点よりして、Saussureの二律背反は、実際に言語活動をエネルゲイアとしてとらえ、また変化を単に体系の変容としてではなく、体系の連続的構築と解することによって根本的意味で超越できるのである。経験的に変化を説明するためには、体系から出発する、つまり体系を所与のものと考え、変化を問題として考えるのである。

 しかし厳格にそして合理的に考えれば、用語を逆にすることができる、というのは、言語的様式を《構築する》ということは、《構築されている》ということに先立っているからである。体系の形成を理解するためには、(ある限定された瞬間の体系を記述するためにではなく)変化から出発しなければならない、というのは、体系の現実は確かに、変化の現実よりも問題が少ないというわけではないからである。言い換えれば(言語の再自己形成をも含んでいる)言語一般の自己形成より出発すべきである、ということである。《そのような体系とは、一体どういうものであるのか》という質問に対しては、その現実における体系そのものを記述することによって、答えられる。そしてこのようなタイプの解答は、一般に言語体系とはどういうものか、ということを設定するために一般化すらされる。しかしながら、《なぜ体系が存在しているのか》という質問に対しては体系は自己形成しているので存在しているのである、と言ってこれに答えうるだけである。その結果、もし言語があらゆる瞬間において、体系であり、あらゆる瞬間に、言語が変化しているのにわれわれが出会うなら、これはつまり言語は体系として変化している、言い換えれば、体系的に自己形成しているということを意味する(第4章2.3参照)。つまり言語を言語たらしめているものは、単にその構造ではなく(これは単にその機能性の条件であるにすぎない)、言語を伝統として創造し、また保持している言語的活動である。さてもし変化を言語の体系的自己形成と考えるとすれば、明らかに《体系》と《変化》の間の矛盾は存在せず、―対立するものとしての― 《体系》と《運動》について云々することはできず、《運動の中にある体系》についてのみ云々することができるのである、即ち、言語の発展は恒常的、恣意的で不安定な《変化》ではなく、恒常的体系化である。そして各《言語状態》は、体系化の瞬間であるので、厳格な体系的構造を示している。体系化という概念によって、共時態と通時態の間の二律背反は、根本的に超越できる、なぜなら通時的なものの非体系性と、体系的なものの仮定的静態性を同時に排除するからである。その結果、体系としての言語を理解するために、変化を排除したり無視する必要はないこととなる、というのは変化は体系的であるということに対立するようなものではないからである。逆に言語諸体系としての本来の体系 ―ダイナミックな体系性― の否定は、言語を《死語》としてしまい、その言語の機能性を不可能にさせる静態性に通ずる(第2章1.1参照)。

 

3.1.2.一方Saussureの二律背反は、克服するということの根本的意味で、言い換えれば、放棄されるということではなく、区分としてはお互いに保持しながら、矛盾として《止揚》されるという意味で、超越されるのである。(記述歴史という)視点の区分ばかりではなく、現実の区分、つまり言語の機能自己形成との区分、または各話し手や変化の最小単位という視点からの言語様式の使用採用という区分を保持すべきである。言語は共時的に機能し、通時的に構成されている。しかしこういう云い方は、二律背反ではなく、また矛盾したものでもない、なぜなら自己形成ということは機能ということを考慮して行われるからである。それでこれに対応する諸研究は、お互いに区別をちゃんと行いながら、そのような二律背反の超越ということを暗に含んでいなければならない。

 

3.2.この二律背反の実際的超越は、記述においては不完全なものである。記述は体系の現実、つまりある1つの《状態》に身を置くので、不適切なものとなることなく過去の諸状態に言及することは出来ない。その仕事は当該の言語の現実の機能を考察するということである。とは言っても、現実の機能性そのものは、未来へ向かう《言語状態》の可能的超越というものを暗に含んでいる。実際、現実の言語の本来の話し手にとって、すでに実現されている諸形式の総体は、言語をそのようなものとして利用するモデル(規範)であるばかりではなく、実現されたもの以上のものとなるための技術、《諸可能性の体系》(体系)でもある(第2章3.1.3および第4章注32参照)。それで記述は、まだ規範として存在していないものの実現体に適用可能な図式、つまり《生産的規準》であるところのものすべて、または開かれた諸可能性を考慮しなければならない。そして、同じことが形態論だけではなく、統辞論、語彙論(語の派生、語構成)(96)、音声体系においても言える、そこでは実現体の幅は、あらゆる機能的単位と同定されることはない。つまり言語を開かれた体系として考えなければならないということである、というのは、言語は話し手にとって、そういうものとして存在しているからである。これによって話し手は、言語を使用しながら伝統を超越しうるということになる。

 第2に記述は、記述される《状態》が《体系化》の瞬間つまりダイナミックな現実の瞬間であることを考えに入れ、共時的体系そのものにおいて、その不安定性のあらわれ、つまり言語の現実の動力性のあらわれであるものをすべて記録しなければならない。それで体系の内的矛盾(第4章4.4参照)や《弱い場所》(構造の枠に入っていないものや、小さな機能負担しかないもの)を明らかにしなければならない。均衡していないものを《均衡している》として示そうとしてはならない、例えば、機能的に不均衡なものとなっているものを、所謂《体系の均斉》によって均斉にさせようとする細工は諦めるべきである(第6章注44参照)。最後に、記述は研究している言語状態の《内延的》および《外延的》変種に注目すべきである、というのは、このような変種は共時的投影における言語の動力性の別の反映だからである(第4章2.4参照)。そして話し手にとってこれは、選択の現実的可能性を表している。それで《絶対的に均一な》言の様式を記述しようという性向は、放棄しなければならない(97)、というのは客観的にそのようなものは存在しないからである。現実の話し手は、常に多様な伝統に直面しており、異なった表現意図のためにそのうちのどれかを自由に使っているのである。構造的図式は、言語的変異を廃止するためではなく、それをとらえ、秩序付けるために役立たなければならない(98)。さらに同一の《言語状態》の中に諸体系が共存するので、変種のうちのあるものは、《大体系》の序列に属することもある、ということを銘記しておかなければならない(第2章3.5.1参照)。

 

3.3.1.とは言っても、今後も決して実現されることのない体系化の諸可能性というものにだけかかわっていたのでは、記述は言語の具体的な動力性をとらえることはできない。それで言語の研究において、Saussureの二律背反のまったき超越は、歴史におてのみ行われる、つまり歴史だけが《その自己形成の中に諸事実を見る》のである(第6章4.3.3参照)、そしてそうすることによって、自己形成と機能、またはSaussureの用語では《諸連続》と《諸状態》というものを、ただ1つの視界でとらえるということになる。別の云い方をすれば歴史だけが、言語を《自己形成している体系》または、その発展の各瞬間における《1つの伝統の現実》として考えることにより、言語のダイナミックな現実の完全な考察を行うことができる。しかしながら、言語の歴史は《外的歴史》と解すべきではなく、《内的歴史》、歴史的対象としての言語そのものの研究、と解すべきである。これは所謂《歴史文法》というものを完全に包摂し、またそれに溶解されるべきものである(99)。ある時期に1部保持され、1部変容され、また置換される言語諸様式の歴史は、確かに伝統または文化の歴史である。しかしこれは他の様式に必然的に反映される(時に語彙に)超言語的な別の文化史であるばかりではなく、それによって文化が構成される特定的、基本的形式の歴史である(第2章3.3参照)。

 

3.3.2.Saussureは言語の歴史を、単なる《原子論的》通時態に還元し、それと共時態の体系性を対立させる、なぜなら言語を《作られたもの》、そして言語変化を《偶然的破壊》と考える彼の視点よりすると、本来の意味での歴史は意味を失うからである。しかし意味を欠いているもの ―物質的に生起した事実の記録としてということを除いて― は、単に通時態であるとも言える。すでに見てきたように、文法的変化を無視することはできず、またもし《文法的》ということを《体系的》と解するなら、音的変化もまた文法的ということになる。そしてまた、変化は《孤立的》でも《体系外的》でも《偶然的》(非意図的)なものでもないことを見てきた。これに加えて、一貫性をもたせるために通時態(通時言語学)は、変化だけを考察し、言語の連続性を無視するのである、ということを思い起こすべきである。しかしこれは重大な間違いである、というのは変化によって示される新しい秩序付けにおいて、継続してゆくものは、それが物質的に保持されているときでも同一のものとしては留まらないからである。それで所謂俗ラテン語において中性が失われた、ということは、中性に対立していない男性・女性は古典ラテン語のそれとは最早同一ではないからである、とは言えない。つまり実際に生起したのは、中性の単なる消失ではなく、文法性(gender)の体系の改革である。同様にラテン語の3段階の指呼詞を失ったロマンス語では(つまりhic-iste-illeがなくなる)、指呼詞体系の全改革が行われたということになる。変化は、言語の連続性の枠外で理解することはできない。それゆえ、Saussureの通時態は、連続しているものに注意を向けない時には、なんらの現実に対応していないということになる。Saussureは、音的変化に対応しているものと考えていたが、しかしこれは正確ではない(100)。

 

3.3.3.事実、変種を欠いているものとしてのSaussureの抽象的な言語は、また歴史的連続性を欠いている。Saussureは、言語は実際に史的出来事(geschichtlich)のようなものであることを無視していないが、言語学がどのようにして歴史的(historisch)でありうるのかについては、考えていない。これは彼の言語についての直観が、彼の言語についての概念と合致していないからである。直観的には、言語は時間において連続性を帯びているものとして彼には提示されている、がしかし、彼の言語についての概念は、その間で変化が生起する状態、または一連の状態といったものである。ある時Saussureは、言語学の仕事は、「あらゆる言語を記述し、歴史を書くことである」(101)、と言っている。しかしすぐに彼は、歴史とか歴史言語学という用語を使うのを許さないようになる、なぜなら「政治史は、諸時代の記述や事件の物語りをも同じように含んでいる」とすると、このことによって、「継起的諸言語状態を記述する際には、言語は時間の軸に沿って研究される」と思いこませてしまうからである、しかしながら、現実の言語は、共時態を形成しているだけなのである。歴史を作るためには、「言語のある状態から他のそれへ移動させる諸現象を個別に見ていかなければならないだろう」(102)、としている。しかしこういう風に研究を進めると、研究は不統一なものとなる、なぜなら言語は継起性の軸と同時性の軸の上を交互に動くからである。それでBoppによって始まった言語学は不統一であるということになる、なぜなら、それは「状態と継起とをうまく区別できなかったので、2つの領域にまたがっている」(103)からである。それで言語の歴史は、Saussureにとって不統一以外のなにものでもない。不統一は必然的なものである、なぜなら「各言語は実際に、研究の一単位を形成しており、ことの性質上言語を相互に、歴史的(通時的)、静態的に考察するようにさせる」(104)からである。しかしながら、これで理論的な不統一ではなくなったということではない。しかしなぜ各言語は研究の1単位を形成するのであるのか。Saussureは《ことの性質上》(つまり現実によって)課されるものは、単なる不統一ではなく、理論的に説明され、正当化されるべきものである、とは考えていない。そしてもし変化が《諸状態の間》や、言語外の所で生起せず、また単なる《継起》というものが存在せず、そして《言語諸状態》とは静態的な諸段階というものではなく、連続的《体系》の諸瞬間である、と解するならば、彼のあらゆる観察は失敗に帰していることに気付かなかったことになる。逆に、彼にとって言語とは、例えばある政治史を研究するときに、その政治史の対象物とは違ったある特有の状況下に存在しているようなもの、としているようである、それで「諸国民の政治史は、まったく時間の中で動く、しかしながら歴史家が一時代の図式を作ろうとも、われわれは歴史から離れるという印象を持つことはない」ということになる(105)。即ちSaussureは、幻影つまり《言語状態》の記述を行うに際しては、歴史の外へ出なければならないという信念は、まったく正反対であることに気付いていない、ということである(106)。歴史的対象の記述とは、実際の所その歴史の1つの瞬間を記述することである。

 

3.3.4.共時態と通時態(共時言語学と通時言語学)の二律背反、またはこの二重の区別は、まったく歴史の意味また歴史の記述との関係に関する幻覚に基づいている。Saussureは、共時態は通時態(過去)を無視するように、通時態は共時態(言語諸状態)を無視すべきであると考えている。しかし前者だけが確かで、正当である。事実、共時態はある一定の言語状態を研究するときには、同時に他の言語状態に注意を向けることはできず、言語の一連の瞬間と、ただ1つの瞬間とを混同することはできない、つまりもしこの2つを混同すると、一貫性のないそして混沌とした記述を提示するということになるからである。通時態は逆に、共時態 ―もっと正確に言えば、《諸共時態》つまり所謂連続性の軸に沿って並べられている無限の言語状態― を無視することはできない。これは、通時態は共時態に依存しているという理由によるものではなく、共時態を無視するということは、時間の中で連続している言語を無視する、または対象外に身を置くということを意味するからである。言語の1瞬間は、他の瞬間に注意を向けることなく記述しうる、しかしこれは部分というものは、全過程あるいは、ある1つの段階から切り離すことができるという意味においてのみ言えることである。しかしあらゆる面にわたる記述は、一部分をも無視することはできず、過程の記述はその諸段階を無視することができない。同様に《体系化》の研究は、体系化それ自身の諸瞬間を無視することはできない。それで、記述は歴史を包含していないという意味で、歴史とは《独立》している。しかし歴史的対象の一瞬間を記述するとは、《それとは知らずに》1つの歴史を作っているということである。そして歴史は逆に、記述と対立している、しかしある特定の仕方で対立しているのである、つまり歴史は記述ではない、しかし記述を包み込んでおり、記述を閉じこめている(107)。それでSaussureの共時態(記述的なものよりももっと進もうとする彼の意図は別として)は、まったく正当であり、必然的である、そしてこれはSaussureの言語学に対する真実の現実的貢献である。逆に彼の通時態は、まったく正当なものではない。それで通時態を共時態に《調和させる》必要はなく、Saussureの通時態を否定すべきである。純粋な通時態というものは、意味をもたず、通時態は言語の歴史となるべきである。事実、言語の歴史は共時態と通時態の二律背反を超越するのである、なぜならこれは原子論的通時態の否定であり、同時に共時態と矛盾することはないからである。

 

3.3.5.また共時言語学通時言語学という用語は、それが暗に含んでいる矛盾および曖昧さのゆえに、受け入れがたいものとなるので、それを排除するのがよいのであろう。それで記述言語学歴史言語学という用語と置き換えるのよいかもしれない。しかしこれも議論の多いところである、なぜなら、記述言語学は実際には歴史言語学の一部分(最初の部分)であるにすぎないにもかかわらず、この用語は、2つの異なった言語学が対立するように思われるからである。それで単に言語の記述言語の歴史というのがよいであろう。言語の記述と歴史は、両者とも言語活動の歴史的レベルに位置しており(第2章2.1参照)、共に歴史言語学(言語の研究)を形成する。そしてこれは時にあたって、同じ現象の別の2つのレベルに対応することばの言語学テキストの言語学に置き換えられる(108)。

 

.言語の発展を連続的《体系化》と解することによって、特に言語の《共時的本質》についての確言や、言語体系の《不動性》についての確言が暗に含んでいる真実を認識できる。

 言語は常に共時的に機能しているという意味で、または言語は話し手の歴史性と言語の歴史性とを合致させて、常に話し手と《共時化》しているという意味で、《共時的》である。このことは、言語は《変化すべきではない》ということを意味するのではなく、逆に機能し続けるために連続的に変化しているということを正当化するものである。第2に、体系はそれ自身の中に変化の原因を有しておらず、それ自身によって発展することはないという意味で、体系はそれ自身《不動的》である。つまり体系は《進展》せず、話し手の表現的必要性と合致して、話し手によって作られるということである。第3に、言語は絶え間なく変化する、しかし変化は言語を破壊することはない、そして《言語存在》(言語であるということ)としての言語に影響することはない、そして言語存在は常に無傷のまま保存される。しかしながら、《体系存在》(体系であるということ)は、変化と独立したものであるということを意味せず、逆のことを意味する、なぜなら言語における変化は、自然界における変化が有している意味と根本的に違った意味を有しているからである。自然界の変化は、自然対象物や有機体を《破壊する》、つまり以前のものとは別のものに変えてしまうし、または死なせることもある。一方言語における変化は、自然科学的用語で言われるような《解体》や《損傷》ではなく、体系の《再構成》や《改新》であり、言語の連続性や機能性を保証するのである。言語は変化によって作られる、そして変化しなくなった時に《死ぬ》のである。最後に、言語の機能的体系は、直接的に変化するということはなく、また《絶え間のない動揺》をしながら変化するものでもない。連続的に変容せられるのは、その実現体であり、その平衡性である。しかし体系は《諸可能性の体系》である限り、共時態を介して常に保存されている、そしてどんな時でも、《突然変異》、つまり規範の全面的転覆が起きるまでは、《同一》であり続ける。しかし時間における体系の継続性とは、言語がその本質からして《共時的》または《不動的》であるということを意味するのではなく、それは言語の歴史性のしるしであるということを意味している。言語は形成されるのである、しかしこの形成は歴史的な形成であり、日々の形成ではない、つまり継続性や連続性の範囲内での形成である。それでその歴史の2つの継起的な瞬間において考察すれば、言語は《まったく別のものではなく、またまったく同じものでもない》ということである。しかし部分的に同じものとして保存するということや、新しい伝統を合体させるということは、まさに言語としての機能性や《歴史的対象》としての性質を保証することである。歴史的対象は、もしそれが永続的であると同時に継起的である時に限り、歴史的対象である。逆にただ永続的(例えば観念的なもの)、または継起的(例えば月の満ち欠けや海の干満)であるものは、いかなるタイプの歴史を持つことはない。


第7章の注

(1)「Cours」,p.162:p.127

(2)「Cours」,pp.174,231:pp.139,197

(3)「Cours」,p.159:p.124、「変化は要素にばらばらに適用されているにすぎない」、p.165:p.130。「通時的事件は、偶然的または特有な性格を常に有している」、p.289:p.252、「音声変化は音素に個別的に作用を及ぼすだけである」。

(4)「Cours」,p.155:p.120,またpp.167-168:p.132を参照、「通時的事実は特別なものである;体系の移動は、体系にとって無縁であるばかりではなくお互い孤立した事件の作用により、それ自身で体系を形成することなく行われる」。

(5)「Cours」,pp.154,157,160:p.119,123,125.

(6)「Cours」,p.160:p.125

(7)「Cours」,pp.136,81:p.103,48. またp.140:p.106を参照、「すべての変遷を支配しているものは旧い資料の存続ということである、過去に対して忠実でないということは、単に相対的なものである」。

(8)「Cours」,p.151:p.117

(9)「Cours」,p.46:p.16

(10)「Cours」,p.168-169:p.133. また《あるモデルの模倣はどこまで拡大するのかを予測すること>の不可能性については、p.261:p.226を参照。この件についてはまたR.S. Wellesの"De Saussure's System of Linguistics", 《Word>,III,p.24を参照。彼は、言語の体系性というものは現在の言語状態からそれに続く状態を推定しうるような可能性を暗に含んでいる、と理解しているようである。「言語学が過去ばかりではなく、将来についても予測しうるようになれば、言語学は科学の本質的領域に到達したことになるであろう。Saussureは、”あるモデルの模倣はどこまで拡大するのか、またそれを喚起すべく定められたタイプはどれかについて予測することはできない”、ということを認めているので、Saussureにとって言語学はまだそういう勝利を獲得していない、ということを示している」。しかしながら、Saussureの言明は、実際のところ言語学の現実の状況に関することではなく、特定のものを予測することが不可能である(第6章5.3.6参照)。この場合間違っているのは、Wellesである、というのは自由ということにかかわる諸科学は《予測>できず、またすべきではない、そして[自然]科学の《本質的領域>に到達しようと鼓舞すべきではない。しかしこれは自由ということにかかわる諸科学にとって決して《勝利>ではない(第6章5.4.3参照)。またp.30で、Saussureが汎時的法則について述べている所について、Wellesは同じような状況は他の《精神にかかわる科学>にもあるとしている。しかしこれは一時的な状況であると信じているようである。そしてこれに加えて、「さらにSaussureはこの不完全性は言語学に内存しているものであることを示そうとする試みを行っていない、また条件をより明確にすることによっても、音声変化や他の言語的現象の汎時的法則を明らかにするような進歩は今後期待できない、と信じせしめるような理由についても述べていない」、と言う。しかし逆にSaussureのほうが正鵠を得ている、なぜなら彼は《不完全性>について論じているのではなく、文化にかかわるあらゆる科学に内存している必然的な特性について論じているからである。不合理的なものを信じる人は、そのことを明らかにする義務がある、しかしそれを信じない人にはそれを明らかにする義務はない。別の言い方をすれば、2+2は4であると言う代わりに、5でも6でも7でも...(そして無限に否定する)ないということを納得させる理由を明らかにしなければならない。Saussureについて考察するに際して注意しなければならないことは、諸原理は《具体的事実から独立して》存在しえないということである、つまりそれらは事実それ自身の中で所与のものとなっている合理性というものから見て必然的なものの表現であるにすぎない。

(11)「Cours」,pp.64-65:p.33, 「それゆえ言語(ラング)と言(パロール)は相互依存している、前者は後者の道具であると同時に所産である」。

(12)「Cours」で見られると同じ意味での他の直観については、[SNH],pp.33-35を参照。

(13)「Cours」,pp.263-267:pp.228-232. 類推についてSaussureは、《体系の意識>ということを明確に認めているのを思い起こすべきである。「類推は諸形式をつなぐ関係についての理解と意識を仮定している」(p.265:p.230)/

(14)「Cours」,pp.276-277:p.240-241.

(15)[SNH],p.65と本書第6章4.3を参照。

(16)「Cours」,pp.166-167:pp.131-132. Saussureの用いている類推は、彼がそれによって確認しようとしていることをむしろ否定するのに役立っている。《メロディー>ではなく、《ピアノの弦>における変化は、まさに《体系>における変化であり、単なる《実現体>における変化ではない(第3章4.4.4参照)。

(17)「Cours」,p.263:p.228. 「音声変化はそれに先立っているものを無効にすることなく、新しく導入されることはない」。またpp.155,162:pp.120,127を参照。Saussureにとって2つの文法的叙法や同機能の語彙の共存は、言語(ラング)の事実に属することである、一方2つの音的異形の共存は言(パロール)に属することである(1.2.4参照)。

(18)「Cours」,pp.231,248,360:pp.197,214,313

(19)「Cours」,pp.140,143,145:pp.106,109,111. および本書第5章注6を参照。

(20)「Cours」,p.174:p.139, また別の所で《集団意識>について語っている、しかしこのような意識は存在しないとすれば(第2章1.3.1参照)、単に各話し手の意識と解すべきである。

(21)「Cours」,pp.149,160,161:pp.115,125,126を参照、「共時態は1つの眺望、つまり話す主体の眺望だけしか知らない、その方法は彼らの証言を集めることに存する。ある1つの事物がどの程度まで現実であるのかを知るためには、その事物が話す主体の意識にとってどの程度まで存在しているのかを知るためには、その事物が話す主体の意識にとってどの程度まで存在しているのかを研究する必要があり、それで十分であろう」。またp.337:p.301で、「共時言語学はただ1つの眺望、つまり話す主体の眺望しか認めない」。

(22)「Cours」,p.161:p.126

(23)「Cours」,p.161:p.126

(24)「Cours」,p.293:p.257

(25)BallyとSechehayeは、「Cours」,p.235:pp.200-201の注でSaussureの思想を正しく理解している。彼らは、「体系は決してその進展の中では知覚されない」という意味において進展は体系にとって外的なものであるとしている。またそのことに加えて、Saussureにとって言語学は、もっぱら心理的科学である(第2章1.3.1参照)。

(26)しかしながらSaussureは、こういう区別はしていない。彼にとっては《特殊なもの》は(そして部分的なものは)それ自身で《外的》なものである。また「Cours」,p.157:p.122を参照、そこで彼は《部分的事実》と《体系にかかわる事実》との対立を設定している。

(27)「Cours」,pp.64,172:pp.33,136

(28)「Cours」,pp.154:pp.119-120

(29)「Cours」,pp.154,155,160:pp.119,120,125

(30)このことは、R.S.WellesがArt.cit.p.2で述べていることと反するものである。彼によれば、「体系によって受けた変化(特定の時期の特定の言語の体系による)は、体系それ自身によって引き起こされたものではないとする観念は」「Cours」の明らかに支持し得ない2つの観念のうちの1つである、としている。

(31)「Cours」,p.70:p.38

(32)「Cours」,p.207:p.172

(33)「Cours」,pp.165-166:p130。この変化についてSaussureは次のように言う、「体系の中で実現されるので、法則という外見をとるのである」、「通時的事実は、共時的事実と同じ条件に従っているという幻想を作っているのは、体系の厳格な配列のゆえである」。しかし体系の中で実現されるものは、内的なものではないのだろうか、そして、体系的に生起するのは変化のゆえではないとすれば、どのようにして《体系の厳格な配列》というものに達するのか。

(34)「Cours」,pp.151-156:p.116-121

(35)それでたとえば、フランス語のアクセントの場合(p.156:p.121),理由を示さなければならない変化は(またはその非体系性を明らかにしなければならない変化は)、アクセントの位置の移動ではなく ―これは現実には生起しなかった― 強音節の後の音節の縮小や脱落である。Saussureの言うように「《アクセント付け》体系を変化させようとしたわけではない」。しかしながらこれは単なる偶然ではなくして、体系的変化の《反響》にかかわっている。

(36)「Cours」,pp.248,359,363:pp.214,322,326等を参照。

(37)「Cours」,p.152:p.117を参照、「これらの通時的事実は、それが作り出した静態的事実となんら関係はない、つまりこの2つの事実は異なる序列に属しているのである」。またp.153:p.119で、「通時的事実は、それ自身の中に存在理由を持っている事件であり、そこから派生した特定の共時的帰結は通時的事実にとってまったく無関係である」。Saussureは明らかに、この2つの眺望の中に同一の事実について言及することはない。例えばpp.156,165,171,249:pp.121, 130,135,215等を参照

(38)Saussureの学説のこの側面は、R.S.Welles,Art.cit. pp.19-22で鋭く分析されている。

(39)Saussureはこの区別を明確に行っていない、しかしこのことについての彼の明言によれば暗に区別しているようである。p.137:p.103, 「推移という歴史的要素は、言語の一般的・突発的変化をすべて排除しながら、一方で言語全体を支配している」。p.157:p.122,「変更は決して体系の全体の上でではなく、その体系の要素のいずれか1つの上で行われるのである...無論各変更は体系内で反響することになる、しかしながら最初の事実はただ1点にだけ作用したのである」。p.168:p.132,「通時的事実は言語に課される、しかしどれも一般的性格のものではない」。p.172:p.136-137,「あらゆる変化の萌芽が見出されるのは、それぞれの言(パロール)の中においてである。それでそれぞれ慣用となる前にかなりの個人にとって不可避的なものとなってから、変化が始まる」。

(40)「Cours」,p.165:p.130, フランス語poutreの意味変化は、同時代に作られてた他の変化に依存するものではない。

(41)注3,および「Cours」,p.154,236:p.119,202に引用されている言明を参照のこと。

(42)他の変化(例えばスペイン語の《黄金時代》の音韻的革命を形成した変化)は、同時期のものではないけれども、1つの歴史的時期においてそれ自身で体系を形成している、このことは同一の体系的一般的目的に対応しているという意味においてである。一方これは《通時的事実》に関することであるので、その偶然的つながりも通時的眺望において考察すべきである。この眺望において、ある変化は安定性の新しい条件を作るという意味において、多くの変化はお互いに関連し合っている(第4章4.5参照)。

(43)「Cours」,p.236:p.202を参照、「変化するのは音素である、通時的なあらゆる出来事と同じように、孤立した出来事もその結果として、問題の音素が現れるあらゆる単語と同じようなやり方で変わってゆく。そしてこういう意味において、音声変化は絶対的に規則的である」。

(44)「Cours」,p.166:p.131

(45)「Cours」,p.163:p.128

(46)「Cours」,p.166:p.131

(47)「Cours」,p.154-156,p.232:p.119-121,198, 「音声変化の通時的性格は、音声的なものはどれも有意味ではないし、また文法的でもないという原則とよく合致している」p.248:p.213, 「もし文法が関与するなら、音声的現象は共時的事実と混同されるであろう、しかしそれはまったく不可能なことである」。pp.363-364:p.326-327, 「発展的、音声的現象であり文法的、永続的現象ではない」。

(48)「Cours」,p.64:p.33

(49)「Cours」,pp.86,201:pp.53,166

(50)「Cours」,pp.84,232:pp.53,198

(51)「Cours」,p.84:p.53. 事実これは一貫していない。もし音素はたんなる資料的な種であり、言語的形式ではなくただ言(パロール)に属しているものであれば歴史を持つことはないであろう。なぜなら言(パロール)は歴史を持っていないからである、つまり言語だけが歴史を持っている。現行の用語で言えば、歴史的(通時的)音素論だけが存在すると言えるであろう。もし音声学を《言(パロール)の音的科学》と解すれば、《歴史的音声学》は用語の矛盾となる。言語の中で生起する過程としての音変化は、すべて《音韻的》である。音声的改新は存在するが音声的変化は存在しない。

(52)「Cours」,p.223:p.187

(53)「Cours」,p.232:p.197, 「音声学そして音声学そのものが通時言語学の第一の対象である」。

(54)「Cours」,p.232:p.198, 「もし言語の進展が音声の進展に還元されるとすれば、言語学の2つの分野の固有の対象物の対立は明らかなものとなるであろう、つまり共時的なものは文法的なものと等価であると同様に、通時的なものは非文法的なものと等価である」。

(55)「Cours」,pp.232-233:pp.198-199

(56)「Cours」,pp.234-235:p.200

(57)A.pagliano, [Il segno vivente],p.119を参照。

(58)[Forma y sustancia],p.61を参照。

(59)「Cours」,p.177:p.144

(60)「Cours」,p.147,157:p.113,122

(61)「Cours」,p.175:p.143. 事実《一般文法》は、ことばの普遍的側面にかかわる(第2章2.1参照)、つまりこれが言語的単位や機能が定義されうる唯一の側面である。[Logicismo y antilogicismo],p.21および[Determinacion y entorno],pp.32-33および注63、および本書第3章注42を参照。理論の側面とことばの記述の側面を混同してはならない。

(62)「Cours」,p.154:p.119

(63)「Cours」,p.64:p.33, 「他者に耳を傾けるということによって受け取る印象が、われわれの言語的習慣を変容させるのである」。

(64)本書第2章1.3.1および[SNH],pp.29-30を参照。

(65)これについて、R.S.Welles, Art.cit.p.23を参照。Saussureは、しばしば起こる変化は言語を変化させないので、このような変化を《共時的事実》と考えこれを無視している、としている。事実これらの変化は体系を変化させず規範、言い換えれば体系の均衡を変化させる(第2章3.1.3参照)。そして体系の変化とはまさに規範の移転である。[SNH],pp.64-65を参照。

(66)「Cours」,p.173-137

(67)これは単なる推定ではない。「Cours」,pp.172-173:p.136-137

(68)[SNH],p.24以下を参照。

(69)「Cours」,p.271:p.235

(70)こういう見方からすると、もし変化が個人において始まり他人に拡散するものだとすると、変化は《大衆の言語》の明らかな否定である。しかし同時に、これは本来的意味における言語の《社会的》性格の確認である(第2章1.3.3参照)。

(71)Saussureのいう《言語状態》は《習慣的単純化》であり、Saussureはその限界を示すための時間的・空間的困難さを明瞭に認めているのを思い起こすべきである([Cours],p.177:144)。さてしばしば考えられていることとはまったく逆に、習慣的単純化は、経験的探求や体系的記述やその《実用》に際して正当化され無害なものとなる、しかしこれは理論では許されない。理論は現実を十分に説明するものでなくてはならないからである。理論は少なくとも、それを実現させている操作的単純化を忘れてはならない、そしてまた習慣と現実を混同してはならない。現実の二律背反というものを、習慣的単純化や近似的概念に基礎づけることはできない。

(72)A. Sechehayeは、"Les trois linguistiques saussuriennes", 《Vox Romanica》, V,1940 pp.7-9で、共時態と通時態の二律背反は言(パロール)によって超越される、というのは、言(パロール)は言語の利用であり同時に言語の超越であるので、言(パロール)は共時態と通時態の双方にかかわるであろう、としている。ここで問題となっているのは、言語そのものにおけるまた言語研究における二律背反をどのようにして超越するか、ということであって、二律背反などは存在もせず、また仮定すらされていない言語活動において、それが問題となることはない。言(パロール)は言語を乗り越える、そしてある意味で言語に先立っている。Saussure自身も次のように記している、「言(パロール)が理解されうるものであるために、またそのすべての効果を作り出すためには、言語(ラング)が必要である、しかし言語(ラング)が設定されるためには言(パロール)が必要である。歴史的に見れば言(パロール)の事実が常に先立っている」(「Cours」,p.64:p.33)。それゆえSechehayeによって示されていることは、超越のための出発点であるにすぎず、二律背反の超越それ自身ではない。実際、変化は言(パロール)によって生起する、しかし変化は言語の中で生起する。変化の問題はまさに《言語》の問題であり、《言(パロール)》の問題ではない。言(パロール)において研究されるのは、《改新》だけであり、変化ではない(第3章3.3.1参照)。しかし変化の(および言語の)原理は話すことである、この話すということは《異質的》なことばではなく、言語として構成されるようなことばである。これに関して言語活動の能力は、本質的に「言語(ラング)を構成する能力、言い換えれば異なった観念に対応する種々の記号の体系を構成する能力である」(「Cours」,p.53:p.22)、とするSaussureの意味深い直観を思い返すべきである。事実、絶対的にまだ《世に知られていない》言行為は、それが《他の人のため》のものであれば、その合目性において《言語》である(第3章2.3.4参照)。これと同じ意味で(しかし厳密にSaussure的な意味でではなく)「言語活動の単位を作っているもの、それは言語である、とするのは空想的ではない」というSaussureの確言を解釈できる(「Cours」,p.53:p.33を参照)

(73)「Cours」,p.46:「これらの変化の原因を探るのは興味深い、そして音声の研究はその際われわれの助けとなるであろう。しかしこのようなことは本質的なものではない。言語の研究にとっては、音声の変換を示し、その効果をはかるだけで十分であろう」。

(74)A. Alonsoはスペイン語訳の「Cours」の序文p.10で次のように言う、「Saussureの二律背反は、全体としてまた表現形式からするとHegel的言語学者であるV.Henryを介してHegelより出ている」、多分そうであろう。しかしSaussureとHegelの類似性はそんなに近いものではない。Hegelの二律背反は現実的なものの具体的でダイナミックな十全性の中で連続的に解決されてゆく、これに反してSaussureの二律背反は抽象的であり解決不可能なもののままである。

(75)またA.Alonsoは「Cours」の序文p.20で次のように述べている、Saussureの二律背反によって、「2つの研究に対して2つの視点が存続している、つまり共時的なものにおいては、話し手の視点、この時には話し手は機能を内的に生きている、一方通時的なものにおいては、歴史家の外的視点、この時には話し手は継続的な交換について考えている」。これは疑いもなく、区別についての現実的で確実な見解である(第1章2.3.1参照)。しかしこれはSaussure的なものではない。Saussureの通時態は、歴史ではなく、言語学的術語を用いれば、二律背反は最終分析において、歴史的音声学と記述的文法との対立に還元される、ということを忘れるべきではない。

(76)Saussureは《言(パロール)の言語学》を見出したとしばしば言われている、しかしこのことは正確ではない。言語の機能についての章(「Cours」,II,5-6,pp.207-222:第2編5.6章pp.172-186)で、そのような言語学の最上の例を見ることができる。教育という語の連合的図式では(p.212:p.176)、《言語学における》関係を取り扱っているのではなく、発言せられた単語と、その《ことばに特有な文脈》との間の関係を取り扱っている。"Determinacion y entorno",p.48を参照。

(77)「Cours」,p.191以下:p.164以下。

(78)「Cours」,p.206:p.171。"Forma y sustancia", pp.66-67.

(79)「Cours」,p.203:p.168。言語単位は存在しないとする学説は、抽象の面での混同に基づいている。《一般的に言語単位であるということ》は、《示差》をもたらすということ(ある単位を他のものと混同しないこと)である、そして言語単位とは、《限定された体系における限定された単位である》、ということではない。文字tの例を取り上げて(「Cours」,p.202:p.167),Saussureは《文字である》という条件に言及するが、《文字tである》条件には言及しない(綴字によってこれを示そうとするときに、このtを取り上げてはいるが)。というのは具体的(特定的)意味で、《示差》とは機能的単位の実現体における変異性の限定された限界を意味しているからである(注8参照)。それで音素が音素であるためには、他の音素と対立するようにならなければならず、それによって《他の音素とは違うのである》、というようなものでなくてはならない。またある音素がそのような音素であり、他の音素でないためには、どこか肯定的である《それ自身との同一性》を有していなければならない。"Forma y sustancia", p.53を参照。例えばスペイン語/b/はスペイン語の他の音素と区別されるので音素である。しかし/b/(/f/, /g/,/o/等ではなく)は、機能性および音的実現体の限定された範囲に対応しているので音素である。これに加えて、言語学において、また一般に《クラス》は他のクラスと区別されるのでクラスである、そしてクラスを形成し他のクラスと対立している内的関連性によって限定されているようなクラスである。しかし猫は犬ではないというだけで、猫であるとするのは不合理である。もっと根本的意味において、言語において肯定的事項なしに示差が存在するという言明は、言語活動において《クラス》の内的関連性は機能の単位によって限定されているということを意味し、また《限界》は言語形式によって設定される以前には、そのようなものとしては(《実体》において)存在しない、ということも意味している。"Forma y sustancia", p.32を参照。

(80)[SNH],pp.30-31を参照。

(81)しばしば否定的なものとなる側面が存在する、これはどうしてもSaussureの《正統性》を保持し、これを維持しようとするものであり、またSaussureと合致しないものを無理解とか攻撃であると考えようとするものである。Saussureは、根本的で今後の発展に資するようなことを多く述べているので、その欠点や申し開きのできるような一貫性のなさを擁護する必要はない。

(82)言理学の諸原理の批判として、"Forma y sustancia", p.38以下を参照。また参考文献としてはB.Siertsema,[A Study of Glossematics], The Hague, 1955,特に形式と実体の問題については、F. Hintzeの"Zum Verhaltnis der sprachlichenFormazurSubstanz》", 《Studia Linguistica》,III, 1949,pp.86-105。

(83)L. Hjelmslevは、"Langue et parole", 《Cahiers Fernand de Saussure》,2,1942, pp.32-33,40,43,44で、こういう意味でSaussureの区別を解釈し訂正している。また同じ著者になる[Prolegomena],pp.51-52,68,および"La stratification du langage", 《Word》,X,1954,p.1954,p.188を参照。彼はそこで一方において《図式》を区別し、また他方において《規範》と《使用》および本来的意味における《音》を区別している。

(84)この面において、Hjelmslevが理解していると同じように、実体は形式に関してではなく他の実体に対してのみ《無関心》でありうる。《限定》(恒常−対−変異)の関係は、形式と特定の実体(これはあれかこれかの実体でありうる)の間で設定されうる。しかしながら形式と実体の間には《相互依存》がある、それで言語形式は常に《実体の形式》である。

(85)《内容》の形式と実体は、一方がなければ他方もない(言い換えれば言語活動と思考との間には統一性が存在する)という意味で、相互依存の関係の《機能素》として恒常的である。しかしながらそれ自身の固定に関しては、《変異素》である、そしてこの2つは相互に限定(影響)しあっている。

(86)[Sprachbau],特にp.47-49を参照。

(87)例えば[Physica],II.2を参照。

【訳者注:田中美知太郎訳「自然学第II巻2自然学の対象」326-328頁《筑摩書房、世界古典文学全集アリストテレス、昭和63年)

アリストテレスの自然学(physica)の用語では、「形態:モルペー」または「形相:エイドス」=「形式:forma」と、また「素材:ヒュレー」=「実体:substancia」として使用されている。“形態と形相は同義に用いられているが、しいて区別すれば、形態は、肉体の目でとらえられる事物の姿、形であるのに対して、形相は思考により定義の形で明らかにされるような事物の本質のこと”、という訳者の注がある(注6,325頁)。自然的・数学的対象物について、アリストテレスが触れているところを引用すると、『自然物を抽象化して[つまり、自然物から運動変化を切り離して]いるのであるが、その自然物は、数学の対象ほどに抽象化されうるものではないからである。そのことは、ひとが自然物と数学的対象の両者それぞれの定義を、それら自身について、またそれらに付帯する諸性質についても、あたえようと試みるならば、明らかになるであろう。すなわち「奇」や「偶」、「直」や「曲」、さらに「数」や「線」や「図形」は、運動(変化)を含むことなしには存在しないだろうが、しかし「肉」や「骨」や「人間」は、運動(変化)を含むことなしには、もはや存在しないだろうからである。いな、これらのものは、「曲」のようにではなく、ちょうど「凹んだ鼻」のように定義されるからである。・・・数学的な学問に属するもののなかでも、自然学により近い学問、たとえば、光学や音階理論や天文学の場合を考えてみれば、明らかになる。というのは、これらの学問は、ある意味で幾何学とは逆のやり方をするからである。つまり幾何学は自然物のもつ線について考察するが、しかしそれを自然物のもつ線として考察するのではない。これに反して光学は数学的な性格をもつ線を扱うが、それを数学的な線としてではなしに、自然物のもつ線として扱うからである。・・・同様に建築家は、家の形相についても、またそれの素材である煉瓦や木材についても知識を持っているし、そしてその他の場合も同様なのであるが、もしそうだとすると、自然のもつ2つの意味である形相と素材の両方を認識することが、自然学にとっても課題となるであろう』(326-327頁)。例として木材を取り上げれば、自然的対象物としての木材(素材)は、必ず何らかの形相(樹木、建築材、木製まな板、木製本立て、木片)として存在しているので、ある特定の木の素材(実体)は、ある特定の形をもって具体的に存在していることになる、一方、文化的対象物としての形相(家)は、何らかの素材によって作られるが、それは、木材であってもまた煉瓦、石であっても構わない。数学的対象物としての1,2,3個という形式は、具体的な素材である1木片、2木片、3木片には依存しない純粋な形式である。】

(88)F.J.Whitfield, "Linguistic Usage and Glossematic Analysis", [For Roman Jakoboson], The Hague,1956,p.671で、言理学についての著者の解釈を論じるに際し、Hjelmslevはそのようなものの(意図)としての《資料》と《実体》、つまり言語的に形式化された資料を区別していることを取り上げている。この考察は正確である。しかしまず最初に、―内容の面を表現の面の不均斉によって― 《意図》という用語の使用はProlegomenaではなく、言理学においては当然の帰結である。内容に関して言えば、《意図》は形成されておらずまた認知しえない《資料》(いわゆる《無定形の思考》)に適用される。表現に関して言えば、すでに形成されたそして既知(音的、綴字他)の資料に適用される。第二に言理学は、言語形式の分析において、単なる資料ではなく《形式を現示している資料》(《実体》)を無視している。[Prolegomena],pp.50,67-68を参照。

(88-bis)これに関して、Heideggerの厳格な表現を参照。"Der Ursprung des Kunstwerkes",のスペイン語訳、"El origen de la obra de arte",([Arte y poesia]),Mexico 1958,p.42。「意図的に作られた対象物において」、輪郭としての形式は、「自然的対象物におけるような」資料の配分の帰結ではない。逆に形式は資料の秩序付けを限定する。このことばかりではなく形式は、それぞれの場合あらかじめ選択や資料のクラスを限定しているのである」。

(89)[La stratification],p.174, また[Prolegomena],p.66

(90)"Forma y sustancia", pp.57-59を参照。

(91)F.J.Whitfieldは、Art.cit.pp.674-675で言理学は実際面において実体へ言及することを排除せず、また(《言語使用》としての)実体の分析それ自身も排除されず、《図式的》分析の後の他の研究の側面にまかせるだけである、とする。しかしこれは実際面において理論的には否定されるようなこと、つまり言語は単に形式ではないと認めることであろうか、純粋形式だけを問題にする時(数学的対象の場合)、実体の問題はいかなる方法でも、またいかなる面においても設定され得ないということは了解できる。一方言理学に対する筆者の反論は実際的なものではなく、理論的なものである、つまり言語は言理学的な概念にかかわるものである。言語は単に形式ではなく、また2つの実体の間に組織された形式でもなく、実体を組織化するような形式である。"Forma y sustancia",において筆者は特に言語の形態的なものは物質的なものへの言及なしには、認知されえないし、また記述することもできない、という事実に固執した。これは形態的なものは物質的なものにおいて所与のものであり、物質的なものはそれを組織化している形式内において理解可能なものとなるからである。実体を無視することはできない、なぜなら実体は形式によって限定(選択)されているので、実体を組み入れて統合しているからである。

(92)これはHjelmslevの意見である。《言語》についての彼の概念はこの術語が現在使用されている慣用に対応している([Langue et parole],p.36を参照)、そして《図式》は1つの現実(同書p.43)であると言明している。言理学において、慣習を現実とみなす傾向は顕著である。しかしながらHjelmslevは、[Langue et parole],p.43で次のように言う、「現代の論理学は概念を実存化させ、それによって現実を構成させようとする傾向の方法論に身を置くことの危険性を十分に教えている。われわれの見るところ、現代言語学のある流れは、意識についての理論の視点にもとづく悪しきリアリズムに間違って逃げ込んでいる。それなら唯名論者に復するにしくはない」。このことが仮説にもとづく言語の理論、言い換えれば慣習の理論を精製しようとする研究から出てきたというのは解せない、またある所で("The Syllable as a Structural Unit", [Proceedings of the Third International Congress of Phonetic Science], Gante, 1939,p.270),言理学が定義しようとする意味ではフランス語にはシラブルがないという単純な理由から、フランス語にはシラブルがないとする結論に達しているのも解せないことである。しかし実際には、これらのことは解せないことではない、というのはHjelmslevが使用している意味での《現実主義者》は全くのところ《唯名論者》であるからである。しかしそうであっても、Hjelmslevの言明は人を驚かさずにはおかないものがある、なぜなら彼の純粋な意味での構造主義は、唯名論とはまったく正反対のものであるべきだからである;参照H.J.Pos, [Perspectives du structuralisme], TCLP,VIII,pp.71-73。

(93)しかしながら、言理学の《数学万能主義》は厳格な自然主義的傾向を保持している。それでHjelmslevは図式による分析によって見出された《機能素》は、物理的自然の実存物と考え得るとしている([Prolegomena],p.79)。しかしこれは非常に難しい問題である、というのは例えば表現素はどういう物理的自然を持っているのか、ということは知ることはできないからである。(あたかも外的な対象物が問題となっているかのごとく考え)言語についての諸事項は一体何であるのかについて知ろうとしないこのような態度については本書第4章注22を参照。Hjelmslevは[Prolegomena],p.14で対象をたんに対象として考え、相互依存の内的交差とは考えない《単細胞的リアリズム》について、多少皮肉って記している。しかしながら、《単細胞的リアリズム》には理由がある。というのは言語の場合には、措定された対象物が問題となるのではなく、人によって作られた対象物が問題となるからである。

(94)[Prolegomena],p.5

(95)こういう意味における彼の明確な言明については、[Economie],p.194を参照。観念論を継いでいない言語学者の間で、言語活動をエネルゲイアとみなす考えに最も近い人としてはMartinetがいる。そして彼はある面では観念主義者と呼ばれ、無形態そして無機能の言語の断片を研究している学者より上記の考え方に近い。

(96)音韻学派のテーゼ(TCLP,I.1929,p.8)で、生産的と非生産的図式の区別は、共時的記述においても考慮されるべき《通時態の事実》である、と強調している。一方、「Cours」,pp.149-150:pp.115-116で、語の形成は文法(言い換えれば共時的言語学)に属しているとしている、そして言語の使用の範囲を固定するという仕事を共時論の仕事と考えている。これはまさに言語の未来に関係してくるものである。言語の諸々の分野における《体系》と《規範》の違いについては、[SNH],pp.42-54を参照。

(97)例えば、個人言語(本書第2章3.5.2)、またD. Jonesの[The Phonemes],p.9での「限定されかつ同質の《スタイル》で話す1個人のことばより帰納された言語」、というような表現などを参考のこと。"Forma y sustancia",pp.70-71を参照。

(98)B.Malmberg, 《Acta Linguistica》,III,p.43での言明を参照、「図式を作成し始めなければならない、まったくそうである。しかしながら、それにこだわっていてはならない。一体となって言語を形成しているあらゆる要素を明らかにするために、分析を続行してゆかなければならない」。これについて、Martinetは構造の境界を定めるということは、言語的現実の複雑性を無視することを意味するのではなく、諸事実間のヒエラルキーを設定するということを意味する([Economie],p.13)、そして音韻論は非弁別的音的事実を無視すべきではない(同書p.37)、としている。事実、機能的構造を設定するとうことは、本質的なことである、なぜなら言語の各瞬間において音的事実は実現体における変異性の限界を指し示しているからである。しかしながらまた実現体の《規範的》異形に注意を向けるのも重要である、この規範的異形は体系の不安定な平衡性を指し示している。そしてこれに関して相対的頻度の統計的研究が有用なものとなる。[SNH],p.63を参照。

よく知られているものであるが、その難しさの1つは、まさに正確な音的実現体やその変異性を知り得ないということによっているのである。

(99)事実、古典的(青年文法家的)意味での、《歴史文法》は決して特殊な言語学の分野ではない。《通時的等価》を単純に図式的に集録する限り、これは単に歴史にとっての資料の編纂である整頓であるにすぎない。

(100)R.S.Wellesは、Art.cit.p.24で次のように言う、通時言語学は、「共時的関係を無視することはできない、というのは状況S1における記号とその後の状況S2における記号の間の通時的同定は、それらの記号の音素的構成と他の同時期の記号に対する関係の2つを考えることにより設定される」からである。

(101)「Cours」,p.46:p.20

(102)「Cours」,pp.148-149:p.114

(103)「Cours」,p.151:p.116,またp.233:p.199を参照、「われわれは実際には音声変化を研究する時には通時的分野で、また音声変化から生まれる帰結を探求する時には共時的分野で、というように行ったり来たりしている時には、歴史文法を作っているなどと手軽に確言しないために」、共時態と通時態の区別を思い起こさなければならない。p.147:p.113で、継起性の軸においては、「一度に1つずつしか考察しえない」。p.148:p.114で、言語学において記号の多様性は、「時間における諸関係と、体系における諸関係を同時的に研究するのを、絶対に禁じている」。本書1.2.2を参照。

(104)「Cours」,p.174:p.138

(105)「Cours」,p.146:p.112。言語の歴史は勿論政治史とは異なっている(なぜなら言語はよく言われているが、《制度》ではない)、しかしSaussure的意味において、異なっていると言うことではない。

(106)《無歴史的》であるとうことは(1つの限定された歴史的対象にはかかわらないと云う意味において)、言語の理論であるつまりこれは《普遍的》なものとしての言語の研究、また《種としての言語》の研究にあたる。しかしながらこのことは、理論は言語の歴史性を無視すべきだという意味ではない。しかしながらこのことは、理論は言語の歴史性を無視すべきだという意味ではない。しかしSaussureにおいては残念ながら、記述の側面と理論の側面が混同されている(注61参照)。同じような混同はまだ言理学において続いている、そしてこれはある意味で重大なものとなる。このことから言理学は、歴史に対して不信の念を持つということになる、そして歴史を偶然的なものと考えるのである(Hjelmslev,[Prolegomena],pp.4-5参照)、そして理論においては、変化を無視すべきだとし、一方変化は言語の《恒常体》を確実なものとするようにしか作用しない、という考えが出てくる。構造だけに注意を向け運動を無視することにより、言理学は同時代の思想と歩調をああせていると信じている。しかしながら言語学は一度ならず、同時代の思潮に遅れをとっている。構造を尊重するという現代の思想が、現実というものを無限の過程としてとらえるようになってから、かなり時間が経過している、それでいまここで問題となるのは、構造を諸過程の中に組み入れることである。

(107)G.Devotoが共時態と通時態の間の二律背反を乗り越えようとする方法([I fondamenti],pp.55-60)は、明確なものではない。彼によれば、共時態と通時態の間には《質的》対立はなく、《量的》対立があるだけであり、そこで問題となるのは異なって2つの歴史性である、とする。しかしこの場合《量的》対立とは、より小さなおよびより大きな歴史性というものを意味しているのであろうが、これにはたいした意味がない。しかし逆に異なった歴史性が問題となれば(どういう意味で)、対立は《質的》なものということになる。しかしこのことは歴史性というものの枠内でそうであるにすぎない。

(108)"Determinacion y entorno", p.33を参照

 

第7章 了

2001年8月14日