『社会人類学年報』第10号(1984)pp.1-28(弘文堂)に発表
[人と学問]
浅井 恵倫
土田 滋
浅井恵倫教授は日本言語学会の評議員であり、日本民族学会の評議員でもあり(後に理事)、さらには東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(以後 AA研と略称)の運営委員でもあったから、あの比較的大柄な口と赤鼻とそれにあばたを目にし、早口の大声を耳にした人も多いだろうし、少なくともその名前だけは聞いたことがあるという方もかなり居られることだろう(馬渕東一先生の語るところによると、ブヌン族の一人が以前に調査に来たことのある日本人を「顔に穴のある人」と言ったので、すぐに浅井先生のことだと判ったそうである。)しかし浅井先生がいったいどんな研究をしておられた方なのかを 御存知なのは、 日本よりもむしろ外国に多かったように思われる。
著者は浅井先生に直接教えを受けた者ではないのだが、たまたま専攻とする研究分野の重要な部分が浅井先生のそれと重なっているため、この稿をお引き受けすることとなった。追悼文をすでに 2 回も公にしている著者にとっては少しく書きづらいのだが[土田 1970a、b、1971]、いろいろな方からの聞き書きや遺された手紙などをもとにして年代記ふうに、そして今回はややエッセー風に書き綴ることにしよう。
1 なぜインドネシア語の研究だったのか?
浅井恵倫先生は明治28年3月25日石川県小松市北浅井町浄土真宗大谷派妙永寺の住職浅井恵定の長男として生を受けられた。 父恵定は鈴木大拙・松岡洋右らとともにアメリカ最初の邦字新聞『オレゴン新報』 を創刊した人としても知られている[加藤 1976、187]。時あたかも台湾が日本領となった年であり、恵定は真宗の開教師としてアメリカにあって、 布教活動を行っている最中であった。妙永寺の長男としてお寺を継ぐべきであったところ、 間違って言語学者となってしまったわけである。しかし後年、1年に何度かは故郷の寺に帰り、 近所の人達を集めては仏法を説いておられたようである。「今日は雪のせいか集まりが悪く、 たった 2 人を相手に話をしたがくたびれた」などと記した奥様宛の手紙が遺っている。
四高(現金沢大学)を経て大正7 年(23歳)東京帝国大学文科大学言語学科を卒業された。 当時の言語学科主任教授は藤岡勝二、その他に金田一京助のアイヌ語の講義などがあったが、 あの頃なぜマライ語の研究などを始めることになったのか、 卒業論文のテーマは何だったのか、うっかりして生前中にお聞きしておかなかった。 【補遺:『日本エスペラント運動人名事典』田中貞美、峰芳隆、宮本正男編、1984.11 豊中市:日本エスペラント国際協会(Japana Esperanto Instituto[JEI])によると、 卒業論文はエスペラント語で書かれ、 題名は「Polineziaj popoloj kaj iliaj lingvoj」《ポリネシア諸民族とその諸言語》1918であった。 また、JEIの創立時(1919)にも尽力し、'51-62年JEIの理事を務めたとのことである。】
卒業生名簿を綴ってみると、大正 7 年前後の卒業生は浅井先生一人しかない。しかし当時言語学談話会なるものがあり、主として東京在住の言語学科卒業生が月 1 回集まって、おしゃべりをし合っていたらしい。ただ一人の在学生だった浅井青年も参加を許され、後藤朝太郎・前田太郎・神保格・田中秀央・市河三善・金田一京助などのえらい先輩達の話を聞いて書籍以上に啓発されることが多かったようである[昭 44]。
それにしても再び、あの当時なぜマライ語、あるいは広くインドネシア系の 言語に興味を持たれたのだろうか? おそらくそれは、浅井先生が持って生れた、 そして生涯持ち続けた「新しもの好き」の性格によるものではなかったか? マライ語ばかりでなく、 学生時代からエスペラント語を学ばれ、 日本におけるエスペランティストの 草分けの一人でもある。これもやはり先生の「新しものがり屋」の発露の一つと言うべく、 この性格が先生の一生を支配する大きな柱となっていたように思われる。 古い因習に縛られるお寺を捨て、言語学、 それも当時人の注意をほとんど引くことのなかったマライ語や台湾高砂族諸語の研究に手をそめ、 戦後は60歳を過ぎてからもベトナム・ラオス・カンボヂア・タイの調査や、さらには遠くニューギニアにまで出かけられたのも、 つまりはこの「珍らしもの好き」に衝き動かされたからに違いない。
2 『ヤミ語の研究』
東大を卒業しても、当時はすぐに就職する口などなかった。専門が言語学、それもマライ語とあってはなおさらのことである。四年ほどのブランクの後、福井商業学校、故郷の小松商業学校で教鞭をとり、大正 13 年(29 歳)大阪外国語学校講師、二年後には教授となった。まだ浪人中であった大正12年(1923)浅井先生ははじめて台湾の紅頭嶼(現在の蘭嶼)を訪ねヤミ語の研究を始められた。ここでもまた、たとえ生来の好奇心のためとは言え、なぜ突然ヤミ語だったのだろうか? これも生前伺う機会がなかったのだが、著者の推測はこうである。
日清戦争(1894・8-1859・4)の後、台湾は日本に割譲された。前後4回に亘る鳥居龍蔵の台湾調査(1896-1899)のうち第2回は紅頭嶼の学術調査に当てられ(1897・10-1898・1)、その結果は鳥居[1899、1902、1910、1912]などの大冊となって続々出版された。特に鳥居[1902]は島民の言語・風俗・形質などを総合的に記述した秀れたモノグラフである。シェアラー(1858-1938、外国語学校及び学習院のドイツ語教師であり、後にバタネス州知事、国立フィリピン大学言語学科教授、妻は日本人で、日本語もよく理解した)は鳥居の報告に注目し、それを紹介[Scheerer 1906]し全訳した[Scheerer 1908b]。さらにフィリピン諸語、台湾諸語とイバタン語(ルソン島の北、バタン島の言語)を比較し、イバタン語が明らかにフィリピン諸語グループに属するにしても、どの言語とも特に近いとは言えないことを示した[Scheerer 1908a]。そして紅頭嶼(Botel Tobago)のヤミ語は資料が少なく、かつ聞き取りが不正確な場合が多いので確かなことは不明ながら、ヤミ語とイバタン語だけに共通する単語のあることを示したのである[Scheerer 1908a:97]。
浅井先生はこれらの報告・論文に目を通しておられたに違いない。そしてヤミ語が台湾とフィリピン、特にイバタン語とを結びつける重要なポイントであり、ヤミ語の調査こそが焦眉の問題であることを素早く見抜かれたのだろう。大正 12 年に続いて昭和 3 年 8 月(1928)、昭和 6 年 9 月(1931)と都合 3 回ヤミ語調査に赴き、その時の資料をまとめてオランダの国立ライデン大学に博士論文として提出されたのが、日本よりは海外でよく知られている『ヤミ語の研究』[浅井 昭 11b]である。この研究の特長は 3 つある。
(1)それまで鳥居龍蔵の調査資料でしか判らなかったヤミ語を、言語学者として初めて精密な調査を行い、ヤミ語の音韻体系と形態的な構造を明らかにしたこと、
(2)ヤミ語がイバタン語と極めて近い関係にある言語で、イバタン語の一方言といってよいことを比較言語学の方法をもって証明したこと、
(3)簡略音声表記でヤミ語のまとまったテキストを発表したこと、
以上の 3 点である。
音素あるいは音韻体系とは言っても、当時はそれらの概念がようやく 世に広まりつつあった時代のことであり、今日から見ると問題が無いわけではない。 ヤミ語形態論にしてもまだまだ分析不充分であると現時点ではいくらも批判し得るが、 1930 年代という時代を、しかも日本という地域のことを考えれば、やはり驚くべき業績であったと 言わなければならない。トルベツコイ[1939、96、87 も参照]の古典的名著には 日本人の名前が 3 名 現れるが、Erin Asai の名はこの『ヤミ語の研究』の著者として引用され、 彼の音韻論を構築する一つの材料としてヤミ語の例が使われているのである (その他の二人は神保格と小林英夫だが、後者は翻訳者として現れるだけである)。浅井先生自身、 このヤミ語の研究が音韻論の考えを具体的に一つの生きた言語に適用した 世界で初めての試み であると自負しておられた[昭28a、16]。
浅井先生のこの研究によって、 つい最近までヤミ語は台湾高砂族の中でも最も研究の進んだ言語であった。 1960 年代以降高砂諸語の調査・研究が非常な勢いで進み、それにつれてヤミ語の分析は相対的に 最も遅れた分野の一つとなったが、 それはヤミ族の住む紅頭嶼が絶海の孤島であり、ひとたび天候荒れるや交通杜絶の状態となるため、 現地調査も行われにくかったのが大きな理由であろう。大正から昭和初年にかけて、 敢えてそのような場所をフィールドに選んだ浅井先生の御苦労は想像に余りある。 余談にわたるが、筆者が後年大林太良氏やエール大学のラーデル氏から伺ったところによると、 ライデン大学でこの博士論文を通すか否かについては、かなりもめたそうである。その理由の一つは、 もしこれをパスさせ、浅井恵倫なる日本人に文学哲学博士の称号を授与すると、 当時オランダ統治下にあったインドネシアの行政官(それも知事クラスの)たり得る資格を自動的に与えることになり、 一外国人にそのような資格を与えてよいものか、大いに議論が沸騰したという。
3 『セデック語の研究』
大正15年浅井先生が大阪外国語学校教授に任ぜられたことはすでに述べた。その以前、大正8年(1922)ニコライ・ネフスキー(1892-1945)は小樽高等商業学校より大阪外国語学校ロシア語科に転勤となり、ロシア語を教えていた。大正15年現在、ネフスキー、浅井先生ともに30歳代前半にあり、二人とも若く、好奇心に溢れていた。ネフスキーが学校の教師仲間では浅井恵倫と最も親しかった[加藤 1976、187]のもさこそと頷けるのである。二人の交際はネフスキーが昭和 4 年ソ連に帰国するまで続いたが、その間、高砂諸語研究史上大きな意味を持つこの二人の、しかしある意味では悲劇性を秘めた高砂諸語調査が行われた。加藤[1976、188]によれば、 浅井恵倫の談話として次のように記されている。
二人は当時台湾の「書かれざる言語」unwritten language の研究を志し、浅井は Sedik (霧社)、ネフスキーはツォウ(曹族)の言語を対象として、 なんらの予備知識を持たずに、原住民からじかに彼らの神話や伝説を聞き、その音声や文法を導き出すことをめざした。 すなわち、言語学的法則の探究と民話の紹介という一石二鳥をねらったものであった。そして、当時この方法を 特に推奨したのはシュテルンベルグらの影響をうけたネフスキーであったとのことである。
そうであったかも知れない。しかし浅井先生はすでにアメリカの人類学・民族学者ボアズ[Boas 1911-1912] による同じ方法論を知っており、「徹底的の phonetic 主義、texts 優先性の必要」[浅井 昭 28a 、15]を感じていたから、むしろネフスキーと意気投合したのだと解すべきであろう。 ネフスキーによれば[1935:5]、二人は 1927 年6 月神戸から乗船、四日目に其隆港に着き、そこから台北に向かい、総督府より入山証をもらう。
その翌日の夕方、私たちは汽車で出発した。夜中の二時頃、 台中駅をすぎて間もなく、私は自分の同僚である浅井氏と別れ、 ひとりで旅をつづけた。……[加藤1976、189の訳文による]。
こうして浅井先生は一人で霧社に入り、昭和2年7-8月にセデック語の調査をされ、その結果はヤミ語の発表より早く浅井[昭9]となって公表されたが、英語で発表されたにもかかわらず、この本自体(つまり『東洋学編』)があまり流布しなかったせいであろうか、日本でも外国でも知られることがほとんどなかった。戦後もう一度、同じ内容の本がタイトルを少し変えて出版されたのだが[浅井 昭 28b]、これもまた私家版であったためか、ほとんど世に知られるところとはならなかったのである。ネフスキーの『ツォウ族言語資料』もまた、ネフスキーが粛清されてしまったので、永らくタイトルしか世に伝わらなかった。奇しき運命と言わなければならない。
浅井先生のセデック語の論文は『ヤミ語の研究』と同じく、「音韻論」「形態論」「テキスト」の三本立てとなっている。音韻の部では kとqの音韻的な違いに気付かなかったという致命的な欠点があり、形態論的な分析もヤミ語の場合よりもさらに表面的にすぎるが、テキストがユニークで、普通の伝説ばかりではなく、青年が若い娘を訪ねる時の話を二人の若者の会話体で記したり、セデック族の人が日本の奈良を訪問した時の感想をセデック語で話してもらったりしたテキストが含まれていて興味深い。
昭和2年と言えば、死者百三十数名を出した史上有名な 霧社事件 (昭和5年10月27日)の起こる三年前にあたる。そして浅井先生の通訳をつとめたのが、事件の時責任をとって割腹自殺をとげたセデック族出身の巡査花岡一郎(セデック名ダッキス・ノービン)、同じく警手花岡二郎(ダッキス・ナーウィ)の二人であった。奈良を訪ねた時の話をしているのがこの花岡一郎である(当時20歳)。ついでながら、ネフスキーのツォウ語調査の通訳をつとめたのは、花岡一郎と台南高等師範を同期に卒業したツォウ族の矢田一生(ウォグ・ヤタウユガナ)であり、筆者が 1970 年ツォウ語を調査したとき聞いたところによると、矢田一生は日本敗戦後の二・二八事件(1947)の時に殺されてしまったのだそうである。【補遺:昭和29年、嘉義公園で一人で宮澤賢治の詩を読んでいる時に逮捕、裁判もなく処刑に処せられた(矢田一生の長男、高英輝神父談)、いつもはツォウ族の青年が護衛しているのだが、その時はどういうわけか一人で抜け出したらしい。高神父が12歳の時の由】。
ソ連に帰った ネフスキー も恐怖政治のもと、昭和12年(1937)10 月逮捕され、公式発表によれば8年後の昭和20年(1945)2 月14 日、おそらくシベリアのどこかの収容所で詳細不明の死をとげてしまった。この時の調査に関係した優秀な頭脳を持った4人もの青年がそろって無慚な死を迎えたことを考えると、ひとり生き長らえるを得た浅井先生晩年の心中いかばかりのものだったろう。
4 『原語による台湾高砂族伝説集』
昭和 3 年(1928)台北帝国大学が設立されると、浅井先生の大先輩にあたる小川尚義(1869-1947)が言語学教室教授として迎えられた(小川教授の秀れた業績については[馬渕 1948]を参照)。小川先生はそれまで乏しい資金をもって細々と高砂諸語の研究を続けていたが、昭和5年(1930)元台湾総督上山満之進氏が退職するにあたり、多額の資金を高砂研究費として台北帝大土俗人種学教室と言語学教室に寄贈され、ためにこの二教室は未曽有の活況を呈することとなった。土俗人種学教室では移川子之蔵教授を中心に助手・宮本延人、嘱託・馬渕東一の三人が現地調査にあたり、その結果は移川・宮本・馬渕[1935]となって現れ、帝国学士院賞が与えられた(昭和11年6月)。
言語学教室の小川教授は直ちに当時大阪外国語学校教授だった浅井先生に協力を求められ、二人で手分けして高砂諸語の現地調査を始めることとなった。昭和5年当時すでに60歳に達していた小川教授は比較的平地に近く、また日本語も普及していたアタヤル族、サイシヤット族、パイワン族、プユマ族、ルカイ族(大南社とタマラカウ社)、アミ族の言語を調査し、まだ35歳の働き盛りだった浅井先生は交通不便なセデック、ブヌン、ツォウ、カナカナブ、サアロア、ルカイ(下三社)およびヤミ語を担当されたのである。この時の調査の結果は小川・浅井[昭 10](以下『伝説集』と略称する)となって出版され、昭和11年6月小川尚義名義により恩賜賞を授与された。
『伝説集』は各言語の語法概説、音声記号による伝説、その逐語訳と自由訳、語学的な脚注、附録として 284 項目の比較単語集からなる。それまで断片的な単語程度しか判らなかった高砂諸語の全貌が、この本によってはじめて明らかにされたのであり、高砂諸語研究史上、一大金字塔と言うべく、現在に至るまで、少なくともその量と範囲においてこれを凌駕する研究は現れていない。
アウストロネシア比較言語学上、高砂諸語が重要な位置を占めることは早くから小川尚義教授によって指摘されていたのだが、すべて日本語で書かれた論文だったため世界に知られることがなかった。戦後エール大学のダイエン教授(Isidore Dyen)がこの『伝説集』を英訳させ(訳者はラウンズベリー夫人、ただし出版はされていない)、それを利用することによって同じ結論に達し、種々の論文を公にされることにより、はじめて世界に認められるようになった。附録の比較単語集の部分だけは浅井先生も知らないうちに英訳され公表されている[OGAWA AND ASAI 1961-66] 。浅井先生が亡くなる少し前、日本と台湾とでほぼ同時に『伝説集』のリプリント版が現れたことによっても、その需要が今なおいかに高いかが解るであろう。
それにしても昭和初年の頃、交通不便な山奥を歩かなければならなかった浅井先生の苦労はどのようなものだったろう。筆者は 1970 年冬にカナカナブ語の調査を行ったのだが、冬だったため川の水が少なく、河床をかなり奥までトラックで入れたにしても、トラックを降りてから10時間以上歩かなければならなかった。近年は道路が整備され交通も驚くほど便利になってきたが、カナカナブ族の集落は 1983 年現在でも徒歩 5 時間の距離にある。
そしてまた山奥では日本語の普及がかなり遅れた地域もあったから、 昭和の初めでは、その苦労も並みたいていのことではなかったことが、 『伝説集』を綴ってみるとよく判る。 たとえばルカイ族下三社蕃マンタウラン方言のところにはこうある (音声記号は印刷の便のためすべてカナに直す)。
採録期:昭和7年8月。
口授者:マンタウラン社アリマヌ。
説明者:トナ社ギリリラヌ並に同社ルウ。アリマヌの口授を ギリリラヌがトナ方言に訳し、其のトナ訳をルウが日本語に重訳す、 トナ訳を註に示す、大体に於て遂語訳なり。
筆者も1971年にマンタウラン方言を調査する機会があったが、その時の話では、「私たち(マンタウラン社)が日本語を自由に話せるようになったのは戦争が終わってからのことで、戦後平地人や他の種族の人がたくさんこの部落に移住して来たが、日本語が解らないと話が通じなかったから」だという。そのせいであろうか、筆者の採録した「豹になった話」はテキストにして何十ページにも及ぶ長い話が『伝説集』ではたったの11行に圧縮されていて、ほんのエッセンスしか記録されていない。
苦労はまだある。浅井先生の調査は大阪外国語学校の校務の余暇に、つまり夏休みを利用して行われた。ところが8月・9月は栗の収穫期にあたり、年寄りがつかまらないことも多かったらしい。たとえばブヌン語南部方言イバホの調査では口授説明者が 21歳、補助説明者はなんと 14歳の少年であった。
調査は収穫期にあたり故老を使雇するを得ざりしため止むを得ず 青年を使用せしも……。【両名とも】蕃童教育所卒業生、 共に日本語は不完全、説明に多大の時間と労力を要せり[昭 10、648]
とある。しかしおかげで面白いことを観察することにもなった。 長い脚註なので一部要約すると次のようである。
ブヌン語中部・南部方言には[s]と [本当かしら? と思わず耳を疑うが、それにしても「言語社会学」という今はやりのことばが昭和 10年の出版物にすでに使われていることに驚く。 筆者による最近の調査によれば、 ブヌン語中部・南部方言では[s] [] (硬口蓋化音、日本語のシの時のs)の区別があり、それぞれ北部方言の[ts]と[s]に対応するが、大人になると欠歯するため、中部方言では両者の区別が曖昧になり、南部方言では甚だ混乱している。この 21歳の青年も欠歯しているので両者の発音は区別できない。ところが14歳の少年の方はまだ欠歯していないので区別があり、かつまたその区別が北部方言と一致【対応】することが多い。14 歳少年の説明によれば、
成人は欠歯のため両者の区別困難なるのみならず、又区別を強いてせず、子供は両者の区別をす。即ち両音の区別の無きは成 人の発音、区別の有るは子供の発音なり。 自身の[s] [……音韻の古形老人層に残留する一般の言語音韻現象に反し、少年層に残留する 特殊(欠歯の人工的原因と少年語と成人語の差別発生の 言語社会学的原因に依る)の事象と言ふべきものか。云々] の区別は、兄の未だ欠歯せざるときに兄に做ひしものなりと、
5 台北帝国大学時代
昭和11年3月(1936)小川尚義教授が老齢(66歳)の故をもって台北帝大を辞し郷里松山に引退され、替わりに浅井先生が台北帝大文政学部言語学教室助教授として就任されることになった。オランダ国立ライデン大学に留学し(昭和8年-11年)、前述の通り『ヤミ語の研究』をもって文学哲学博士を授与された直後のことである。
昭和5年から 8 年にかけて調査のため精力的に台湾山地をかけめぐった浅井先生であったが、台北帝大に移ってからはむしろあまり現地調査は行われなかったようである。その大きな理由はやはり大戦前夜から敗戦に至る緊迫した時局のため、経済的な余裕がまったく無かったことに求められるであろう。馬渕[1954、104]によれば、
……第一は研究資金の不足である。 これは何処も同じとはいえ、台湾の官僚機構のもとでは、 物見遊山的な『出張』に多大の浪費が見られた一方で、 研究のための経費が甚だしく軽少であったことが特に深く印象に残る。……他方で、満州事変以来、 北方の研究が著しく刺激され活溌化したに反し、 一般に南方研究は一貫して継子扱いされた感があり、それに伴って台湾研究も 萎微沈滞に傾きがちであったといえる。しかも大戦勃発前夜の 一時的な南方研究熱は台湾研究をも刺激するかに見えたが、事実はこの空景気が 地道な南方研究を“不急不用”なものたらしめ、台湾研究の如きは全く問題外にされて しまったわけである。
とある。これは高砂族に関する社会人類学についての言明であるが、高砂諸語の研究についても同様であったろう。
にもかかわらず浅井先生は服部報公会からの研究補助資金を得て、昭和11年7月-12年1月、そして昭和13年1月から3月にかけ平埔族の言語調査をされた。台湾では清朝時代から未だ固有の習俗・言語を残している高砂族を“生番”、すっかり漢民族に同化して固有の文化・言語を殆ど失ってしまった高砂族を“熟蕃”、あるいは平地に住んでいたところから“平埔族”と呼んでいた。浅井先生は台北に赴任してから、故老の記憶にわずかながら残っている各平埔族に固有の言語を今のうちに採集しておかなければ永久に失われてしまうことに気付き、短期間ではあったにせよその調査につとめたのである。
ケタガラン語やバブサ語の調査はまさに危機一髪、これらの言語が消滅する寸前であった。
【昭和11年】十月所謂「ケタガラン蕃」なる新社の最後の 言語伝承者藩氏腰(足腰立たぬ75の婆さん)を台北まで担ぎこみ一箇月間調査、知っている限りの単語を絞り取る。12月社頭の呉林氏伊排(75の老女)を台北へ招致。同女は実に完全なるトロビアン方言を話し歌謡伝説の知識も深く有能なる伝承者であった。残念なことには滞在一箇月半頃病を得帰郷後病勢重くなり本年【昭和12年】3月4日他界した。いはば歌調査の犠牲になった様なものであって、実に気毒であった。ただ彼女の吹込んだ 歌謡伝説の7枚のレコードは逝きし彼女の思出となり又熟蕃研究の貴重なる寄与となることであろう[昭12b]。
【昭和13年】2月23日より3月6日まで埔里に於て北投蕃語とバブサ語の調査。北投蕃語は若干の単語のみ、伝承者すべて死滅、バブサ語の唯一の伝承者阿緞はTB【結核】なれば命脈計り難し、 生存中に出来るだけ語彙を集めるために調査者は懸命の努力である[昭13d]
なんとも壮絶なものである。
この時の調査の結果は、生前にはついに発表されることがなかった。先生亡きあと蔵書・ノート類・カード・写真などのすべてが AA研に移され、浅井文庫として保管されているが、その中にその時の先生のフィールドノートのみならず、小川尚義教授の遺されたノートも多数見つかった。今となっては調査すべくもないこれら死語となった平埔族諸語資料を整理し公表することがあとに残された筆者の義務であると考え、やっとその一部、タオカス・バブザ・ホアニア・パポラの比較語彙集を発表することができた[Tsuchida 1982](なおバブザ・パポラの民族調査ノートは手つかずのままである。このようなことに興味をもつ研究者が現れて、整理公表して下さる日の一日も早からんことを願うのである)。ケタガラン語の方は未だ資料を整理するに至らず、まことに申し訳ない次第である。昔生蕃と呼ばれていた高砂諸族が、現在、昭和初年頃の平埔族と似たような状態にあるところが多く、消滅する前に少しでも多く資料を採集しておかなければならないので、とてもケタガラン語整理までは手がまわらないというのが実情なのである。
昭和 14・5年頃からはエッセー風の読み物しか現れていないので、どのような研究が行われていたのか不明の部分が多いが、他の人の書いたものに浅井先生の姿が描かれているから引用しておこう。
昭和15年12月から二箇月間、早坂一郎(団長)・金関丈夫・岡田謙・浅井恵倫・宮本延人など台大の教官を中心とした海南島学術調査団が派遣された。主として海南島の黎族を調査したが、言語についての報告がついに発表されずに終わったのは残念なことであった。その時の調査の様子を金関[1943、117]は生き生きと次のように書いている。
同行の浅井教授も健在で、チャールズ給与のヂョニーヲーカーの管理に当たっています。毎日黎の村長さんを相手に言葉の採集をしていますが、或る朝村長さんは姿を見せません。 呼びに遣ると、「あんなもの憶えの悪い人は閉口だ。同じ言葉を何べ んでも繰りかへさせる」と愛想をつかした結果だと判りました。 但しこれは浅井教授には内緒です。
筆者なども同じく、あちこちで頭の悪い人間に分類されているに違いない。
昭和16年4月中旬から 5月にかけて、春山行夫が台湾を一周見学してまわった。台北帝大文政学部土俗人種学研究室を訪ね、宮本延人氏といろいろな話をしていると[春山 1943、220-221]、
そこへ帰りがけの浅井恵倫氏が入って来て、ロオマの人口問題研究所から台大と共同で高砂族の研究をしたいと申込んできたと話される。……システムはイタリアでつくり、専門家が派遣されてむかふで共同研究をする計画であるといふ。 浅井氏が「ユリシイズ」の登場人物のやうに「風と共に」消えると、タイピストの娘さんが同氏の研究の別刷を届けてくる。……
ヨーロッパではすでにドイツがポーランドに侵入し(1939・9)日独伊三国同盟が成立した(1940・9)あとのことである。このような計画もあったのかもしれない。しかし太平洋戦争勃発直前でもあり、この国際プロジェクトは不発に終わった。後年筆者が知っている浅井先生は、今そこの会場のあのあたりに居られたと思ったのに気がついてみると影も形もなく、今日東京に居られたと思ったら明日は金沢に、その翌日は名古屋に、そして次の日は平塚の御自宅にという、まったく神出鬼没の方であったが、すでに台北時代にしてそうだったのかと、在りし日の浅井先生を想い出して思わず笑ってしまうのである。
6 内地帰還
昭和20年8月15日(1945)大勢の人を犠牲にした不幸な世界大戦も、日本の降伏によってようやく終結をみた。台湾は中華民国政府に返還され、台北帝国大学文政学部も(中華民国)国立台湾大学文政学院と改称された。しかし旧台大の教官の大部分はそのまま新しい台大に留用されることとなった。
中国では古来、政変が起こり政権が移ると前の時代の歴史を編訳するのがならわしである。台湾にも編訳館が設立され、浅井先生は国分直一(現梅光女学院大学教授)、池田敏夫(帰還後平凡社勤務、1980年死亡)両氏らとともに編訳館に編入され、それと同時に台大の言語学教室も廃止された。当時の館長は許壽裳(魯迅の友人、後に暴殺された)、主任は揚雲萍(元台湾大学教授、2、3年前に定年退職)。浅井先生は台湾研究組に属し、平埔族諸語のカード資料整理に携わった。昭和22年5月(1947)内地に帰還されたが、引き上げにあたりそれらのカード類を台湾に置いていくよう揚雲萍氏はしきりにせがんだ。しかし歴史学者である揚氏の手許にそれらの資料を置くよりも浅井先生のところにあった方がずっと利用価値があるからと国分教授が揚氏を説得し、ようやくこの資料を持ち出すことができたそうである。もしもあの時そのまま台湾に置いてあったら、貴重な資料が永久に日の目を見ることなく埋れてしまったに違いない。私たちは浅井・国分両先生と揚氏の英断に心から感謝しなければならない。
内地帰還時、浅井先生すでに52歳。生活の基盤をすべて失い、どんなにか心細かったことであろう。英語が達者であったせいか 2 年間ほどアメリカ駐留軍 CIE顧問を勤め、あちこちの文化遺産を視察してまわったようである。昭和24年(1949)国立国語研究所研究員となり日本語の実態調査に参加したあと、昭和25年(1950)金沢大学教授となり、後進の指導にあたることになった。日本言語学会や日本民族学会の評議員となったのもこの頃である。東京都立大学と南山大学でも言語学の講義を受け持っていた。
昭和33年(1958)定年を待たずに金沢大学を辞し、名古屋の南山大学教授となり、没するまで南山大学に所属された。昭和31年から講師として金沢大学に勤め始めた松本克己氏(筑波大学教授を経て現在は静岡県立大学教授)によると、浅井先生はかなりの長期間にわたって東京、金沢、名古屋を二週間に一度のサイクルでぐるぐるまわっておられたという。筆者が浅井先生の面識を得たのは学部学生の頃、つまりアウストロネシア諸語を研究しようかと考えはじめた昭和 31、2 年の頃で、浅井先生というのはあちらと思えばまたこちら、何とも落ち着かない方だなあという印象を持ったのも無理はなかった。福田権一氏(現中京大学教授)によると、金沢では主として研究室に泊り込み、授業は月・火・水・の午前まで、時には早朝から夜までぶっつづけの講義もあるという、まことに変則的なものだったが、金沢大学の前身である四高卒業の大先輩でもあり旧台北帝大の教授でもあったというので、大学内でも浅井先生だけは別格扱いだったようである。お酒はもはやたしなむ程度だったが健啖家で、人のゆうに三倍は食べたという。
しかしいかに精力的ではあっても、こう忙しくてはまとまった研究の出来るわけがない。戦後先生の論文に見るべきものが殆どないのも止むを得ないことであろう。それでも根からの「新しもの好き」の性格は最後まで失われず、たとえばスワデッシュの言語年代学をはじめとする言語の数理的解析や、ウォーフの言語世界観、チョムスキーの生成文法理論などの価値に気付いたのは、日本では浅井先生が他の誰よりも早かったという。しかしこういった新しい考えも学会の講演会などで発表のしっ放しに終わり、書かれたものとしては殆ど残っていない。浅井先生が松本克己氏にかねがねこう話しておられたそうである。「私は論文には書かなかったが、論文にすべきような自分の言語に対する考え方、思想などは授業の時にすべて伝えてある。だから学生のノートを見ればそこに全部書いてある。」 浅井先生が築地ガンセンターに入院され、もはや意識もなくなった頃、北村甫氏(AA 研所長、麗澤大学教授を経て、現在東洋文庫理事長)がお見舞いに伺ったところ、息も絶えだえの先生の枕元で奥様がつくづくこう言われたという。
「この人は本当にしようがない人で、カンボヂアやらニューギ ニアへまで調査に出かけたというのに、なんにも書かないんで すよ。ニューギニアの時なんか帰ったっきりカバンを一度だって開けようともしないんだから。 まあ北村さん、あんたもですか! ダメですねえ!」
まったくのところ、ひとごとではないのである。
論文は発表されなかったが、浅井先生は一種独特の明るい人徳のようなものを持っておられた。日本言語学会の委員会などでも、議論が硬直して気づまりな状態になったような時に浅井先生が入ってこられて何か言うと、それだけで委員会の雰囲気ががらりと明るく変って、幹事役としては大変に助かったそうである(風間喜代三氏談)。
7 民族学・人類学・考古学との関わり合い
『民族学研究会』の古い号を見ていると、小倉進平、服部四郎、野村正良、徳永康元、柴田武などという錚々たる言語学者の名前が見えて目を見張る思いがする。当時は印欧語以外の言語を研究する人は、民族学・民俗学・人類学などの学者とも親しいつき合いがあったようだし、またそれらの分野の素養も深かったようである。
浅井先生もまた例外ではなかった。ネフスキーとの交遊は前述の通りである。講演や研究発表の機会も、日本言語学会よりもむしろ日本民族学会で行われたことの方が多かったし、論文の数も民族・民俗関係のものが全体のほぼ三分の一を占める。しかし専門家から見れば浅井先生の研究はすべてスケッチ風のものにすぎないせいか、あるいは暦のように言語学と民族学・民俗学との境界領域に属するものであるからか、たとえば日本民族学会[1966]でも浅井先生の業績には殆ど触れられていない。民族・民俗に関する先生の個々の論文は確かに表面的なものにすぎないにしても、より大きな地域にわたる比較文化史的な視野に置いて見るならば、一つの重要な情報を提供してくれる資料となるのであり、やはりそれなりの価値を持つものとして評価さるべきものではあるまいか(大林大良氏談)。
浅井先生は考古学にも大きな関心を寄せておられた。平埔族が現在どうして山脚地帯に住むようになったかを知るには、どうしても先史時代の研究が必要であるとして、発掘調査というと必らず顔を見せた。埔里の大馬隣遺跡(おそらくパゼッヘ族の遺跡)の発掘には自から参加さえした[昭 13c]この時の原資料は台湾に残したがコピーは国分先生が持ち帰り、浅井先生はそれを早く整理公表するよう、いつも気にかけておられたそうである。
8 浅井先生の功績
浅井先生の他の重要な論文[昭 13a、昭 15b、昭 28a]や著作[昭 7a、昭 14c]などについて解題を付す余裕がなくなってしまった。
専門分野を浅井先生とほぼ同じくする筆者が、はるかな後輩としての失礼をあえて顧みず、先生の斯界に対する功績を筆者なりに要約してみるならば、おそらく次の二点になるであろう。
(1)ヤミ語をはじめとする高砂諸語の言語構造や伝説を、言語学者として世界ではじめて(それも英語で)明らかにしたこと。
(2)消滅寸前にあった平埔族諸語の採録につとめ、しかもそれら(浅井先生ばかりでなく先学のも含めて)の貴重な資料(の大部分)を無事日本に持ち帰ったこと。
この第二点については、多少の説明を要する。戦後中華民国国民政府が台湾を接収し、日本人が内地に帰還する際、リュック一杯の私物しか持ち出しは許されなかった。浅井先生は高砂族諸語資料も地球上のどこかにあって後に誰かが利用できればよいと考え、はじめは台湾に置いて去るつもりだったようである。しかし当時は台湾で高砂諸語を専門とする言語学者もなく、台湾にそれらを残してもいたずらに死蔵されるだけだと考えた人も多かったらしい。国分直一氏が揚雲萍氏を説得したことはすでに述べた。そこで何人かのアメリカ人に依頼し、資料の持ち出しに成功したのである。AA研所在の浅井文庫のうち、蔵書はほんの数点を除いてはすべて戦後の内外の出版物ばかりで貴重図書はない。浅井文庫の最重要部分は、やはり平埔族関係のフィールドノート、カード、写真類であろう。
しかし全部が無事日本に着いたわけでもないらしい。渕脇[1938]によると台北帝大附属図書館の書庫の片隅に、台湾史・台湾民俗誌の大先達・伊能嘉矩氏の遺した伊能文庫の一部があり、その中に「蕃人言語資料」ならびに「蕃語彙集(1)ペイポ族ノ部」とそれぞれ伊能氏の手で墨書された袋が、少なくとも昭和10年夏頃にはあったようである。これに類する資料は浅井文庫中には見当らず、また台大図書館にも、筆者が1969年から70年にかけて台大図書館司書・曹永和氏の協力の下に捜してみたがついに見つけることができなかった。
行方不明となったのは平埔族資料の一部だけではない。昭和15 年(1940)秋、浅井先生はマニラに赴き、シェアラー(前述)の旧蔵書(フィリピン諸語関係)を一括購入し台大にもたらした。その時たまたまマニラのサラゴサ家に比島関係の古書のあることを発見し、これも同時に台大に舶載され、 それぞれシェアラー文庫・サラゴサ文庫として台湾大学図書館にある筈なのだが (後者については「台北帝国大学所蔵サラゴサ文庫目録」『南方民族』第七号第一・二号、1-27(昭和 18 年 12 月)参照)、 筆者が書庫に入れてもらってざっと調べたところでは見つからなかった(なお精査を要する)。 またマニラのベラルデ家に伝わるフィリピン関係の古書約350冊も、 昭和12・3年頃から三カ年にわたる交渉の末、浅井先生をはじめとする多くの方々の協力のおかげで、 昭和16年4月、やっと東京目白の南亜細亜文化研究所にもたらされた(「ベラルデ文庫の購入」『南亜細亜学報』第一号、226-227(昭和17年12月)参照)。 ところが不思議なことに、このベラルデ文庫の戦後の行方も杳としてつかめないのである。 【その後、上智大学に保管されていたことが判明した。現在では整理されて、利用可能の状態になっているとのことである。】
浅井先生の関係した多くの貴重図書が、 終戦直後の混乱期に所在不明となったのはまことに残念なことだが、 一つだけ朗報がある。AA研に収められた浅井文庫を調べてみたところ、 マニラ本『スピリツアル修行』のフィルムが発見されたことである。 16 世紀から 17 世紀前半にかけて一般に「キリシタン文献」と称される国語史研究上重要な文献が 天草や長崎で出版されたが、 『スピリツアル修行』もその一つである。 これまでのところ世界中で三本しか知られておらず、 一つは長崎(大浦天主堂、重要文化財)、一つはスペインの Valladolid、 そして残る一つはマニラのフランシスコ会修道院にあったが、 マニラ本は今次大戦の時に焼失して現存しない。ところが今回浅井文庫で発見されたフィルムは、 まさにそのマニラ本であることが判明した。昭和19年10月19日撮影とあり、 空襲によって原本が烏有に帰する寸前に浅井先生がフィルムに収められたものらしい。 現在豊島正之君(東大言語学科博士課程)が他の二本との校合を進めつつあり近い将来その詳細が、 発表されることであろう。 浅井先生がどのような目的でこの本を撮られたのかは不明ながら、これもまた浅井先生の意図せざる大きな功績の一つに教えてよいであろう。
9 結びにかえて
浅井先生にはお子さんがなかった。台北では新公園近くの赤い煉瓦建てのアパートの二階十畳二間に、幾美夫人と犬を相手に暮らしていた。戦後平塚の御自宅でも、部屋の中に二匹の犬を飼っておられた。お客さんが見えると犬が喜んでオシッコをそこら中にもらすから、奥様が雑布を持って拭いてまわるのである。先生が食べ物を噛んでそれを犬に口づてに与え、また犬がかんだ食べ物も先生が食べるという、先生と犬たちは共食の関係にあった。旅先から出した犬宛の手紙までが遺っている。筆者は犬好きだからどうということもなかったけれども、犬をさわったそのままの手でお茶や菓子を供されて閉口された方も多かったに違いない。
お子さんはなかったが、お弟子さんには恵まれた方であった。金沢大学から先生と一緒に南山大学に移った福田権一氏(中京大、カンボヂア語)、黒川洋氏(麗沢大、マラガシ語、言語人類学)らをはじめ、南山大学では小田真弘氏(中京大を経て現在徳島文理大学、ポリネシア諸語)【補遺:1996年3月22日死亡】、佐藤徳潤氏(愛知県立大、スペイン語学)など、多くのお弟子さん達が先生の最後を看取られたのみならず、あとに残された幾美夫人をも時々訪ねて老後の寂しさをお慰めし、さらには幾美夫人が 1983年7月3日老衰によって亡くなられた時(享年94歳)には、佐藤徳潤氏が同じ真宗大谷派の僧であることの縁もあり、導師となって葬儀が行われたのである。没後ネクロロジーも書かれることなく忘れ去られる学者が多い中で、浅井先生は日本ばかりでなく台湾でも追悼文が捧げられた[衛 1970a、b]。浅井先生の一生は波乱に満ち、何かと話題も多かった方であったが、やはり幸せな一生だったと言うべきであろう。先生の御法名は博言院釋恵倫。幾美夫人は妙徳院釋尼寂美。お二人のお墓は先生の故郷小松の妙永寺にある。
引用文献
Boas, F. 1911-12 Handbook of American Indian Languages, 2 vols. Washington, Government Printing Office
渕脇英雄 1938 「伊能文庫に就いて」『愛書』第10輯、187-196
春山行夫 1943 『台湾風物誌』生活社
金関丈夫 1943 「瓊海雑信」『胡人の匂ひ』台北、東都書籍、116-124.
『南方文化誌』(法政大学出版局、1977)121-126に再録(一部 削除あり)
加藤九祚 1976 『天の蛇、ニコライ・ネフスキーの生涯』河出書房 新社
馬渕東一 1948 「故小川尚義先生とインドネシア語研究」『民族学研究』第13巻第2号、62-71.馬渕[1974]第3巻、485-500 に再録。
――― 1954 「高砂族に関する社会人類学」『民族学研究』第18巻第1.2号、86−104。馬渕[1974]第1巻、443-483に再録。
――― 1974 『馬渕東一著作集』全3巻。社会思想社
невский Н. А. Материалы пo Говорам Языка Цоу. Москва Ленинград Издательство Академии Наук СССР
日本民族学会(編)1966 『日本民族学の回顧と展望』日本民族学教会。
Ogawa, N. and E. Asai 1961-66 Comparative vocabulary of Formosan Language Part 1 and 2, Journal of Austronesian Studies 2.2:5-24(1966).
Sheerer, O. J. 1906 Zur Ethnologie der Inselkette zwischen Luzon und Formosa, Mitteilungen der Deutchen Gesellschft für Natur- und Volkenkunde Ostasiens XI. 1:1-31. Tokyo.
――― 1908a The Batan Dialect as a Member of the Philippine Group of Languages. Manila, Bureau of Printing.
――― 1908b Ein ethnographischer Bericht uber die Insel Botel Tobago mit Sprachvergleichende Bemerkungen. Mitteilungen der Deutchen Gesellschft für Natur- und Volkenkunde Ostasiens IX. 2: 145-212.
鳥居龍蔵 1899 『人類学写真集 台湾紅頭嶼之部』東京帝国大学理学大学。鳥居[1976]第11巻、329-353に再録。
――― 1902 『紅頭嶼土俗調査報告』東京帝国大学。鳥居[1976]第11巻、329-353に再録。
――― 1910 Etudes Anthropologiques. Les Aborigènes de Formose. (1r Fascicule) Introduction. 東京帝国大学理科大学紀要第28冊 第6編。鳥居[1976]第5巻、1-740に邦訳。
――― 1912 Etudes Anthropologiques. Les Aborigènes Formose. (2e Fascicule) Tribu Yami. 東京帝国大学理科大学紀要第32冊第4 編。鳥居[1976]第5巻、75-120に邦訳。
――― 1976 『鳥居龍蔵全集』朝日新聞社
トルベッコイ、N. S. 1939 『音韻論の原理』( Grundzüge der Phonologie ) (長嶋善郎訳)岩波書店(1980)。翻訳は1958年の再版本による。
土田 滋 1970a 「故浅井恵倫教授とアウストロネシア言語学」『AA研通信』第10号、2−4。
――― 1970b 「浅井恵倫教授著作目録 訂正及び補遺」『AA研通信』第11号、19。
――― 1971 「彙報(浅井恵倫先生の訃)『言語研究』第58号、98-99.
――― 1982 A comparative vocabulary of Austronesian languages of sinicized ethnic groups in Taiwan: Part I: West central Taiwan. 『東京大学文学部研究報告7 語学文学論文集』1-166。
移川子之蔵・宮本延人・馬渕東一 1935『台湾高砂族系統所属の研究』刀江書院。
衛 恵林 1970a 「懐念浅井恵倫教授(上)(下)」『中央日報』中華民国59年1月14,15日。
――― 1970b 『語言学家浅井恵倫教授逝世』『国立台湾大学考古人類学刊』第31・32期合刊(1968),104-105.
浅井先生および関連事項のことにつき種々御教示いただいた方の御名前は次の通りである。ここに記して感謝の意を表したい。ただし文責はあくまでも筆者にある。また紙数の都合上、聞き書きの全部を載せることは残念ながらできなかった。諒とされたい。
(五十音順、敬称略)池端雪穂・王育徳・大林太良・風間喜代三・北村甫・国分直一・佐藤徳潤・徳永康元・豊島正之・永積昭・仲田浩三・平山久雄・福田権一・松本克己・馬渕東一・丸山昇・山本達郎。
浅井恵倫教授年譜
明治28年12月25日(1894): 石川県小松市北浅井町8731、妙永寺に生る。
明治40年4月8日(1907): 石川県立小松中学入学
明治45年3月25日(1912): 同校卒業
大正元年9月10日(1912): 第四高等学校入学
大正4年6月29日(1915): 同校卒業
大正4年9月29日(1915): 東京帝国大学文科大学入学
大正7年9月10日(1918): 同校卒業(言語学科専攻)
大正11年6月5日(1922): 福井県立福井商業学校教諭ニ任ズ 福井県三級俸給与当分百二十五円
大正12年5月8日(1923): 小松町立小松商業高校教諭ニ任ズ 石川県三級俸給与当分百二十五円
大正12年8月25日(1923):公立実業高校教諭ニ任ズ 石川県高等官八等ヲ以テ待遇セラル 小松町立小松商業学校教諭ニ補ス 七級俸下賜 当分年俸千六百五拾円
大正13年4月5日(1924):講師嘱託年手当六百円給与第五臨時教員養成所 大阪外国語学校講師嘱託年手当千百円給与
大正15年3月1日(1926):任大阪外国語学校教授 叙高等官七等 内閣 十級俸下賜 文部省
大正15年3月15日(1926): 叙従七位 宮内省
昭和3年6月1日(1928): 叙正七位 宮内省
昭和5年12月1日(1930): 叙高等官五等 内閣
昭和8年10月20日(1933): 言語学研究ノ為メ満一年半阿蘭国ニ在留ヲ命ス 文部省
昭和9年3月31日(1934): 任地出発、在外研究
昭和11年2月24日(1936): 和蘭国立ライデン大学文科大学ドクトル・イン・デ・レテルン・エン・ワイスベヘルテ(文学哲学博士) ノ学位ヲ得
昭和11年12月31日(1936):帰朝
昭和11年5月15日(1936): 任臺北帝国大学助教授 叙高等官四等 内閣 本俸七級下賜 言語学講座 担任ヲ命ス 講座職務俸四百九十五円下賜 台湾総督府
昭和12年3月31日(1937): 陞叙高等三等 内閣
昭和12年5月1日(1937): 叙勲六等授瑞宝章 賞勲局
昭和12年6月4日(1937): 任臺北帝国大学教授 叙高等官三等 内閣
昭和12年6月4日(1937):本俸九級俸下賜 文政学部勤務ヲ命ズ 言語学講師担任ヲ命ズ 講座職務俸九百九十円下賜 台湾総督府
昭和16年3月31日(1941): 七級俸下賜 台湾総督府
昭和16年6月7日(1941): 叙勲五等授瑞宝章 賞勲局
昭和16年9月30日(1941): 陞叙高等官二等 内閣
昭和16年12月1日(1941): 叙正五位 宮内省
昭和17年2月14日(1942): 叙勲四等授瑞宝章 賞勲局
昭和18年3月15日(1943): 補南方人文研究所員 台湾総督府
昭和18年6月30日(1943): 六級俸下賜 台湾総督府
昭和18年9月30日(1943): 東京帝国大学文学部講師嘱託 東京帝国大学
昭和19年1月10日(1944): 東京帝国大学文学部講師嘱託ヲ解ク 同上
昭和20年11月15日(1945):中華民国国立台湾大学文政学院ニ留用セラル 中華民国台湾省政府
昭和20年12月31日(1945):右留用ヲ解ク 同上
昭和21年9月23日(1946): 臺湾省編譯館ニ留用セラル 同上
昭和21年2月26日(1946): 叙勲三等授瑞宝章 賞勲局
昭和21年3月31日(1946): 陞叙高等官一等 内閣
昭和21年5月30日(1946): 叙従四位 宮内省
昭和22年4月24日(1947): 右留用ヲ解ク 台湾省政府
昭和22年5月8日(1947): 佐世保上陸
昭和22年6月7日(1947): 二十六号俸ヲ給ス 台湾総督府残務整理事務所昭和21年勅令第287号ニ従リ自然退官
昭和22年7月20日(1947): 第九軍東北軍政府CIE顧問を嘱託す。
昭和22年9月1日(1947): 東京大学文学部講師を命ずる。
昭和24年1月30日(1949): 第九軍東北軍政府CIE顧問を解く。
昭和24年3月8日(1949): 国立国語研究所研究員を命ず。 二級官同格
昭和24年6月1日(1949): 文部教官に任命する。二級に叙す。国立国語研究所勤務を命ずる。
昭和24年12月15日(1949): アメリカ合衆国へ出張を命ずる。
昭和25年4月8日(1950): 帰朝
昭和25年11月27日−昭和26年3月31日(1950-1951): 金沢大学講師(非常勤)に任命する。
昭和26年5月11日(1951): 願により本官を免ずる。
昭和26年5月11日(1951): 文部教官に任命する。金沢大学教授に補する(法文学部勤務)
昭和30年4月1日(1955): 国立国語研究所研究員に併任する(任期は昭和31年3月31日までとする)。
昭和31年4月1日(1956): 国立国語研究所研究員に併任する(任期は昭和32年3月31日までとする)。
昭和32年8月30日−昭和33年3月12日(1957-1958): ベトナム・ラオス・カンボヂア・タイへ出張を命ずる。
昭和33年12月20日(1957): 金沢大学教授退職。
昭和33年12月21日(1957): 南山大学教授に任ずる。
昭和35年4月1日(1960): 南山大学文学部勤務を命ずる。
昭和39年8月24日−昭和40年1月29日(1964−1965): 南山大学 東ニューギニア調査団の一員として、東ニューギニア高地地帯のパプア族の言語調査。
昭和44年10月9日(1969): 直腸癌のため築地ガンセンターにて
逝去。享年73歳
墓は、妙永寺(小松市北浅井町ハ73)にある。
著書・論文目録
御文 :白骨の章/Pri Homa Vivo/浅井恵倫
[エスペラントに翻訳された経典のリスト] として紹介されている。
年代は不詳であるが、
エスペラント語へ、御文(「五帖御文ごじょうおふみ」
(第五帖目、第十六通、白骨の章)蓮如上人)を翻訳している。
大正13 実用エス和対照会話(浅井恵倫.,セリシェフ.,川原次吉郎) 日本エスペラント社 大13 カロ1-201
財団法人三康文化研究所附属三康図書館(さんこうとしょかん)
〒105-0011 東京都港区芝公園4-7-4:の蔵書(追加:'03-10-6, 佐藤)
昭和1 「人工口蓋の即席製作法」『音声学協会会報』1号、p.10.
昭和1 「回教暦の話」(掲載誌不明)6pp.
昭和2 「人工口蓋の即席製作法」『音声学協会会報』2号、p.6
昭和2 「新嘉坡火焼歌解説」(掲載誌不明)90-101
昭和3 「馬来半島に於ける馬来語音の地方的差違に関する 若干の考察」『亜細亜研究』第6号。22pp.(謄写版)
昭和4-5a 「紅頭嶼民俗資料」『民俗学』第1巻第4号:285-289, 第1巻第6号:420-425, 第2巻第1号:66-69.
昭和4-5b Skizoj de Indonesiaj Popoloj[インドネシア民族概説]La Revuo Orienta Vol. X. No.2: 58-59, No.3:88-89, No.4:117-118, No.5:150-151, No.7: 220-221, No.8: 252-253, No.9: 284-285, No.11: 344-345, No.12: 376-378, Vol.XI, No.1: 15-16.
昭和6a 「台湾蕃族民族資料」『民俗学』第3巻第1号:52-54, 第4号:235-237.
昭和6b 「ブヌン族・ツオ族調査報告(豫報)」『静安学社報告』第1。3枚(表紙とも)(謄写版)。大阪、静安学社。
昭和6c 「パラウ語の音韻法則について」『静安学社報告』第3.3枚(表紙とも)(謄写版)。大阪、静安学社。
昭和7a 「台湾蕃曲レコード第一輯」レコード3枚。附解説書、8pp. 大阪外国語学校内、大阪東洋学会。
12−A 1,四社蕃
2,同 MIYATUSU
12−B 1,カナブ蕃 PIUUNA
2,同 MUSOWARARAU
3,同 鼻歌
13−A 南部熟蕃(シライア族
(タバニ)系統の熟蕃−高雄州
濃)
1,公廨祭歌
2,KINISAAT
13−B 1,請四方
2,呪文
14−A 1,NAHOWAN
2、KUBA
14−B 1,下無農(ヒブロ)
2,水脚(ツイクンカ)
昭和7b 「最近のインドネシア学の展望」(掲載誌不明):7-15.
昭和9 Some observations on the Sedik language of Formosa, 『東洋学叢編』第1冊(大阪 静安学社編、編者代表・石田幹之助、石濱純太郎)pp.1-84(左より)。附写真8葉。東京、刀江書院。
昭和10 (小川尚義と共著) 『原語による台湾高砂族伝説集』783+55pp. 台北、台北帝国大学言語学研究室。東京、刀江書院。昭和42年再版。(昭和41年頃、台北で海賊版)
昭和11a (金関丈夫・三守宋悦と共著) 「フィリピン群島ネグリトの人類学的研究、第1篇手掌理紋に就いて」『人類学雑誌』第51巻第2号68-79.
昭和11b A Study of the Yami Language, an Indonesian Language Spoken on Botel Tobago Island. Leiden, J. Ginesberg. 93 pp.
昭和12a 「サンバレス・ネグリトの言語と土俗(1)」『南方土俗』第4巻3号:1-11.
昭和13a 「和蘭と蕃語文書」『愛書』第10輯:10-31.
昭和13b 「台湾蕃語音韻組織」『東京人類学会・日本民族学会連合大会第3回記事』:63-65.
昭和13c 「埔里大馬隣石棺層試掘報告」『南方土俗』第4巻4号:30-31.
昭和13d 「台大言語学教室の平埔蕃調査」『南方土俗』第4巻4号: 35
昭和13e 「高雄州墾丁寮土器」『科学の台湾』第6巻第3号、裏表紙。
昭和14a 「バタンとヤミの比較、その土俗品について」『南方土俗』第5巻3.4号合併号:1-5.
昭和14b 「紅頭嶼土人の暦組織」『台湾総督府博物館創立30年記念論文集』:235-245. 台北、総督府博物館内、台湾博物館協会。
昭和14c Gravius's Formulary of Christianity in the Siraya Language of Formos, ed. by E. Asai 。Memoirs of the Faculty of Literature and Politics, Taihoku Imperial Unversity Vol.IV, No.1. 10+301 pp.
昭和14d 「温蕉日」『南方土俗』第5巻3.4号合併号:155-156.
昭和14e 「古代爪哇語の発生と発展」第2回日本言語学会大会講。於東京帝国大学。昭和14年5月13日
昭和14-15 「爪哇論語
」『台大文学』第4巻第4号:197-203, 第5巻第1号:17-19, 第5巻第3号:36-39.
昭和15a 『速成馬来語会話(南洋旅行者のための)』3+101pp. 東京、三省堂
昭和15b 「校本日本訳語」『安藤正次教授還暦祝賀記念論文集』:1-56. 東京、三省堂。
昭和15c 「二つの問に」『台湾警察時報』第290号:104-109.
昭和16 「先生と先生」『民俗台湾』第1巻第2号:11.
昭和17a 「古代爪哇文学」新亜細亜叢書第4巻『南方亜細亜の文化』:163-176. 東京、大和書店。
昭和17b 「機械と名人気質」『民俗台湾』第2巻第5号:23
昭和25 「記述言語学の将来」第12回日本言語学会大会公開講演。昭和25年6月3日、於東京大学
昭和28a 「台湾言語学は何処まで進んだか?」『民族学研究』第18巻第1・2号:12-19.
昭和28b The Sedik Language of Formosa. Cercle Linguistique de Kanazawa, Kanazawa University. 84pp.
昭和28c 「言語比較の確率と其の数理的処理」第29回日本言語学会大会公開講演。昭和28年10月24日、於南山大学。
昭和30 「台湾語の分類」『日本人類学会・日本民族学協会大連合大会第10回記事』:62-66.
昭和31a 「言語比較に於ける偶然率」『日本人類学会・日本民族学協会連合大会第11回記事』:155-159.
昭和31b 「鬼才 Benjamin Lee Whorf」『民族学研究』第21巻:225-229.
昭和32 「マルコフ方法とその後」第36回日本言語学会大会 公開講演。昭和32年5月25日、於岡山大学。
昭和33a 「Dact理論」日本民族学・人類学大会発表。於新潟。
昭和33b 「東南アジアの言語相」第38回日本言語学会大会 公開講演。昭和33年5月24日、於天理大学
昭和33c 「グロトクロノロジ所感」『言語研究』第35号:127-128.
昭和33d 「東南アジアに於ける民族移動及び文化接触の相対度の計算に言語年代学の応用」『日本人類学会・日本民族学協会連合大会第13回記事』:172-173.
昭和34a Non-linguistic data taken from field notes of the linguistic survery in South-East Asia 1957-1958. (新編南海異聞類聚巻之壱―東南アジア民俗分類資料)『民族学研究』 第23巻:13-18.
昭和34b 「インドネシア語の非インドネシア的要素」『日本人類学・日本民族学協会連合大会第14回記事』:75-76.
昭和34c 『メコン紀行―民族の源流をたずねて』(東南アジア稲作民族文化総合調査団編)。222pp.東京、読売新聞社。
昭和34-35 (浅井恵倫他11名)「東南アジア稲作民族文化総合調査座談会(その1)(その2)『民族学研究』第22巻3・4号:111-134, 23号1・2号:118-130.
昭和35 「言語の十進法分類」『日本人類学・日本民族学協会連合大会第15回記事』:95-97.
昭和39a 「横浜方言の1879-1964の推移」第50回日本言語学会研究発表。昭和39年5月17日、於国際基督教大学。
昭和39b 「AA諸国の民族と言語」『言語生活』第153号:18-26.
昭和40a 「ニュウ・ギニア原住民の生活と言語」第52回日本言語学会大会公開講演。昭和40年5月15日、於早稲田大学。
昭和40b 「東ニューギニアのDuna族の親族名称」『日本人類学会・日本民族学協会連合大会第20回記事』:95-97.
昭和41 Malagasy and Tsou. 第11回太平洋学術会議言語学部会発表。昭和41年9月2日 於東京大学
昭和42 「再版発行を祝して」『原語による台湾高砂族伝説集』:[i-ii].東京、刀江書院。
昭和44 「新村先生の追憶」『言語研究』第54号:12-13.
(つちだ・しげる 東京大学助教授)